NPO法制定以前の市民団体の動きやNIRA助成の研究グループの動きについて、木原勝彬氏にインタビューを実施した。木原氏は、奈良まちづくりセンター理事長として奈良町の歴史的町並み保存運動に関わり、NIRA助成の「市民公益活動基盤整備に関する調査研究」で中心的役割を果たした。2005年からローカル・ガバナンス研究所所長。

インタビューは、2012年11月3日に日本NPOセンター会議室で実施した(聞き手:山岡義典・辻利夫・原田峻、記録:辻利夫・原田峻)。  *肩書きは当時

  • 日時:2012年11月3日(土)14:00~:17:00
  • 場所:日本NPOセンター会議室
  • 協力者:木原 勝彬(元・奈良まちづくりセンター理事長)
  • インタビュー担当:山岡 義典・辻 利夫・原田 峻

 

インタビュー本編

山岡 NIRAの第1期調査研究が1994年4月に終わって、それをもとに東京と大阪でフォーラムをやって、NIRAの第2期「市民公益活動基盤整備に関する調査研究」が始まったのが1994年12月です。そこで、阪神大震災が起きて、震災後のいろんな動きを横にらみしながらまとめたのが、その年(1995年)の12月頃だったかな。それから印刷したのはちょっと後になるけど。第1期が基本的に「新しいどういう制度が必要か」ということを提案して、それを受けて、第2期では具体的な法律・法人制度をどうするかというのをやり始めた。やり始めたところに震災がきた。という前提のうえで、今日は木原さんの思いを込めた話を、事実関係も含めて話してください。

辻 1992年に、奈良まちづくりセンターの機関誌『地域創造』雑誌で、佐野(章二)さんと山岡さんと木原さんが座談会をされて、市民活動団体の法人制度が必要だと述べていますね。

木原 発行したのは92年の2月ごろ、イギリスのシビックトラストへ佐野さんと行った時期です。山岡さんを交えてということは?確か奈良でしたよね。

山岡 なにか、僕が奈良に講演に行ったんだと思う。そのときに鼎談したんじゃないかな。

辻 『地域創造』は、奈良まちづくりセンターの機関誌というと当然、企画は木原さんがお考えになったんですね。

木原 そういうことですが、おそらく、国際交流というのがきっかけのひとつでしたね。私自身の市民公益活動の基盤整備への取り組みに大きなインパクトを与えたのは、マレーシアのペナン・ヘリテジトラストなどのアジアの街並み保存、歴史的環境保全団体との交流です。笹川平和財団の長尾さんという方が奈良に来られまして、「木原さん、奈良の街並み保存の市民運動とマレーシアのペナン・ヘリテイジ・トラストとの交流をやりませんか。街並み保存運動の推進に苦労されているようなので、奈良の取り組みを紹介してあげてはどうでしょうか」という誘い水だったのです。ペナンとの交流を契機にインドネシアなどのアジアの国々との交流が進み、西太平洋都市保全ネットワークができたのです。

その前に、奈良町の街並み保存運動を1979年から市民主導で本格的に進めていまして、社団法人も取って(1984年に取得)はいるのですが、思うように行政の理解とか地元の理解が得られず、また、会員が増えて経営的にもうまくいくというような状況でもなかったんですね。NPOはどこもそうですけど、メンバーのコミットメントがポイントなのですが、なかなか苦労しますよね。そういった状況の中で、1990年のあたりでしょうか、運動の壁にぶつかっていて、ある意味では、次のステップというのが見通せない時期だったんです。そのときにたまたま長尾さんがお見えになって、そういう誘い水が来たわけです。僕自身は、海外との交流については意識していなかったし、英語も話せないし、どうなのかなという感じでした。

メンバーの皆さんの反応も、「なんでや」、「なんでアジアか」、というのが率直なところですよね。そのときに僕もいろいろ悩んだのですけどね、これはひとつ長尾さんに騙されてみようというか、いっぺんそういうような流れに乗ってみようと思ったんですよ。それが結果的にアジアの皆さんとのネットワークが拡がっていった。当然、そのプログラムは笹川平和財団が2年か3年ぐらい助成してく れたんです。結構な金額をね。

それが最初で、そこでもう一つ、そこでお付き合いしていたペナンのグループの活動のエンパワメントについて、我々もいろんなことを知りたいということで、ペナン・ヘリテイジ・トラストの方と一緒にイギリスのシビックトラストを学びに行くことになって、イギリスのグランンドワークトラストの小山(善彦)さんに段取りしてもらい、佐野さんと一緒にイギリスへ行ったんですね。イギリスの何か所かのトラストを回って、初めてイギリスのボランタリーセクターの実態を見たんです。イギリスのボランタリーセクターの活動が、イギリス社会では認知というか、存在感がありますでしょう。それを見たときに我が日本社会を振り返って「なんと、日本は遅れていることか」と、実感というか、痛切に感じたんです。我々の奈良を含めて日本の市民活動の存在や実態はどうなのか、法制度的にも、寄付文化のことを含めて、非常に脆弱というか、まだまだ未整備じゃないかと気づいたのです。私が思ったのはそういうことですね。イギリスからの帰りの飛行機の中で佐野さんと、「日本はこのままでええのか」という話をした覚えがあります。

それで帰ってきて、市民活動の制度的な整備に取り組もうということになりました。いずれにしてもそういうことの先達はもう、山岡さんでした。山岡さんはシビックトラストという概念をずっと昔から提唱されていましたしね。私のところが社団法人になるにあたってもいろいろとアドバイスを受けていました。山岡さんから学んだことは、公益活動というか公益団体というのは、誰にもできないことに挑戦するのが使命ということです。これが、私の中にインプットされているんですよ。誰もできないことに挑戦するのがNPO、市民公益活動のスピリッツだということです。そんなこともあって、市民活動の制度的な整備に取り組もうという話の中にもそれが流れておりまして、日本に戻って、そういうリサーチをやりましょうということで、山岡さんにご相談したんです。

山岡 そう、何度も佐野さんと木原さんが、僕がトヨタ財団にいるころに来られた。NIRAで始める前に1年以上、議論していた。木原さんたちは夢みたいなことを言うから、僕は受身になって、「そんな大層なことはできないよ」って言ったね(笑)。

木原 はっきり申し上げて、山岡さんが居られなかったら、これはできなかったでしょうね。調査企画もご相談しながらできていったと思います。難題はこの調査の予算をどうするか。2年少々かけるのですから、結構な調査体制も要りますし、資金も当然要りますよね。それで、どこから助成金を引っ張り出すかということが一つの大きな難題だったんですよ。あっちこっちに助成のお願いで回ったと思うんですけど、ダメでしてね。NIRAに行こうというのは、どういうところで決まったんかな。NIRAに理事長の下河辺(淳)さんが居られたからね。

