NPO法制定過程における新党さきがけおよび与党NPOプロジェクトの動きについて、堂本暁子氏に3度のインタビューを実施した。堂本氏は、TBS勤務を経て、1989年参議院選挙に日本社会党公認で出馬し初当選(無所属)。1994年12月に社会党・護憲共同を辞し、新党さきがけに入党。1995年参議院選挙ではさきがけ公認で比例区から出馬し再選。NPO法制定過程には、さきがけNGO検討部会座長や与党NPOプロジェクト共同座長などの立場で深く関与した。2001年には千葉県知事選挙に無所属で出馬し当選、2009年まで県知事を務めた。

なお、インタビューの1回目は2012年3月23日に日本NPOセンター会議室で実施(聞き手:辻利夫・原田峻)、2回目は2012年10月1日に堂本事務所で実施(聞き手:辻利夫・原田峻)、3回目は2013年1月18日に堂本事務所で実施した(聞き手:山岡義典・辻利夫・原田峻)。以下は、3回のインタビューの内容を辻利夫・原田峻が記録・編集した。

  • 【第1回】日時:2012年3月23日(金)17:30~19:00 場所:日本NPOセンター会議室
    インタビュー担当:辻 利夫・原田 峻
  • 【第2回】日時:2012年10月1日 場所:堂本事務所(千葉市)
    インタビュー担当:辻 利夫・原田 峻
  • 【第3回】日時:2013年1月18日 場所:堂本事務所(千葉市)
    インタビュー担当:山岡義典、辻利夫・原田 峻

 

インタビュー本編

辻 堂本さんは、最初は社会党から参議院選に立候補でしたか。

堂本 最初は1989年7月の参議院選に当時社会党の党首だった土井たか子さんに誘われて、入党はしませんでしたが、社会党の公認を受けて立候補しました。当選し、社会党・護憲共同という会派に所属しました。「マドンナ旋風」といわれ、大勢の女性が当選した中の一人です。

辻 2期目が1995年の参院選で、そのときは新党さきがけから出ましたね。さきがけに移ったのは94年12月で、すぐにNGO支援検討部会をつくって座長となり、市民活動促進の与党3党プロジェクトにさきがけの担当として入りました。そもそも、堂本さんが市民活動団体の法人化に関心をもたれたのはいつ頃からですか。

堂本 1992年にリオ・デ・ジャネイロで開かれた地球環境サミット(国連環境開発会議=UNCED)の前あたりからです。リオの1年前の1991年8月にジュネーブで開かれたリオ・サミットのPrepCom(準備会議)に出席したのですが、驚いたことに日本のNGOが一人もいなかったのです。外国のNGOは数多くいるのになぜ日本はいないのか、危機感を抱きました。NGOの参加の多かった理由は、UNCEDの事務局長だったモーリス・ストロング氏が国連の経済社会理事会に登録されていないNGOの参加も認めたからです。「経社理(国連経済社会理事会=ECOSOC)に登録されていないNGOでも来い」と言ったのです。だから数多くのNGOが世界中から集まった。そこで事務局長が何をしたかというと、ジュネーブの国連本部で通常、政府代表が議論する会議室の隣の部屋で、政府代表の審議と並行して、NGOが同じテーマで議論できるようにしたのです。例えばBio-diversity(生物多様性)について議論が進んでいれば、NGOもBio-diversityについて、climate change(気候変動)について議論していれば、NGOもclimate changeについて議論するといった具合でした。しかも、毎日、朝8時からNGOは集まって、当日の役割分担など、打ち合わせを行い、活発に活動しました。

このPrepComに日本から最初に参加したのが岩崎俊介さんでした。NGOのなかでもリーダー格の岩崎駿介さんが来たのですから「初めて日本人のNGOが来た」ということで歓迎されました。同時に岩崎さんは、日本には公害反対運動、自然保護の活動など、環境関係の市民活動は盛んなのに、リオ・サミット(国連環境開発会議)の準備会議の場に日本人が一人も来ていないのに驚く。それで彼は、私宛に「日本はNGO法を作らないと、大変なことになる。あとはよろしく頼む」という書き置きを残して帰国したのです。

私がジュネーブに着いた時、ちょうど岩崎さんが帰ったあとで、入れ違いになったわけです。今でもあのノートは取っておけば良かったと思うのですけど。そこで私は岩崎さんの意を受けて、NGOミーティングに出ると、「あ、また、日本人が来た」と歓迎されました。私はもともと市民運動をやっていましたから、業界団体の人とは違い、外国の人たちと意気投合し、腹を割って話し合いました。彼らの本音は「日本は何をしているんだ。」といった感じでした。

日本政府はその頃、「NGOは反政府的存在」との認識が強く、日本からは政府系の公益法人とか業界団体の人しか参加を呼びかけていなかったようです。だからネクタイをした業界団体の人が、NGOの人たちの中に入っていっても、水と油だから、受け入れられるはずがないのです。業界団体の人たちは準備会合に出ても基本的な立場がちがうので肌が合わないわけです。

日本のNGOに法人格がないだけではなく、当時はECOSOCに登録するのは難しかった。ECOSOCの規定で、認可されていたのは日本赤十字とか創価学会系とか3つぐらいしかなかったと思います。なぜかというと、ECOSOCの規程はすごく厳しくて、「何平米の事務所が無ければいけない、職員は何人いなければいけない、これだけの資金がなければいけない」と細かく決まっている上に、法人格も必要でした。それで日本のお金の無い市民団体は法人格もないし、認めてもらえるはずがない。ましてや政府も認めようとしない、対立関係にあった。反原発などはまさにそのいい例だった。

私の場合は、既に国会議員になっており、90年に国会議員の国際的なNGOだった「GLOBE」(地球環境国際議員連盟)に入って活動していたので、NGOとして認めてもらい、国連本部に入る許可カードを持っていたので、みんなが受け入れてくれました。

ジュネーブに来て初めて私も、「こうやって実際、みんな活発に各国のNGOが動いているのだ」とわかった。モーリス・ストロングはそれを、「超法規」的にやったわけです。国連のルールとしては「ECOSOC認定のNGOだけがオブザーバーで発言できる」というふうに、今までずっとやってきたわけですから。

なぜ超法規的に出来るようになったかと言うと、1989年にベルリンの壁が壊れ、時代が大きく変換した時だったからではないでしょうか。それまで東西の対立で、冷戦構造の時代には国連は安保理が中心で、国家間の交渉が中心でした。しかし、ベルリンの壁の崩壊という大きなパラダイムシフトがあり、東西の対立から南北関係を重視する動きが加速し、国家主権から地球市民、市民主権へと移行する中で、国連でもECOSOCが開催する国際会議が積極的にNGOに開らかれていくようになりました。まず環境でリオ・サミットがあり、これが20世紀最後の環境会議と言われたわけですが、続いてウィーンで国際人権会議(1992年)、カイロでの国際人口開発会議(1994年)、翌年に北京で第4回世界女性会議、首相の村山さんが参加したコペンハーゲンでの世界社会開発サミット(1995年3月)、さらにイスタンブールでハビタット(国連人間居住計画)の会議、というふうに一連の国際会議が開かれ、積極的にNGOが参加しました。その先鞭を切ったのがリオ・サミットだったのです。

ベルリンの壁が崩れた年(1989年11月9日)の7月に参議院選挙があって、私は国会議員になっていました。議員の海外視察というのがあの頃盛んで、海外に行くことになったのですが、「ベルリンに行こう」と言い出したら、「ああ、行こう行こう」ということになり、私のグループは東ベルリンに行ったわけです。そうしたら、ちょうどブランデンブルグ門が解放された直後で、まだ東ドイツに日本の領事館があって東ベルリンに行くことができた。銃弾の痕があるようなところもあったけれど、その時にNGOがいっぱいベルリンに来ていて、それでブランデンブルグ門の真ん中の芝生のところに、みんなジーパン姿で寝っ転がって、「これから世界が平和になる」と体で感じているようでした。ジャズをがんがん演奏していたり、第九をオーケストラがブランデンブルグ門の真ん中で演奏していたり。私は、ベルリンの壁を金槌で叩いて…。ジュネーブに行ったのはその翌年。だから、非常に世界が大きく変わるということを実感した。

それをきっかけにして市民活動、NGOが一つの勢力として力を持つようになった時に、ちょうど89年頃からリオ・サミットの準備がスタートする。その前に、後のスウェーデン首相になるブルントラント女史が委員長を務めた「開発と環境に関する世界委員会」(1984年国連に設置)が始まって、そこでサステナビリティという言葉が初めて出てくるのです。それを考えたのはIUCN (世界自然保護連合)なのです。その辺から市民パワーの方にシフトして、ブルントラントのようなすごい女性首相が出てきて、リオへつながっていくわけです。

20年前の1972年のストックホルムでの「国連人間環境会議」の時は、水俣病の患者さんなどが参加し、日本の存在は目立っていました。我が国は、戦後、経済の成長を追い求める中で、水俣、新潟、四日市、川崎などを初め、全国で大気汚染、河川の汚濁などによる公害の被害が深刻化し、公害反対運動が高まりました。と同時に、自然環境の破壊にも国民は危機感を抱き、環境保全の運動が全国的に広がりました。こうした市民運動のうねりの中で、政府は公害関係法を制定し、1971年には環境庁を設置しました。初代長官に就任したのが大石武一氏です。1972年にストックホルムで開かれた「国連人間環境会議」に出席した大石環境庁長官は、「日本国は経済的には発展したけれども、大気は汚れ、河川は汚濁し、貴重な自然が破壊されるという大きな間違いを起こした。今後、生態系の保全と人間の共存や安全を」と、反省の念を込めた名演説をし、注目された。

この時、不自由な体を押して水俣やカネミ油症の患者さんたちがストックホルム入りし、外国の参加者はショックを受けた、とのことですが、それは公害先進国日本が世界の目に晒された瞬間でもありました。「公害列島日本」と言われた時期で、日本の政治・行政・経済界は相変わらず経済優先、「それ行け、どんどん」と高度経済成長を目指していました。

話をジュネーブに戻しますが、PrepComでは2本の条約と平行してアジェンダ21—持続可能な開発のための人類の行動計画(リオ・サミットで採択された文書)の検討をしていました。その内容が科学的視点に偏っており、人間が行うべき具体的行動が書き込まれていないことに気づき、明確に人間の行動を明記すべきであると声を上げたのが女性たちです。アジェンダ21には、初めは第1節社会的・経済的側面と第2節開発資源の保護と管理、しか無かった。いくら環境のことをやるからといって、やはり人間に関係があるのだから、女性や若者、労働者など9つのグループの行動指針となるセクション(節)を追加すべきである、との要望活動を展開したのです、その結果、第3節に、「主たるグループの役割の強化」が追加された。これは今やリオ・プラス20でも言われている9つのステークホルダーです。