山岡 下河辺さんのところに3人で会いに行ったね。これが始まるのが93年の、契約的には1月ですけども、92年のおそらく秋よりももうちょっと早くには、NIRAに企画を持ち込んだと思う。半年ぐらいは交渉した。NIRAの事務局はこんなのができるとは思っていなかった。下河辺さんに持ち込んでかなりトップダウンで決まったと思う。

木原 下河辺さんを知っていましたのは、奈良まちづくりセンターの社団法人設立総会に講演に来ていただいて、そこで知り合ったんですよ。そんな関係もあって、下河辺さんに山岡さんと一緒にお願いしに行ったんです。あの後、すぐ代わられたんです。最終的に契約締結は次の理事長だと思います。正直、「市民活動」というような概念は、政府系のシンクタンクですから基本的にはないんです。下河辺さんはわかっておられたのでしょうが、実際の契約レベルになってくると通じない。あのときのNIRAの企画部長は、確か野村さんだったと思います。名前はちょっと定かじゃないですけど、経企庁から出向していた人でした。その人を口説くんですけど、なかなかうまくいかなくて。経企庁に影響力がある人に落としてもらわないといかんというので、吉川(淳)さんという経済研究所の所長で経企庁の審議官になられた方がおられるんですよ。奈良出身なので私は知っていましたからその方に頼んだ。吉川さんからもだいぶ説得してもらったりと、なんやかやと動いたんです。それからもう一人、名前は忘れましたけど、野村さんから代わったんですね。その人も経企庁から来てますので、その人とも吉川さんと一緒に飲んだりしながら口説きましたね。

山岡 そうか、それで吉川さんが調査研究のメンバーに入ったんだ。

木原 この吉川さんもキーパーソンなんですよ。NIRAの助成を受けるためのいくつかの必要十分条件の中の重要な条件のひとつでしたね。吉川さんからプッシュしてもらって、なんとか決まったということですかね。

山岡 NIRAの事務所は、新宿の三井ビル36階のトヨタ財団の向かい側にあったんですよ。だから僕は、スタッフをよく知っている。僕は92年3月にトヨタ財団を辞めるんですが、それから1年余りは後始末のために週に2回ぐらい、嘱託みたいなことで行っていたんですよ。ですから、基本的にはトヨタ財団で下打ち合わせというか会議をして、向かい側のNIRAに交渉しに行ったというのが92年の後半で、決まるまで半年以上かかったかも知れない。

木原 山岡さんを中心にいろいろと動かせてもらいました。

山岡 最初は、僕らとしては助成金でやりたかったんです。

木原 NIRAの研究助成に地方シンクタンク対象の助成金があるんですよ。

山岡 だけど地方シンクタンクの助成金は上限が500万円なんです。この調査はまあ2000万ぐらいかかる。人件費も必要だということで、研究助成の枠ではちょっと無理だねというので、委託という形でやりましょうかと。その辺はどこでどうなっているか知らないけども、委託という形でやれば人件費も全部でますから。それで、これは2000万円ぐらいの委託費だったのかな。

木原 そうですね。発注者側も調査の中身がわかりませんから。そういう意味では自主性の強い委託事業になった。

山岡 本来的にはこちらの持ち込み企画だから助成でしょうけど、形としてはNIRAが企画して委託したという話にした。その点の基本的な了解は、自主事業だけど委託という枠でやるということです。

木原 研究期間は93年の1月から94年の3月でしたけど、充実していましたね。なにかこう、新しいものを生み出すという期待とか希望をもって、みんなすごく熱が入っていましたね。調査研究は大変だったですが。

山岡 誰をメンバーにするか。拡げれば無限に拡がるんだけど、あまり専門過ぎちゃいけないというので、メンバー選びが大変だったよね。どこまでいれるか。法政大学の清成(忠男)さんは全然関係ないんだけど、学者さんを1人入れるという話でしたね。仲間内だと山岡、木原、早瀬(昇)、渡辺(元)・・・。

木原 仲間内だと佐野さん、世古(一穂)さんね。

山岡 まあ、吉永(宏)さんはトヨタ財団で選考委員をいろいろやっていた。松岡(温彦)さんも、僕もトヨタ財団では長い付き合いです。播磨(靖夫)さんがいる。それから海外として、アメリカとイギリスから1人ずつ。アメリカは上野(真城子)さん、イギリスは小山(善彦)さん。それで顧問として入った田中實さんは、民法34条の公益法人の一番の権威ですね。

辻 林雄二郎さんもいますね。

山岡 林雄二郎さんは経済企画庁か、下河辺さんが林さんの弟子みたいなところがあるから。僕がトヨタ財団にいた頃の元専務理事で、その頃は東京情報大学の学長をやっていた。NIRAにとっては非常に神様みたいな人。それから経済界を巻き込もうというので経団連の房野(夏明)さん。この房野さんはもう亡くなっちゃったよね、田代(正美)さんを育てた人というか、社会貢献活動の方を田代さんに自由にやらせた。その田代さんに入ってもらうために、「房野を何とかしてくれよ」というので顧問になってもらった。この人を入れないと自由に動けないというから。

辻 堀田力さんが入っていたんですね。検事を辞めてすぐの頃かな。

山岡 堀田さんのところに会いに佐野さんと木原さんと行ったのかな。さわやか福祉財団を作る途中かな。まだ作っていなかったかも知れない。その4人(田中・林・房野・堀田)には顧問という形でお願いした。だいたい皆さん、この趣旨には共鳴して、報告が最後にまとまった時には説明に行きましたけど。房野さんは途中で亡くなったかな。田中さんも途中で亡くなったかも知れない。堀田さんも、まさに、「これから市民公益の時代だよ」と言った。林さんは僕のやることだから、「お前のやることなら、大丈夫だろ」っていうんで(笑)。

 街並み系が、西村(幸夫)さん、林(泰義)さん、木原(啓吉)さん。木原啓吉さんは元朝日新聞の記者で環境問題とかいろいろやっていましたよね。

木原 ナショナルトラスト運動とかね。

山岡 1960年代に都市問題の企画で「爆発する都市」というのを朝日でシリーズやって、相当な脚光を浴びた。

辻 だいたい網羅していますね、目配りよく。

山岡 布石が肝心だから。この時は雨宮(孝子)さんは入っていなかったか。第2期の時に雨宮さんにはかなり活躍してもらった。田中實さんのお弟子さんが雨宮さんですからね。