最初は、女性を入れようということで、女性のNGOが火をつけました。この間亡くなったワンガリ・マータイだとか、アメリカのベラ・アブザク(ニューヨークに本部をおく「女性環境開発機構=WEDOの会長」とか、タンザニアのモンゲラという、日本でも知られている世界各地で活躍していた力のある「NGOおばさん」たちが国連参加国の賛同を得ようと署名運動を始めました。私がgenevaに着くと「あ、日本人が来た」というので、「アキコ、これを日本の大使に持って行って、日本の賛同をもらってほしいの」と言われた。早速、日本の赤尾大使に持って行った。もちろん日本も賛成したのですが、私と赤尾大使が話し合っているところをたまたま通りかかったオーストラリアの女性大使からは、「そんなの1か月も前の話よ、日本はまだやってないの?」と言われた。もし私がジュネーブに行かなかったら、日本は賛成国に入りませんでした。翌日の国連新聞に、「日本のNGOが初めてやってきて、日本もサインをした」というのが見出しになりました。それくらい日本のNGOは珍しい存在だったということです。

ジュネーブで始まったアジェンダ21にセクション3を追加しようという女性たちの運動はその後も続き、何としても実現させようということで、今度はアメリカのマイアミで、世界女性環境会議(1991年11月「健康な地球のための世界女性会議」を開きます。相変わらずワンガリ・マータイやベラ・アブザックたちが主役で、そこには世界中から1500人もの女性が集まったのです。そこにも日本人はたった3人しかいなかった。萩原なつ子と江尻美穂子の3人。江尻さんは国連のCSW(Commission on the Status of Women)で、日本語で言うと「女性の地位委員会」の関係でニューヨークへ来ていたので、ついでにいらっしゃった。萩原なつ子さんも「私はあの時いました、堂本さん」と言っておられました。日本は私たち3人だけでした。しかし、他の国の女性のNGOのうねりはすごかった。裁判形式で議論するのですが、犯人は99パーセント、日本だった。なぜか?一つは日本がいないからですよ、魚を捕りすぎているのは日本、公害をまき散らしているのは日本、水俣で河川を汚染しているのは日本。もう私は見ていて、とにかく日本人としていたたまれない、「そうばかりじゃないだろう」という感じで…。

ところがある日、パネリストの一人だったシャーリー・マクレーンが急に出られなくなった。事務局長のモーリス・ストロングの奥さん(ハナ・ストロング)が、NGO活動に熱心だったのですが、私は彼女となぜかすごく親しくなったの。そのハナ・ストロングさんが「アキコ、シャーリー・マクレーンがだめになった。日本人は1回も出ていないから出る?」って言ったので、「あ、出る、出る」と言って、何の用意もないまま登壇して、「私はシャーリー・マクレーンのスタンドインです」と言ったら、みんな大笑い。ぐっと雰囲気が明るくなったところで私は言いました。「日本だって北九州で『青い空を取り戻せ』と言って運動したのは女たちです」、「大分で、樽に体を巻き付けて反対運動したのも女たちです」。これは大分では有名な話(火力発電所反対運動)です。

水俣について言えば、水俣病の胎児を妊娠した女の人は悲惨な思いをした。運動は男性中心だったと思いますが、女性たちも声を上げた。「日本は女たちが、公害に反対して運動している」という話をした。そうしたら質問者が相次ぎ、「自分たちは日本のことを知らないで批判していた、ごめんなさい」という人もいれば、「やっぱり、女性のNGO同士の連帯というのが、地球環境を守るためには必要なのだ」ということを言った人もいた。私は日本も自分たちの立場を主張し、意見を言わなければ相手に通じないことを肌で感じ、その時すごく感動しました。それが12月だったのですが、モーリス・ストロングも来ていました。そこで、女性たちが各国に提出したアジェンダ21の女性に関する要望書を再度、この会議として採択し、国連で受け入れるわけです。

 

辻 その91年のジュネーブの時に、最初に岩崎さんが行かれて、岩崎さんはどこの団体で出たのですか。

堂本 JVCです。あの当時、NGOらしく、国際的な活動をしていたのはJVCだけじゃないですかね。赤十字とかそういうところを除けば。JVCは当時、お茶の水に事務所があって、よく行きました。ともかくあの当時、「ミスターNGO」と言われていたのが岩崎駿介さんです。あれだけのバイタリティーで一連の国際会議、リオから始まってカイロ、それから北京女性会議に至るまで岩崎さんのリーダーシップで日本のNGOは動いていました。彼は本当にNGO活動をベトナムなど現地へ行ってやっていた人です。あの時は他に誰がいたのだろう。

辻 環境系では、矢花公平さんという弁護士で熱帯林法律家保護リーグとか。あとJVCでずっと岩崎さんがやってらっしゃったので、A Seed Japanができて、羽仁カンタさんとか、若者が出てきたのですね。

堂本 A Seed Japanはもう少し後ですね。やはり岩崎さんが最初に動いていますね。私は議員になる前はTBSというテレビの報道にいたから、裏ではずっとNGO活動をしていたのだけど、表ではやりにくかった。その当時、80年代かな、私は、女性人権NGOの活動をしていた。議員になってGLOBEに入って、外国のNGOの人と一緒に、議員でありながら活動したことで、初めて本物のNGO、外国の議員の活動を見た。