木原 第2期では法制に関して加藤一郎先生にも入っていただきましたね。

辻 そうですか、行政法ですよね。元東大総長ですから大物だ。

山岡 第2期はかなり制度が中心になるんでメンバーを変えたんだね。法律関係を強化した。

木原 事務局は佐野さんのところが受けて、頑張ってくれましたよね。

山岡 この時に佐野さんのもとで一番やったのが水越(洋子)さんです。

木原 今、ビッグイシューの実質的には編集長だ。

山岡 そういう意味ではやはり人的な布石が重要だったよね。それで半年ぐらいかかったのかな。

辻 経団連を早くから入れていたのはすごいですね。これはどういう経緯ですか。

山岡 フィランソロピー研究会というのを、この5、6年前からトヨタ財団でやっていて、川添登さんという人を代表にしてやっていたんですよ。その時に企業の社会貢献で房野さんに何回か来てもらって、報告してもらっていたという関係があったし、田代さんとは早い時期に会っている。田代さんは、これからはこういう民間の活動をきちっと作る、市民社会をきちんと作らないと、産業界そのものもだめになると言って、とても熱心だったですよ。田代さんが社会貢献の課長で一番、燃えていた時ですよ

木原 経団連の1%クラブができたのが1990年ですね。ちょうど企業メセナとかいわれた、その時期。

辻 まちづくり系の人が入っているのに対し、海外のNGO系は入っていないですね。

木原 福祉系も入っていないでしょう。

山岡 福祉系はたんぽぽの家の播磨さんや大阪ボランティア協会の早瀬さんぐらいでね。どちらも福祉の分野では異端かな。国際系ではJANICの伊藤道雄さんもいましたが、そんなに参加してなかったね。

木原 これに環境系は入っていましたか。

辻 環境は木原啓吉さんですけど、いわゆる市民団体でやってる人がいない。岩崎(駿介)さんとか、あのへんになるでしょうけど、入っていませんね。播磨さんは奈良のときから、ずっと古いんですか。

木原 播磨さんはたんぽぽの家の理事長でこの分野の大先輩です。その当時から事業的にも評価は高かったと思うんですね。このときは、播磨さんのコミットメントはそんなに強くなかったですね。

山岡 執筆リストが書いてある。できるだけ委員の方には執筆してもらったんだけどね。僕が一番たくさん書いたかな。今田(忠)、小山、上野さんにも書いてもらったな。そうか西村さんも書いているか。この執筆した人以外は、委員会に参加するぐらいな感じね。だからそんなにコミットしたわけじゃないね。やっぱりコミットした人には書いてもらったっていう感じだ。

辻 いわゆるまちづくり系がNIRAでは活躍しているのに、NPO法を作る過程では表面にそれほど意見が出てこなかったような気がしています。どちらかというと介護保険法が通ったので福祉系が強くなるという感じでしたが、その辺はどうなんですか。阪神大震災があって、本来ならまちづくり系が結構出てきてもよかったような気がしますけど、立法運動の過程の中ではそんなに強くまちづくりが出てこなくて、最後の11項目を決めるときに確か山岡さんとか林さんあたりが「まちづくりを入れよう」という働きかけをしたことを、覚えているんですよ。自民党の中では、確かまちづくり系は無かったんですよね。一応うち(東京ランポ)はまちづくり系で林さんなどと、「まちづくりは必要だよね」と言っていたんですけど、あまり表面だって主張はしなかった。まちづくりってちょっと事業的なものが結構入っていたと思うんですけども。その辺はあまり感じませんでしたか。

山岡 JC(青年会議所)はまちづくりなんだよね。全国に支部というか、独立した青年会議所が全国各地にあって、それが連合組織として日本JCになるんだけど。日本JCには各地からやってきて、三重の服部さんであるとか、あるいは大阪のNPOセンターを作った金子さんとか弁護士の三木さんとか、JCの人たちはやはり非常に強い力を各地域では持っていたね。それはどちらかというとまちづくり系だと思うんだけど。いわゆるハードのまちづくり系はそんなになかったな。佐野さんなんかも、まちづくり系だけど。だから、立法過程では僕ぐらいか。

辻 世古さんだって、本当はまちづくり系と言えないこともない。

山岡 木原さん、これをやる上で何が一番たいへんでしたか。佐野さんと木原さんの分担関係がどうなってるかも僕はよく知らないんだけれども、事務局的なことは佐野さんところでやったよね。

木原 そうですね。NIRAを口説き落とすのが一番大変だった。調査は忙しかったけど楽しかったです。新しいものを生み出していく行為ですから。それと同時に、日本社会全体のあり方を考えていくってことですから、モチベーションは高いですよね。そういう意味ですごく刺激的な2年間でした。やりがいがありましたよね。事務局は佐野さんのところにお願いしました。佐野さんの全体的な下支えが大きかったですね。

山岡 やっぱり影響は大きかったし、いろんな自治体の人たちがこれを読んだ。だから、3刷ぐらいしてるのかな、大した数じゃないけどね。NIRAでこんなに売れたのは初めてだ。

木原 報告書のベストセラーですよ(笑)。

辻 まだ阪神大震災もないときに、自治体の人がこれに関心を寄せたというのはどういうことなんですかね。だからまあ、自治体がもともとこういうテーマに関心をもつことが底流にはあったわけですね。

木原 感じとしては、あまり自治体は僕らを見ていなかったけど。震災後ではないですかね。

山岡 報告書が94年の3月に出るでしょう。表向きは3月で、実際出たのは4月10日ぐらいだったのかな。それで4月何日かに開催したシーズの元になる「市民活動を支えるフォーラム」(4月23日シンポジウム「市民活動を支える制度を考える」)にぎりぎり間に合って、その会場に持ってきて、僕がこの内容を報告した。その前に2月かな日経新聞が、大橋さんという記者が取材して、報告書を出版する前に1面に書くんですよ。その記事でかなりの自治体が、「へえ、こういう動きがあるの」っていうんで来てましたね。

 その前の1月に、林和孝さんが当時の朝日新聞の投稿欄があって、投稿するんです。これからこういう市民団体の法人制度についてシンポジウムがあって、こういう内容だということを載せたんですよ。けっこう問い合わせが来ましたね。

山岡 そのシンポジウムのあと僕らは(1994年)7月にNIRAと共催で市民公益活動基盤整備フォーラムを東京、大阪でやるんですよ。金子郁容さんなんかも呼んで。そのときにもかなり反響があったね、3割ぐらいは自治体職員じゃなかったかな。

辻 自治体が結構、関心を寄せたっていうのは何ですかね。NPO法がもうできそうだというときには、都道府県が所管ですので、都道府県の人たちはともかく条例を作ったりいろんな実務をしなきゃいけないので、当然やりますよね。ただ、その前に、震災前なんですけども、この94年のときにシンポジウムやったあたりからも結構、自治体の人は関心があったんですね。あの時点でそれは何なんですかね。