私の場合は国内的なNGOもずっとやってきて、今も東日本の震災のことをやっているのですが、実際に一番活発に活動したのは、やっぱり国際NGOの2つですね、GLOBEとIUCN。IUCNはInternational Union for Conservation of Nature(世界自然保護連合)です。The World Conservation Unionとも言います。国やNGOがメンバーなのですが、、国として日本が入っていなかった。そこはNGOの会員で入ることもできるし、あとは国がほとんどメンバーなのです。ところが、私がやりだした時は多分80か国くらい入っていたけれども、日本国は「NGOなんかに日本は入れない」と相手にしてくれなかった。NGOというものをものすごく馬鹿にしていたのですね、日本は。いくら日本が入らないと言っても、ラムサール条約もそこで作った、ボン条約もそこで作った、ワシントン条約もそこで作った、それからサステナビリティという言葉もそこで作った。言ってみればアングロサクソンの知恵袋みたいなところです。行ってみれば分かるのですけどね。地球環境、特に自然保護について、すごい議論をして世界をリードしていた。そのIUCNが、ある時、理事にならないか、と言ってきた。学者にとっては権威のあるところで、IUCNの理事になると国際的に認められたということになるらしい。だから博士でもない大学教授でもない堂本さんが、IUCNの理事になるはずがないと言われていた。しかし、外国人は肩書より実践を大切にするので、GLOBEのメンバーとして国連の中でかけずり回って、各国政府に働きかけて活動している私を見て、この人をということで理事に推されたわけです。私は最後、副会長にまでなって、すごいラッキーだった。年に2回ずつ、理事会に出るために、スイスに行かなければならなかったけど。

それで、最終的に日本国をIUCNのメンバーにしたのです。でも、そういう流れの中で私は鍛えられた。GLOBEはアル・ゴアさんなどもいて、彼がGLOBE Internationalのプレジデントだったのです。私がその後、GLOBE Japanのプレジデントになり、「IUCNのことをやっている、アキコ」ということで、GLOBE Internationalのプレジデントになる、最後は。だから、「あなたは外国へ行ったほうが有名ね」と言われるくらい、当時の国際的な活動のほうが大きかった。

 

辻 僕らも、松原さんたちと一緒に立法運動を始めたのですけど、環境系という意味では岩崎さんのところへ最初に行きまして、リオでのいろいろな話をその時うかがった。ともかく僕らの印象では、NGO系の人たちは法人格について、要望が非常に強かった。リオへ行って「日本にどうして無いんだ」という話から始まって、「JVCはタイにも事務所があって、そこは法人格を取っているのに、どうして本体の東京には無いんだ」みたいな話をさんざんうかがってきました。

堂本 それは、ジュネーブがきっかけだったと思います、最初は。そのとき、岩崎さんとは会わなかったけど、大変だ、という話をしたから。

辻 JVCはもともとカンボジアの難民支援の活動からでしょう。環境系では当初なかったのですよね。

堂本 私は、岩崎さんほど、現地へ行ってずっとやるってことはしなかったけど、女性問題もやっているし、環境や開発問題もずっとやっていたし、子どもの問題もやっていた。だから、私の場合は環境たけではありません。子どもの権利条約の時はずっと子どものことをやっていた。今でも人身売買だとかそういうNGOには関わっているし、あとDVだとかにも関わっている。ただ、私たちの「NGOの法人格を作らなければだめだ」ということのきっかけがたまたまリオだったから、環境中心にお話しているだけで、今でも環境に熱心じゃないと言えば嘘になるけど、今、中心的に取り組んでいるのは、むしろ女性の問題です。

 

辻 当時、女性とか差別とか人権問題で関わっていた日本のNGOで、寄付税制の研究を始めたのが自由人権協会です。

堂本 ああ、そうでしたね。

辻 自由人権協会は戦後すぐに、アメリカの自由人権協会をモデルに、弁護士が中心になって設立され社団法人をとっていた市民団体としては数少ないNGOです。確か国連の方のNGOにも入っていたのですよ。だから、よくジュネーブの人権会議などには戸塚悦朗さんとか林陽子さんが行かれて、北京女性会議の時もいろいろと活躍されていましたけども。その当時は、主に寄付に関する優遇税制の研究をやっていたのですね。

堂本 私たちは、リオ・サミットをきっかけに国際的な観点からNGOの法制化が必要だと痛感したわけですが、一方で、1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災で市民の支援活動が盛んになり、関西が立ち上がり、また、そういう弁護士さんたちの活動もあって、国内的な都合から、法律を作らなければならないという機運が盛り上がりました。

辻  そうですね。その辺の動きが意外と知られていないというかまだ手薄ですね、我々も。法律の具体的な運動が始まって以降というのがどうしても前面になって、その前のいろいろな動き、前史的なところがだいぶ薄いのです。

堂本 当初、日本政府というか、官僚が意欲を示しませんでした。むしろ、市民運動を一番嫌がったのです。日本の不幸は、水俣病など公害反対運動、公害訴訟という歴史の中で、政府と市民の対立構造ができ、市民活動は反政府活動、反体制活動とのレッテルを貼られてしまったことです。市民の主体的な活動を認め、尊重しているアメリカやヨーロッパとすごく違っている。やはりイギリスのチャリティ・ローの場合は、歴史が300年くらいあり、貧しい人の救済など、いわゆるボランティア的な活動からスタートしており、あまり詳しくはないんですが、反体制的な存在ではないようです。

そういうなかで、岩崎駿介さんと私がジュネーブに行って世界のNGOの力をみて、日本の市民活動、NGOを組織として強化すべきと痛感し、法人格の問題に取り組もうと決心して戻ってきました。

そこで、まず、リオ・サミットに向けて環境NGOを組織して「92国連ブラジル会議市民連絡会」を立ち上げて(1991年5月)、リオには大勢のNGOが参画しました。リオから帰った岩崎さんと海外のNGOのように法制化が必要だということで活動を始めました。イギリスのチャリティ・ローのような法律が無い限り、私たちはダイナミックに国際的な活動ができないとの認識からです。岩崎さんと星野昌子さんとかが主にJVC系の人たち、市民運動系の須田春海さん(市民運動全国センター)などが仲間で、社会党の政策審議会の河野道夫さんも参加していました。