山岡 関心を持ったのは特に若い職員たち、中堅の人たちだろうな。

木原 感度いい職員がいたよね。僕からすると、やっぱり関心が高まったのはNPO法ができてからですよ。NPO法ができる前は、僕に言わせれば自治体の皆さん方はほとんど関心なくてね。「できたとたんに一挙に関心を示すってのは、どういうこっちゃ」っていう感じがあった。

辻 自治体職員が関心を持ち始めたきっかけというか背景には地方分権という話があったんですかね。93年の8月でしょう、日本新党など8党連立の細川政権ができるのが。あのときに確か、地方分権法、情報公開法などを作るというのが閣議で決定されていく。介護保険などの検討も始まる。細川政権の成立が結構、背景にあると思うんですね。

木原 地方分権推進会議かな。

山岡 社会全体がね。特に新聞記者たちの関心がこういう面に向いたっていう状況があると思うね。

辻 今まで自民党一党支配、55年体制からの脱皮みたいなことが言われて、自治体の敏感な人たちにとっては、分権がらみで市民セクター的なものがやっぱり頭の中にあったのかも知れないなんて感じもしましたね。

山岡 数は少ないけども、そういう人もいたかもしれないね。経済の動きは何となくわかるけど、政治の動きはどう反映したかっていうのは、直接じゃないけど間接には影響していると思うね。

 NIRAの報告書では提案のようなこともまとめていますよね。それを例えば運動にしていくということは、まあ研究会ですのでストレートにはいかないとは思うんですけど、なにか、そういう議論もされたんですか。

木原 それは調査研究したのは震災が起こる前ですよ、おそらく日本の社会で市民公益活動ということの意味・意義とか、制度改正を含めてのことに関しては、10年かかると思いました。

辻 うちもそう思っていました。

木原 だからゆっくりと時間をかけて、こういう制度の必要性を説いていくという作業がいるというのが、おそらくここに集まったチームの気持ちですね。それが突然に震災になりましたでしょう。だから一番の懸念は、市民活動をやっている皆さん方との間で全国的な共有化ができるかという問題でした。制度の必要性を議論しながら共有化というところがなかったというのが懸念なんですよ。結果的に今はどうかということは別にしましても、制度としてはぱっとできましたけど。魂というとおかしいけど、なかなか広く社会的な議論としてはできていなかったかなという懸念がありますよね。

辻 シーズを作った我々もそうなんですけども、すぐには法律はできないという認識はたぶん共有していたんですね。シーズをつくるための準備会では、山岡さんも参加されていたんですけど、その中の議論でも、まあ今世紀中はちょっと難しいだろうという感じでした。当時1994年ですから。2000年ぐらいまでは、こうやって少しずつ地道に広げて行くんだろうねというような話はしてましたね。ともかくNPOという言葉すら、皆さんに浸透していなかったので、普通はNGOですからね。だから、ともかくNPOという考え方とか理念みたいなものを、まず日本の中で広げなきゃいけないというところからスタートするんだろうみたいな話をしてたんですね。

ただ、待っていても広がらないので、ともかく立法の運動体を作ってしまおう、というのが我々の立場でした。とりあえず拙速でいいから法律を作るという目的の団体として広げていかないと、なかなか動かないだろうというのが、我々の判断だったんですね。

木原 あの当時の日本の政府と市民社会の関係においてもそうでしょう。市民社会内においても、そういう政治運動はないでしょう。だからある意味では時間がかかるというのは、もう、当然の認識だったですよね。

辻 だから、シーズをつくったときもとりたてて確たる見通しがあったわけじゃないんですよ。

木原 まあ、こういう運動っていうのはそういうもんですよね。やってみなきゃわからない。走りながらやっていこう、考えていこうということですね。

辻 走りながら考えましょう。ただ、走らないと進まないだろうっていうのはあったんですね。そこに、たまたま阪神大震災が起きたから、追い風になりましたけどもね。

原田 いくつか確認なんですけども。まず、NIRAの報告書は第1期と第2期があって、第1期はかなり広い実態調査で、第2期がすでに民法改正と特別法にかなり踏み込んだ議論になっていると思うんですけれども、これは最初に立ち上げた時点で「1期目が終わったら次は法案」みたいな話は想定されていたのか、それとも第2期が始まってすぐぐらいに震災が起こって、「それに合わせてこっちも用意しなきゃ」ということで法案作りに踏み込んでいったのか、どちらなのでしょうか。

山岡 どうだろう…。第1期を作ったときは、法案をやるっていうことは最初から決めてはいなかったよね。反響が大きかったんで、もうちょっと早い時期にもう一歩進めようかっていうことじゃないかな。それは震災よりも前に、前年の12月に僕らの研究会が立ち上がってますから。雨宮さんに中核メンバーに入ってもらったり加藤(一郎)先生に顧問になってもらったということは、最初から法案を提案するところまでもっていこうという気持ちだったんでしょうね。

木原 それはちょっと私も記憶ないですけど。しかし、おそらく最初からこれではなかったでしょう。

山岡 まあ、なかったけど、最初から第2弾をやるという計画もなかったよ。反響がなかったら、次にいかなかったと思うよ。やっぱりNIRAとしては反響がかなりあったんで。第2期が始まるまでずいぶん時間があるでしょう。4月に出して、第2期が始まるのが12月でしょう。だから、そんなにスムーズに第2バージョンというのじゃなくて、第1回やって、とにかくフォーラムやろうよって東京と大阪でやって、評判になって、問い合わせもあって報告書も売れたんで、「これはやっぱり次に進めないといけないね」っていう感じでしたね。

辻 それでNIRAがまたお金を出すっていう話になったのですよね。

山岡 こっちももうちょっとやりたいねっていう気持ち、やる気があったから。

辻 そうすると、この頃ぐらいから、もう、第2期の研究会を作るという話にはなってたんですね。

山岡 大阪でフォーラムやった後だと思うよ。やるとなったら、すぐに契約してると思う。半年以上あいてますから。

木原 NIRAの担当者は変わってますよね。

山岡 ここに書いてあるけど、第1期は楠本・岡先・豊島。第2期は岡先・栗山・石川。岡先さんは両方やってたんだ。それで岡先さんとは結構、付き合いがあったのかな。

木原 岡先さんは、大阪市でしたか。

山岡 いや、大阪府かな。経企庁に出向していたんだよね。だからこの人、ちょっとしたら戻ってる。

辻 それで昨日、高見さんが言ってました。当時、経企庁に自治体からいろんな職員が出向してきて、あちこち動いて、いろんなことを調べていたと言ったんですよ。それが95年ぐらいのときだった。ちょうど、経企庁の例の、国民生活局長の坂本さんが動いていた頃に、経企庁にはかなりの自治体系の職員が出向してきて、NPO法に関していろいろと動いていたと。独自に調査を自分たちでやっていたと言ってました。

木原 これ、NIRAに聞けばわかりませんか。

山岡 もうNIRAはつぶれちゃった。石川さんはどっかに行ったかな。

辻 自治体職員が経企庁にかなりの人数が出向して、NPO法に関わったということで、先ほどの自治体職員で関心をもつ人がいたということと、何とか平仄が合ってくるんだ。

木原 その辺にPRしたかも知れないね。

山岡 そうそう、あるかも知れない。NIRAも基本的には経企庁系ですから。

原田 第2期になってくると、震災のあと3月にNIRAグループの名前で村山首相に要望書を出して、その後、4月に連絡会にNIRAグループとして入るんですけども。そういう要望を出したり、連絡会に入るのは山岡さんが結構中心でやられて、こちらの報告書の内容は木原さんたちで進めていたみたいな形だったんですか?