当時、私は社会党・護憲共同にいたので、社会党のなかで市民活動法を作ろうと動きました。「そんなに言うのなら、自分でやれ」ということで担当になり、社会党案をつくりました。当時はまだ、新党さきがけに法制化の動きがあるとは全く知りませんでした。

ところが、「新党さきがけ」にも研究会ができて、担当の簗瀬進さんから「一緒にやろう、超党派で研究しよう」と誘われて、さきがけの研究会には参加しませんでしたが、「超党派でやりましょう」と賛同しました。「さきがけ」は党として熱心に取り組んでいたのですね。確か高見祐一さんが副座長だったと思います。

辻 高見さんは日本リサイクル運動を関西で立ち上げ、その後、東京に出てきて、ラディッシュぼーやという安全な野菜などを戸配する会社を神楽坂に設立していました。その地下の会議室を借りて、94年の5月から10月までシーズ設立の準備会を開いていました。

堂本 それは全く知りませんでした。私たちは社会党有志のNPO法研究会をつくっていて、北海道から出ていた峯崎直樹さんとか、竹村泰子さんとか、熱心に市民運動をやっていた人たちが結構いたものだから勢いがあり、問題意識はさきがけより私たちの方は強く持っていたように感じました。しかし、論理的には「さきがけ」のほうが進んでいた。ただし、そのときのさきがけ案はドメスティックに感じました。社会党のほうが国際NGO的な視点があったと思います。その時点では、私がさきがけに行くとは全く思ってもいませんでした。ところが、社会党で仕事をしたのはわずか2ヶ月ぐらいで、1994年12月の末に、私は社会党・護憲共同を辞し、新党さきがけに入党しました。土井さんはマイルドでしたが、社会党の組織運営などは労組系の人が牛耳っていて、市民派の私は違和感を覚えていました。

辻 社会党のNPO法研究会は、党の正式な機関だったのですか。

堂本 議員個人の勉強会のような形でしたね。正式な機関になるのは与党自社さの三党プロジェクトができてからです。五島正規さんが私の後の担当になりました。

私は無所属で社会党・護憲共同に属していましたが、次の参院選を控えて(95年7月)入党を求められたのですが「党員にはなりません」と言って、もう立候補するのをやめようと思っていた矢先に「さきがけ」の鳩山由紀夫さんにリクルートされました。(笑)「さきがけ」は地球環境を党是にしており、私も地球環境問題に取り組みたいと思っていました。そこで「さきがけ」では環境とNGOを担当することになりました。このあたりが前史みたいなものだと思います。さきがけの法制化担当になって、NGO支援検討部会をつくりました。私はNPOという名称には賛成できず、NGOという名称にこだわっていました。この部会で井口博さんという元裁判官だった方にブレーンになっていただき、山本正さん、経団連の田代正美さん、藤井絢子さん、新党さきがけからは簗瀬さんなどが参加して法律の内容についての議論を重ねました。井口博さんは、その後もブレーンとして環境基本法、DV法などの議員立法に関わり、専門家として力を発揮して下さいました。

辻 与党三党プロジェクトは、だれが言い出したんですか。自民党の加藤紘一さんですか。

堂本 いえ、違いますね。加藤さんは後からだと思います。言い出したのは各党の事務方だと思いますね。

辻 堂本さんは、さきがけに移ってすぐにNPS(NON PROFIT SECTOR)研の座長になっていますね。

堂本 簗瀬さんが、私のほうがNGOや法制化の事情について詳しかったので、譲られたんですね。

辻 NPS研は超党派というかまえで、加藤さんが顔を出したとも聞いたことがありますが。

堂本 私の印象では、この法制化では加藤さんはそんなに出てきたという感じではないですね。

辻 NPS研から95年初めに与党三党プロジェクトの準備が始まり、直後に阪神淡路大震災が起きて、すぐに与党三党プロジェクトの第1回会合が開かれています。その後で阪神淡路大震災でのボランティア活動を見て、政府も動き出すし、新進党系からボランティア推進法案が出てくるのが3月です。

堂本 私たちはNGO系というか、国際的な視点から法律を作ろうとしたわけですが、阪神淡路大震災でボランティア系の考え方から法律を作ろうといううねりが、関西から出てくる。大阪ボランティア協会の早瀬さんとか。それで、早瀬さんたちと「そうだ、一緒にやろう」とお互いに言っていたのですが、それに便乗したのが18省庁で、ボランティアを対象とする市民活動支援法を作り始めるのです。私たちと早瀬さんたちが考えていたものと官僚が作ろうとしているものとはしっくりいかない。そこから、議員立法か、閣法かという問題が出てくるのです。

辻 それが経済企画庁国民生活局長の坂本導聡さんが音頭をとって発足させた18省庁連絡会議ですね。この政府の動きに対し、与党三党プロジェクトは議員立法でいこうということでブレずにいくわけですが、議員立法方針はいつ頃決めたのですか。

堂本 私はNGOに関わる法律ですから、議員立法は当然だと思っていました。五島さんもそうだったと思っていましたし、与党三党でそれについて議論したとか決めたという覚えはありません。自民党の熊代さんからも特に異論があったわけではなく、議員立法は既定の方針だったように思います。政府の閣法でやると担当省庁が総務省になってしまい、NGOの主体性が担保できない。それは絶対に良くない、だめだと。まだ経済企画庁のほうがいいけど、とにかく政府につくらせたら監督官庁が決まって、公益法人と同じ許認可になってしまう。それでは市民活動の主体性が保てないということで3党が一致していました。最初の争点は18省庁でやるか、それとも我々の議員立法でやるか、でした。95年11月に18省庁連絡会議の中間報告が出たのですが、その内容がまさにボランティア支援だったこともあって、与党三党プロジェクトで直ちに官房長官の野坂浩賢さんに、是が非でも議員立法でいくべきであるとの申し入れを行い、連絡会議の動きを止めたのです。

松原さんと18省庁の中間報告を見たら、政府管理の市民団体になってしまう。「ええっ、これ、なに?」あまりにも私たちの案と違う。これは何としてもつぶさなければということで、与党3党で官房長官に直談判に行った。私と、自民党は加藤紘一さんではなくて熊代さんだったかな。社会党は五島さんで、とにかく総理官邸まで行き、官房長官室で官房長官の野坂浩賢さんに「政府の立法にするんですか、私たちの立法でやるんですか?」と迫った。その時の様子は今でも覚えています。野坂さんは「じゃ、議員立法にする」と断言された。「そうですねっ、決まりですねっ」と確認し、決まった。その瞬間は今でも忘れません。立法活動のなかで、強烈に印象に残っている場面のひとつですね。

もうひとつ印象に残っているのは新進党との闘い。河村たかしさんのグループとは、まったく考え方が異なり、実にやりにくい、うるさかったです。

辻 河村たかし議員と一緒にやっていた市村浩一郎さんが、今は民主党の衆議院議員で3期やっているんですが、彼は今でもNPO法を認めていないのですよ。当時も松原さんと大喧嘩しましたね。

堂本 そうよね、私は松原さんと一緒になって喧嘩していた。

山岡 年表では96年5月に新進党が「法人税法の一部改正案」を提出しているのに対し、与党三党は6月に与党案の一本化を断念とあります。自民党と社民・さきがけが対立して激論をするわけですが、何が問題だったのですか。

堂本 自民党が市民団体の分野を5つのジャンル、領域に限定したことではないかしら。社民と私たちは限定すべきではないと主張していましたから。堂本がいるからまとまらないと言われたりして、熊代さんと激論したと思います。

辻 10月に衆院選挙あるというので、とりあえず9月に与党3党で合意事項をまとめましたが、社民党が分裂するなどして、このときはわれわれシーズも先行きどうなるか危機感をもちました。

山岡 96年10月の衆院議員選挙で当選した辻元さんが社民党から与党三党プロジェクトに加わって紆余曲折があり、11月に与党三党の政調会議で合意し、12月に与党案を衆院に提出となります。それまで与党三党の調整がつくまで法案を出さない、いや調整がつかなくても出すべきという議論が市民運動側も分かれていました。合意案について、堂本さんはどう思われていたのですか。

堂本 私はまだ不満がありました。それで、調整の過程では堂本をはずせとか言われて、さきがけから渡海紀三郎さんが出たりしたこともあります。でも、あのとき頑張って良かったと思っています。三党合意を一つ一つ修正していくプロセスがなければ、現行の法律はできなかったと思います。NPO法のときは、自社さの連立政権で、三党がまったく平等に政策について協議・連携していましたから、当時、小さい党だった「さきがけ」も対等に意見が言えました。与党内野党のような立場の社民と一緒に自民党に対して、市民の立場からの内容を不十分とはいえ入れていくことが出来ました。

山岡 12月に市民活動促進法の与党案がまとまって衆院に法案を提出する。野党の民主党は対案を出さずに、与党案の修正というスタンスで臨んで、97年に入り民主党と与党三党で修正協議をする。そのときに与党案で通らなかった社さが考えていた内容を、修正のなかで通していったということですね。

堂本 民主党とどんなことを協議したのかあまり覚えていないんです。今もそうですけど、与党になると、野党の存在ってほとんど眼中になくなって、与党三党内でかなりの議論をしたことしか記憶に残っていません。民主党との修正でなにが変わったのでしたかしら。

山岡 所轄庁が判断するときに主務大臣に相談できるという条項があったのをはずした。ここは私たちが一番反対したところです。活動分野が11項目だったのを中間支援を加えて12項目にしたことと、それから会員要件が厳しかったのをはずした。

辻 ほかに立ち入り検査をなくすとか、会員名簿の提出では全員といっていたのを10名までにしたといったところですか。

堂本 大事な修正ですね。そういえば、閣法か議員立法かで議論したときに、政府の役人から、議員立法になると「原発に反対する市民団体にも法人格を与えることになります」と言った人がいて、びっくりした。

山岡 主務大臣に相談できるとしたら、高木仁三郎さんの原子力資料情報室は法人格をとれないでしょうね。だから、法律の第1条に規定した「市民が行う自由な活動」がとても大事なのですよ。

堂本 実態は主務大臣がノーと判断するわけではなく、役人がノーと判断して大臣に言うわけですからね。

 

辻 そのあと4月に民主党との修正案をまとめ、衆議院に上程する。新進党との攻防があって、国会会期のぎりぎりで衆議院を通して参議院に送られるが、時間切れで継続審議になります。そこで97年の秋から参議院に焦点が移り、参議院自民党との攻防が始まるわけですね。