山岡 そんなに使い分けはしてなかったね。

木原 だから、僕が関わったのは、村山内閣の五十嵐官房長官に会ったときに一緒に行きましたよ。あのときは一緒でした。

辻 それはNIRAグループとして行かれたわけですね。

木原 そうそう。あのとき公明党も「ボランティア基本法」っていうのを出して、これだといろいろと問題あるなというので。

原田 なるほど。それで、この研究会のメンバーで出さないといけないみたいな感じですか。

木原 名前はどういうふうにしたんでしたっけ。

山岡 市民公益活動研究会かなんか、名前つけて。連絡会にも、その名前で入ったと思う。NIRAグループじゃなかった。

辻 あの時、シーズと、市民公益活動研究会と、大阪のNPO研究フォーラム。この3者で連絡会を始めたんですね。だから世古さんは、市民公益活動研究会のメンバーで来ていたんだ。

山岡 そうですね。連絡会は、まあだいたい3者でやってたけども、大阪でやるときは佐野さんが入ったかな。震災後はいろいろ、佐野さんも「応援する市民の会」と一緒に、早瀬さんたちとやるんだけど、飛び出しちゃうわけだ。

木原 僕もいたりしましたもんね。

山岡 それで、佐野さんがぱっぱといろいろやっちゃうもんで、やっぱり早瀬さんはじっくりといろんな人とやりたいので、それであって一時期、早瀬さんと佐野さんはやや合わなくなってたね。

木原 まだ大震災から3ヶ月ぐらいでしょう。あの頃はみんな、殺気立ってましたもんね。

辻 関西はやっぱり、震災のいろんな影響というか、その後のNPO法に行くにあたってもあるんでしょうね。我々と違う位置づけとか、関係がね。今田さんと市村さんのコンビとか、3つぐらい、なんかあるみたいですね。やっぱり震災をめぐってのいろんな思いがあるのでしょうね。だからNPO法を 作るに当たってもそれぞれ、ニュアンスが違うんですよ。

木原 私はコミットできなかったけど、立法過程のイニシアチブというのは、やっぱりシーズ、松原さんですか。

山岡 基本的にはシーズだね。それと僕なんかが、全国に「こういうのが必要だ」っていうことを飛び回って言って。ときどき松原さんと「これは困るよね」とか「こういうのやってよね」とか、そういうことをやっていた。

辻 立法過程でいろいろと法律案を作っていく中身の所では与党から呼ばれているのが、山岡さんと松原さんですね。堀田さんなんかは時々出てくるけど、まあ、必ず呼ばれるとだいたいこのお2人が出てきて、法律の中身の話だといろいろと論点が出てくるので、雨宮さんが専門家として出てくる。山岡さんたちと連絡会を作ったのが、確か95年の4月ですかね。山岡さんがいた長谷工の会議室に5、6人集まって、ともかく連絡会を作ろうじゃないかと話して、連絡会のもとで全国キャンペーン活動を始める。山岡さんがだいたい全国行脚係みたいな役割で、キャンペーンとかロビーイングとか、署名集めとか運動系だとシーズになる、というような役割分担を結構していましたね。関西では早瀬さんが中心だったんですかね。

山岡 いや、法人制度には今田さんが一番関心持っていました。

木原 そうですね、法人制度は今田さんですね。

辻 連絡会には関西から大阪大の本間(正明)さん、跡田(直澄)さん、サントリー財団の出口(正人)さんたちのNPO研究フォーラムが入りました。木原さんは、NPO研究フォーラムに関わっていたのですか。

木原 本間先生とは会っていると思うんですけど、フォーラムとはそんなにコミットしていなかったんじゃないですかね。

山岡 山内(直人)さんが大阪大に来たのは、もうちょっとあとですかね。経済白書でフィランソロピーという言葉を初めて使って脚光を浴びた。最初は経企庁に籍を置いたまま大阪大に来ていたんですね。それでNPO研究フォーラムができるのがこの前後だったかな。

木原 あの時期というのはいろんなものが芽生えてくるというか、出てくるんですね、やっぱり。

辻 研究フォーラムは93年3月にできていますね。

山岡 NIRAの研究が始まった直後だね。これは僕の持論なんだけども、一つは経済界。経済界は1985、86年から海外進出するわけです、特にアメリカに。日米貿易摩擦で出ざるを得ないわけ。そうして現地に行くと必ずNGO、NPOがあって、必ず寄付を求められるわけです。寄付を出さないと新聞で叩かれる。それで田代さんはちょうどその頃、ワシントンの日本大使館に詰めていて、いろいろな問題を聞くので、これはいかん、このままでは日本はアメリカ社会に定着できない、と。それで、日本の本社にとにかくアメリカに寄付をしてくれ、奥さんたちはPTAに参加してくれ、現地社会に溶け込んでくれということを言うんです。それで経団連の房野さんなどが、そういう田代さんの提言を受けて、いろいろ動くんです。ソニーの盛田さんが在米の日本商工会議所の会長だったのかな。盛田さんが、在米の日本企業を全部集めて、「これからはやっぱり、アメリカ社会にちゃんと適応してくれ」と言う。

普通、現地から「こういう寄付があるんだけど、どうですか」というときに、日本社会は恩返し主義なんですよ。トヨタ財団の設立趣旨もそうですけど、「お世話になりました」、「自分たちはこんなに儲けさせてもらいました、だから恩返しで寄付をします」というかたちが非常に馴染みいいわけね。だけど、これから工場を建てようというときに恩返しも何もないわけで、まだ利益も上がっていないのに寄付するというのは、日本の本社は全然理解できないわけです。それで「いや、そんなのしなくていい」と本社は言う。でも現地は「図書館作ったから基金をください」とか、「学校の奨学金をください」とか、もう工場の設計図ができた途端に次々くるわけだね。そういう中で企業はNPOというか、現地で様々な市民団体があって、そういう市民団体と共存しないと適応できないということがわかってくる。まあ、経団連の田代、房野はかなり理解して、田代さんはやっぱりそれが一番大きい経験だと思う。