堂本 参議院での攻防は鮮明に覚えています。97年9月から私と参議院社民党の清水澄子さんと、参議院自民党に早く上程してほしいという働きかけをするわけです。その清水さんが一昨日亡くなったんですよ、残念だわ。当時は、村上正邦さんが参議院自民党の幹事長、いわばドンといわれて、その下に代理のような立場で片山虎之助さんがいて、初めは清水さんと二人で片山さんに参議院に上程したいと交渉したのです。参議院の自民党の控室だったと思います。そこで、法案のなかの「市民」という言葉は一言たりともだめだ、断固いけない、というのが村上さんの意向だといわれ、片山さんと掛け合っても全然らちがあかないのです。そこで、片山さんと大声で、二人とも普段から大声でしたけど、ほんとに取っ組み合いになりそうな大喧嘩をして、そこにいたのは清水さんと、私の秘書の山本美和でしたが、清水さんは「はらはら、おろおろ」して、「堂本さん、もういいわよ、もういいわよ」と止めに入るぐらいの大喧嘩でした。致しかなく、その日のうちに村上さんのところへ清水さんと二人で直談判に行ったのです。

山岡 与党三党プロジェクトには参議院自民党の議員はいなかったのですか。

堂本 自民党はたいてい熊代さんでしたから、参議院の人は覚えがない、いなかったと思う。村上さんは、私とは女性問題にしても水と油で全く方向がちがっていましたが、話はわかる人だと思っていたので、片山さんでは埒が明かないなら、村上さんにぶつかる以外になかったわけです。すると村上さんから2つの要求が出されました。一つは「市民活動促進法」という法律の名前を変えること、二つ目は、条文の中の「市民」という言葉は断固だめだから「市民」を削除することでした。

村上さんは、「市民という字の入った法律は、俺の目の黒い内には通さん」と言う。私は、「だめだ、この名前でやらなきゃ、だめだ」と言って、また村上さんと大喧嘩。村上さんはとにかく共産党が嫌いで、市民といったらイコール共産党で、市民活動促進法は共産党のオルグを増やすものだと思っているのです。このときが立法活動のなかでの強烈な出来事でした。

辻 そのときは与党三党プロジェクトでどのような議論をされましたか。市民を残すか残さないとか。

堂本 村上さんとの交渉は表に出すわけにいかなかったので、オブラートに包んでやりあっていました。参議院での交渉は参議院の議員間で解決するよう求められていたように思います。三党プロジェクトでは議論していません。

山岡 年表では、97年11月に社民党とさきがけが法案の名称を変えることにぎりぎりまで反対して、結局12月に法律の名称を変えることで合意して特定非営利活動促進法になったとありますね。その頃、私も松原さんから自民党が市民活動促進法では参議院に出さないというので、いま法案名でもめていて、社会貢献促進法だとか社会奉仕活動促進法だとか出ているが、どう思うかと聞かれました。私は80年代から市民活動という言葉を使ってきていましたから、市民活動促進法が一番いいと思うが、そこに特定の価値観でだめだというなら、法律はニュートラルなものでもあるから、市民活動にこだわらなくてもいい。しかし、社会奉仕活動だけはだめだと言った覚えがあります。

堂本 私も清水さんも市民活動を削除することに最後まで反対しました。条文の中に「市民」は100以上、150ぐらいあったかもしれませんが、結局、それさえ変えれば参議院を通すというので、泣くような思いでこちらもぎりぎりで折れたわけです。ただし、どうしても残さなくてはいけない一箇所だけは残しました。それが第1条の目的のところの「市民」です。ここは、私が書いたところですから、これを変えたら、あとの条文の意味が曖昧になってしまう。なんのために法律をつくったのか分からなくなってしまう。第2条以下の条文にある「市民」は、法律の名称として書かれているので、形式的なものですが、第1条の「市民の活動」は法律の理念、本質に関わるから変えるわけにいかない。この「市民」だけはなんとか残したのです。村上さんたちにはどこを残すとは言わずに、「あとは全部譲るから、1つぐらい残しますよ」と言ったら、「それでいい」と。村上さんは1つぐらいならいいかという感じで満足しちゃったみたいでした。どこを残したかなど、全く気にしていなかったと思います。

山岡 まともに読んでいなかったんでしょうね。第1条は、「ボランティア活動をはじめとする市民が行う自由な社会貢献活動の促進を目的とする」というところですね。結局、参議院では市民をとるということだけで、ほかは何も変わっていないんですね。

堂本 法律の名前のほうは、村上さんからどうするんだ、早く考えろと言われ「市民活動」を変えるとしたら「非営利活動」だろうと言いました。まさか略称がNPO法になるとは思いもしなくて、日本語としては非営利活動促進法でどうかと言ったら、村上さんはそれでいいというので、特定非営利活動促進法になったわけです。

山岡 特定が入ったのはどういういきさつですか。松原さんから非営利活動促進法になったと聞いていて、ふたを開けたら特定が入っていて、これはややこしいなと思いました。

堂本 私もなぜ特定になったのか覚えていない。法制局あたりが特別法ということで特定を付けたのではないのかしら。でも、これだと長ったらしくて固いからというので、いつのまにかが略称でNPO法が闊歩するようになってしまった。私としてはとても不本意なのです。私はもともとNPO法という言葉は使っていなかったのです。阪神淡路大震災の直後にたまたま、アメリカの大学教授が市民活動の比較研究で来日して、その研究のコンセプトとして「Non-Profit Organization」を使っていたのです。あの時は自社さの連立政権だったので、自社さで一緒に朝食会に呼ばれていって、その人が non-profit organizationというのを盛んに使うわけ。名前がそっちの方へいくというのが出てきたのが、その時じゃないかしら。これは95年ぐらいですかね。

辻 それはジョンズ・ホプキンス大学のレスター・サラモンでしょうね。確か、阪神淡路大震災における市民活動の調査とかで、日本に来ていました。

堂本 そうです。そのとき彼は各党の議員に会う。そこで彼が話したのがノン・プロフィット・オーガニゼーションをコンセプトとする内容で、つまり彼のNPOというコンセプトに自民党、さきがけ、社会党もみんなかぶれて、市民活動を非営利活動団体としてNPOでくくる方向になっていました。私は92年のリオの地球環境サミット、続いてウィーンで国際人権会議がある。それからカイロで国際人口開発会議(1994年)、95年に北京で第4回世界女性会議と一連の国際会議に出ていて、そこで非営利の市民活動は、NPOではなく、もっぱらノン・ガバメントのNGOで通っていましたから、NPO法なんておかしい、国際的に通用しないと力説したんですが、サラモン教授の影響がものすごく強くて、私よりもアメリカの大学の先生のほうがえらく見えたんでしょうね。3党とも大勢はNPOでいいじゃないかになっていました。ぎりぎり法案を決める時期と重なって議論する時間をとれなかったのがすごく不幸でした。

私は「市民」という言葉をすごく大事にしていたので、自民党が嫌気がさすほど徹底抗戦したのです。というのも、国連に行くと官僚でもない、企業でもない、政府代表に対抗する形でNGOがいるわけです。国連の会議を傍聴できるNGOは経済社会理事会の決めた要件に合わなければいけなかったのですが、そのルールを破って、NGOならどこでもいいとなったのが92年のリオの環境サミットです。前にお話ししたようにその前年の準備会議のときからモーリス・ストロングが、ルールを勝手に変えて、超法規的に法人格のない団体でも参加できること、2人でも3人でもいいといって、世界各国のNGOに参加を呼びかけたのです。なぜか日本のNGOに伝わらなくて、日本から参加したのは政府公認の公益法人と業界団体だったというわけです。その人たちは立場が違う、こちらが話すことが理解できないから、NGOの会議からはじかれてしまう。モーリス・ストロングには地球環境の保全は、市民の監視と活動がなくてはできないという信念をもっていたから、平気でルールを破ったのでしょう。そこに日本から国連で環境会議が開かれると聞いた岩崎駿介さんが一人でやってきて、世界との落差に愕然とすることになった。私にとって、市民活動とは、政府でもなく、企業でもなく、市民によるNGOの活動でしたから、市民にこだわり、NGOをNPOに置き換えることに反対したのです。政府はあくまでも国内しか見ていなくて、私とか岩崎さんは世界を見ていたという違いがあります。

山岡 民主党との修正協議とか、新進党や参院自民党との攻防とか、国会審議のような表に出てこないところで法案ができていくわけですね。

堂本 国会の本会議や委員会の審議でなく、国会の会議室で各党や省庁とやりあうなかで決まってくる。このときの議員立法のプロセスがとっても面白くて、その後のDV法の立法では、法務省と最高裁が行政と司法のドッキングをどうしても認めないので、それこそ怒鳴りあいになって、最後は「法務省の方は、もう出ってください」なんて言われるところまで、議論したわけですが、全部テープに取りました。NPO法もテープに取っておけばよかったと思います。

私が今でも強く印象に残っていることは、市民にこだわって議員立法で闘ったということです。NPO法もDV法も本法があって、その特別法という位置づけですが、特別法ができるとその影響が大きくなって、NPO法でいえば本家の民法34条の公益法人制度も変わることになった。DV法も同じですが、官僚には法体系の美学があって、そこから逸脱することを是としない。欧米や最近はアジアの国々もそうですが、DVで人が亡くなるという現実を前にして、美しい法体系からはずれても、人の命を救うことが優先すべきということで法律をつくる。NPO法、DV法、PKO法といった議員立法はそうした法体系に挑戦していく闘いだったと言えます。

 

辻 税制のことをうかがいますが、与党三党では税制についてどのように議論されていたのですか。

堂本 NPO法人が特増法人になれるかという議論はしていました。ただ、当時の大蔵省が税制優遇したら「悪用される」の一点張りで、頑として受け入れない。そこが性善説に立って、税制優遇のハードルを低くしているアメリカやイギリスとの違いですね。イギリスではチャリティ・ローのもとで郵送でも税優遇が申請できる。もし悪用すれば、その団体はロンドンにいられなくなりますから。

辻 当時、新進党は法人化と税制を一体として考えて法案をつくっていましたが、与党三党では税制優遇を入れたら法人化もできないという議論だったのですか。シーズでもいろいろ意見がありましたが、最終的には法人化先行の二段階論で、まず法人化の法律をつくって一歩踏み出して実績をつくって、税制優遇を入れるという方針になりました。

堂本 与党の自社さ三党は大蔵省(当時)の反対もあって法人化を先行させました。新進党は河村さんが中心で、議論はしたと思いますが、かみ合わないので面倒くさくなり、相手にしなくなりました。河村さんは、自分たちが頑張ったからNPO法ができたなんて言ってますけどね。よく法律ができたら、自分がつくったという人はいますけど、NPO法はそれぞれの人がそれぞれの立場で自分の役割をもって関わって、みんなで寄ってたかってつくったと私は思っています。自民党なら熊代さん、加藤紘一さん、社民党の五島さん、さきがけの簗瀬議員、私や政調のスタッフ。さきがけは小さな政党でしたけど、それでもNPO法の成立には大きな役割を果たしたと自認しています。それからシーズ、松原さん、山岡さんといった国会外の市民団体と緊密な連携を取り、一緒になって立法したことがとても面白かったですね。