それからもう一つは、85年のプラザ合意で円高になりますでしょう。とにかく海外へ行くのが安くなったわけです。市民が80年代後半から、木原さんなんかもあっち行ったりこっち行ったり、僕らも行くわけだけども、円高の恩恵で非常に市民レベルで、市民活動家にしろ、海外に行く人が増えてきた。そうするとイギリスに行って小山さんに会うと「グランド・ワークでこんなのができたよ」とか、アメリカに行くと上野さんに会って、向こうの財団の研究するとかというと、インディペンデンスセクターがアメリカにできたとか、そういう情報をキャッチしてくるわけだよね。アメリカ社会とイギリス社会を市民レベルで見るようになったわけだ。それで市民団体も、単なる運動体じゃなくて、やはり持続した活動ができるようにならないといけないという認識ができてきたと思うんですね。そういう点で行政はやっぱり一番遅れていたと思います。行政はあまりそういう実感はなかったと。だから市民団体と企業の両方から、やっぱり市民社会を作っていくべきで、まさに木原さんが感じたようなことを、いろんな人が実感したわけです。

木原 僕らも海外に行っているんですけど、やっぱり自分の奈良でやっている活動がいったい社会的にどういう意味があるのかとかね、それをすごく考え出しましたよ。何のためにやっているのかと。今までは奈良という地域の街並み保存というだけの範囲から、やっぱり行き詰まって、もっと究極はいったい何なのかというような、そういうことを求めましたよ。あの時期、そんなことを10数年以上やってきた方たち、山岡さんのグループというか、山岡さんが先行して制度の研究をされていませんでしたか。それが一番早いんですよ。あれはいつ頃ですか。

山岡 80年代後半からいろいろと研究していましたね。86年かな、公益法人協会を中心に、公益法人活動研究会をやっていたね。今の民法を改正しないといけないというので。僕は市民団体側から参加して、やっぱり市民団体はきちんと主務官庁制ではない法人格を持たないとだめだというのは80年代後半から言っていたと思うんだけど。公法協を中心にいろいろ提案をしている。僕はこれにかなりコミットしてやったけどね。

辻 86年から88年ぐらいにかけて、公益法人協会が中心になって民法改正などの研究に力を入れたわけですね。これはやっぱり行革などに関係があったんですか。

山岡 いや、行革は特に関係なかったね。

木原 この時はこういうことをやろうという、言い出しっぺはどなたですか。

山岡 これは誰かな。税制だから、誰がやったかな。そのときは代表が橋本(徹)さん、関学の財政の先生になっているね。このときに本間さんが加わるんだよ。そう、橋本・本間体制でやるわけ、税制は。本間さんはそれで出てくるの。それで、もうちょっと具体的にしたのがこれで、僕はもう法人制度の将来の仕組みをかなり具体的に描いたもんだから、とうとうこの報告書は表へ出なかったけど。

木原 シビックトラストの論文がありましたね。僕はそれを読ませてもらって、こういう情報というか知識を得た。あれは何年でしたか?

山岡 「シビックトラスト試論」というのを書いたのは、(トヨタ財団の)5周年記念事業で「街と建物―明治・大正・昭和」全国巡回報告会や“身近な環境をみつめよう”研究コンクールを始めたときだから、80年か81年だね。

 石村(耕治)さんがいますね。公益法人と公益信託の税制ですね、ここは。

山岡 石村耕治さんの研究には、僕とか雨宮さんとか出口さんが入っていたかな。僕はかなりこの辺でいろいろ活躍していたというか。だから税制の議論と法人制度の議論を2本立てというわけじゃないんだけど、両方に絡むわけだ。公益法人協会での税制の提案はかなりアメリカ型の提案だったんですよ。本間さんと関学の橋本さんを中心にアメリカンミッションで、アメリカ型の税制に切り替えようという、かなり大胆な案なので、すぐに現在の制度の改良にならないわけですよ。石村さんのほうは、もうちょっと現実的に現在の制度をどういうふうに変えていくかということをやろうという。大先生たちが書いてくれた雲の上の絵では現場を変えていくのはちょっと無理だというので、それはそれとして将来の目標としておいて、もっと現実的に現在の制度の問題点を指摘していこうというので、『フィランソロピー税制の基本的課題』という本になるんです。

辻 この時期に公益法人協会が一気に動き出したのはなにか、バックグラウンドがあるんですか。

山岡 林修三さんなんかの影響があるかな。林修三さんも元の法制局長官だから、今の公益法人制度は変えないといけないという。しかし、役人には変えられないという思いは強く持っていた。税制は特に誰かというのが、よくわからないな。

辻 ここで85年に中間法人制度の勧告というのが出ていますね。この85年に、いくつか法人制度の動きがあるんですね。

山岡 中間法人制度は行政監察から出たね。それはまさに行革的な側面がある。そう、コントロールを強めてくるんです。だんだん国の基準を強めてきて、この辺からますますいわゆる公益法人が作りにくくなるわけですよ。それを受けた動きはあるかも知れないね。この頃、公益法人の不祥事がたくさん起こるわけです。公益法人は主務官庁別にバラバラでやっていたわけですから、共通の監督指導基準とか設立基準とか作って、もうちょっとコントロールしようとする。だんだんと毎年、設立する数は減ってくるわけですよ。市民団体なんか、ますますなれなくなるという状況は80年代にあったと思います。

木原 このあたりは、臨調とか行革を受けての対応ということでもないんですか。

山岡 臨調を受けてという大きい背景ではない。やっぱり不祥事に対して、監督官庁は何をしてるんだ、という世間がうるさいから、ですね。行政監察は2度ほど勧告を出しているんです。今の法人制度の中では中間法人的なものが存在しないから中間法人制度を作れと。中間法人制度がないから中間法人が公益法人になって、あまり公益性のない活動をたくさんやっているんだ、と。だから中間法人制度は別にちゃんと作らないといけないという勧告が2度ほど出ている。

辻 この頃はゴルフクラブの会員権がバブルで暴騰して注目されていましたよね。確かあの頃、小金井カントリークラブが社団法人ということで、どこに公益性があるんだという話をしていましたが、もうちょっと後ですかね。

山岡 それはバブルになってから87、88年頃だから、少し後だね。

木原 私なんか、その辺の流れということで重なったと思うんですね。「何かおかしい」ということを言っていただいていたから、やっぱりそれがある面では制度とかそういうものを構築しなくてはならないというふうに行きますので。何もなかったら、そんなこと考えもしませんしね。海外の影響ももちろんあるけれども、国内でそういう研究なり提言というのがあって、それは広くはなかなか知れ渡っていないですけどね。トヨタ財団の研究助成をもらった団体などには、山岡さんのそういうような考えがやはり情報的には流れたかも知れませんね。

辻 当時、80年代の後半は結構、まちづくり系で、いわゆる街並みもそうなんですけども、各地でいろいろと事業型で行政にお任せではだめだと。ある意味では街が衰退しつつある中で、自分たちの手で街を作っていくんだという町おこしというか、動きが各地にありましたよね。あのときにやっぱり、自分たちは営利のためにやっているわけではないけど、まあ法人格をとれば株式会社になる、まちづくり会社になるんですけども。どうも株式会社は似つかわしくなくて、何かないかと。例えば川越の蔵のまちに関わった人たちに聞くと、やっぱり事業組合みたいな、非営利というか、街のためにやってるんだからそこで儲けようというんじゃなくて、「事業するのにそういう法人格が要るんだよね」みたいなことから、社団法人を追求するんだけど、とてもハードルが高すぎてなかなか法人格になりにくいという話が出てくるわけですよ。

木原 ありましたよね。

山岡 それは一番中心になったのは、地域交流センターだと思うんだ。株式会社を作ったけどね。

辻 新橋でスナックのような「集」をやっていた、田中(栄治)さんですね。僕らも集には出入りしていたんですよ。霞ヶ関の役人たちが飲みにきたりして、そういう意味でのサロンの場みたいになっていましたね。

山岡 彼なんかはやっぱり、「うちは無配当の株式会社だから、非営利組織なんだ」と言ったけど。NPOが行政から委託を受けるときにどうしても法人格が必要ですから、そういう点では有限会社や株式会社でとならざるをえない。

辻 まちづくり系って、法人格をとるということのニーズというのが地域でまちづくり活動をやっていると、株式会社や有限会社では違うなということがわかってくるように思いますけど。

山岡 地域では、そんなにニーズは感じてないと思う、今でもそうだけど。まちづくり系の団体で、地域で、ローカルなまちづくり系団体で法人格を必要とするというところまで、まだいっていなかったと思う。今必要としているとしたら、指定管理制度ですよ。指定管理をとって古い建物を守っていこうとか、そういうのに参入する時に必要になってきているから、今はとっていると思うけど。あの頃はそんなに法人格の必要はなかった。全国組織や大都市の組織は必要だったけども、地域のローカルな組織は、法人格がどうしても必要ということではなかった。

辻 どちらかというとJCみたいなところですか。

木原 そうですね、ああいうのはありましたけどね。だから僕らがときどき言っていた社会的な信用というのですか、そういうことに結びつくということと、ある意味では、それイコール会員とかが増えてくるという流れでしたよね。だからそんなに、今までやってきて苦労してきたことが法人格を取ったからといって解決する保証はなかったですね。ただ長く続けていかなきゃいかんということはわかっていましたから、そのためには法人格を取ってきちっとした形のマネージメント、経営というか運営をしなきゃならない、持続させるための手段としての法人格というのはありましたね。僕はそれで社団法人を取ったんですよ。「国のレベルはしんどいけど、地方自治体ぐらいだったらやれんのとちゃうかな」と思って、そんな気持ちを持っていたんです。もっと挑戦したら取れるのにな、と思った。

山岡 奈良県は割合、播磨さんのところもそうだけど、公益法人を割合取りやすいんですよ。

木原 私の奈良まちづくりセンターは、はっきり申し上げて、会員は70名ぐらいしかいませんから。その時、お金は14万円ぐらいしかなかったんですから。それじゃ普通はできない。それでも奈良まちづくりセンターが取れたのは、その当時の知事の上田(繁潔)さんと副知事の滝(実)さんのお蔭です。滝さんは今の法務大臣ですね。僕の活動がトヨタ財団から研究助成を取って提案をちゃんとしているじゃないかということで滝さんは私の活動を完全に評価してくれたんですよ。これも地縁ですけど、私の父が奈良高校の校長をかつてしていたので、「まあ、木原の息子やから」というのもあるんですよ。こういうのは本当は困るんですけどね、裁量ですから。

辻 いい意味での裁量、結果が良ければいいという。14万円で普通できないですよね。当時、2000万円でもだめみたいな話もありますものね。向こう3年間活動できるお金をちゃんともって、みたいな話ですから、普通は。たんぽぽの家もそれで社団法人になったんですか。

木原 あそこは財団ですね。土地を県から寄付されたんだよね。あのときは奥田(良三)知事ですね。上田さんの前です。

山岡 土地は借地権だったと思う。

辻 たんぽぽの方が早いんですか。珍しいですよね。いわゆる市民団体が財団法人だの社団法人だの取れるなんて。なにせ、アムネスティが苦闘していましたからね。確か、最初に外務省でOKもらったら、「やっぱり死刑囚の問題をやっているから、法務省に行ってこい」「法務省がOKと言ったらいいよ」という話になって、それで頭に来てたんですよ。「なんで最初に両方をやれっていってくれなかったんだ」というようなことを、担当者が言ってましたね。

木原 あの当時の社団・財団をとるには1年ぐらいかかっていましたね、書類もこんなんでしょう。やっぱりその辺の申請における手続きとか時間とか、いろんな意味で役所の都合に合わせなきゃならないとかを経験しますよね。絶対取るつもりでやったから、普通じゃなかったですけどね。そのとき奈良でも右翼の菊水会(現在は解散して存在せず)関係者が社会科学研究所というのを作って、それが社団法人になっていました。びっくりしました、右翼団体がとっていたとは(笑)。僕らの申請のちょっと前。逆にそういうのも通している。

山岡 そういう点では、社団法人というのは甘いんだよね。甘いというか、属人的にできる。

辻 奈良まち的な法人格を求める動きは、関西では広がらなかったんですか。ある意味でまちづくり系で、例えばこういう法人格が必要だねとか、地域をマネージメントするときにはそういうものが必要だねというような話にはならなかったんですか。

木原 そんなに法人格ということが、もう避けて通れないような認識ではなかったですね。今はもうNPO法人できたから簡単に取っていますけどもね。その当時はそういうことじゃなかった。

山岡 まちづくりでは、神戸の宮西(悠司)さんとか都市計画の事務所はみんな株式会社の事務所を持っているわけです。だから行政などいろいろな委託を受けるときは、そういう住民活動的なものでも、その事務所でとれましたから、あまり独立した非営利法人を作らないといけないというニーズはなかった。ただ宮西さんは関心を持っていたよね。僕は震災前に何度も神戸に行ってますけど。相当程度の事業活動をやってきた人たちは、「やっぱり株式会社の延長上では、これはできないね」という意識は持っていたと思うけど、それが大勢ではない。

辻 神戸も、真野とかみんな商店街が中心ですね。

木原 まちづくり協議会なんですけどね。地区計画に基づく組織でしたかな。

辻 そうですね。神戸の場合はまちづくり条例で協議会を位置づけてできましたから、特に法人にする必要はなかったんですね。

山岡 非営利法人にしないとできないという話ではなかったけど、株式会社で受けて地域をやるっていうのは、地域の人にとっては、やっぱり違和感があるわけだよね。「我々を利用して儲けるんでしょ」といわれる。株式会社はそういうやり方するから、できるだけ、そうではない法人が必要だっていうのは、相当程度の事業をやる人は感じてはいたと思う。

辻 東京で言えば亀有の東和商店街ですけど、仕方なく株式会社になったんですね。あそこも作った人に聞くと、「本当は株式会社やりたくなかった、NPO法人みたいのがあればそっちに行ったのに」と言ってましたね。それでも配当のない株式会社でいいじゃないみたいな話には皆さんなっていて、NPO法人ができたから「そうだね」って話になるけど、その当時は別に有限会社や株式会社でいいや、配当しなきゃいいんだ、出資する人がOKなら、という感じでしたね。だから、非営利とか公益ということにそんなに強力にこだわらない。まちづくりの場合は地域でやっていれば、地域のためにやっていることはだいたい住民から見えるので、あえてそんなに公益だとか非営利だとかということに、そんなにこだわらないでできるというのがあったんですかね。

山岡 こだわらないでもできるけど、ある程度やるとそこに限界を感じてくという状況でしょう。限界を感じるところまでいっている団体はそんなに多くはなかったけど。

辻 事業などをやると、行政からの委託などを受け始めるじゃないですか。当時もいろいろと、やっぱり法人格がいりますよ、みたいな話はありましたか。

木原 それはありましたね。だから我々が社団法人をとると委託とか市から出ました。それは確かにいろいろな面でプラスになりますけどね。

山岡 NIRAだって、奈良まちづくりセンターが任意団体だったらこんなに出せませんよ、やっぱり。

木原 それはそうですね。

辻 結局そういう事業委託を受けはじめてからですかね、地域のまちづくり団体が、法人格の必要性を感じはじめたのは。

木原 どうやろ。私らの時ってやっぱり調査委託ですが、まちづくり関係で調査委託を受けるっていうのは、珍しいっていうか、まずないですもんね。その頃は、まちづくりをやっている人たちはイベントをやったりしていますが、その他の事業的なことはやっていませんよね。最近は事業的なことをやりだしてきてますから、奈良でもNPO法人格をとりだしてきてますね。

辻 神奈川のアリスセンターが93年ぐらいですか、有限会社をとるんですね。今まで生活クラブの中の組織だったんですけど、そこから自立するというときにどうやって食っていこうかという話になる。結局、行政から委託を取るためには、とりあえず法人格がいるので有限会社にしたわけですね。

木原 それは自然ですよね、法人格の必要性っていうのは。

山岡 補助金だったら法人格がなくていいわけですよ、任意団体でも。でも委託になると法人格がないと受けられない。

辻 だから行政がNPOにまちづくりとかいう名目で委託を出すようになってきたのは、あの辺なのかなと思っているんですけど。それでにわかに、まちづくり系が法人格が必要だと積極的になってきた、そんな印象がある。林泰義さんたちがアメリカのCDCを訪ね歩いて、「NPO教書」を作ったわけですけども、あの時は明らかにまちづくりを事業として持続可能な展開をするには、CDCみたいな組織、それは当然法人格が必要になるわけですから。あの当時日本はまだCDC的な感覚というのは、まだまちづくり団体はないんですよね。

山岡 断片的には紹介しているけど。CDCを日本で最初に紹介したのは平山洋介さん。あれもトヨタ財団の助成で、最初に平山さんが大学院のとき、早川(和男)さんから電話がかかってきた。「うちの大学院生でこんなことをやりたいというのがいて、アメリカに行くんだけど、どうかね」とか言うんでね。それで僕は、こういう動きがあるからいいんじゃないのって言った覚えがある。早川さんはどちらかというとやっぱり、あの人は社会主義者ですから、住宅政策は責任もって公的でやるべきであって、NPOやら民間団体がやるなんてのはおかしいというのが基本的な考えなんだけれども、「若い連中でこういうことをやりたいって言っている、こういうのはどうだろう」と。僕は「これからはやっぱりそういう民間の非営利組織の事業体っていうのがないとうまく行かないし、イギリスだってハウジング・アソシエーションというのも一応は民間の組織だし、そういう意味で民間非営利の組織はこれから重要になると思うよ」と言った。

木原 林さんのNPO教書が出たのはいつ頃でしたかね[1]

山岡 林さんがアメリカへ行ったのは90年代の後半だと思います。平山さんはその前にアメリカの大学院にいって、各地を回って調査をして、あの本が出たのは、92年とか93年ぐらい[2]。出たのは平山さんの方がちょっと早い。林さんも何度か行っているんだよね。あれは僕がハウジングアンドコミュニティー財団の企画委員をやっていたから、僕が企画して、林さんのチームに相当なお金をつけた。国内調査とアメリカ調査とヨーロッパ調査と、当時で毎年1000万円ずつで、3年ぐらい助成した。

辻 まちづくりには、財団がいろいろお金をつけていたと思うんですけど、やっぱり法人格というのはニーズがあまり無かったんですかね。

山岡 ニーズとしてはそんなにはなかった。かなり特殊な人が有限会社でやっているっていうぐらいです。そこから沸き起こってくるという感じではなかった。ただ、「こういうものがないとだめだよ」というのが僕や林さんね。「もうちょっと事業体としてしっかりとした、そういうための法人格は必要だね」っていうのは、僕らは言ったけど、全国各地から沸き起こってきたっていう感じはない。

木原 現状ではどうなんですか、CDCでしたか、あの事業体というのは。

山岡 まあ、ふるさとの会という、山谷でずっとホームレス対策でやっているところが、影響を受けていますよね。貧困層の住宅提供やっていますから。

辻 ふるさとの会はCDCとかイギリスのDTをすごく参考にしていますね。イギリスのDTもだいたいCDCを参考にして作ったとて言ってましたからね。元はCDCです。

山岡 日本では各地で生まれているって感じではない。

木原 それからですか、ああいう事業体が育ってくるというか、ますます必要になってくるというのは。

辻 CDCもイギリスのDTも、ちゃんと補助金制度で包括的に地域にはお金が落とせるような予算の仕組みを作ってやっていますから。我々もそういう包括的な予算みたいものを、きちっと地域のまちづくりみたいなところに落とせるような仕組みがないとなかなかできないという話は結構していたんですけどね。それは日本ではほとんどできていませんね。

山岡 日本の財政制度では難しい。

木原 地域協議会とか、まちづくり協議会とかに一括して交付する包括補助金がもう少し成長すると、そうなる可能性はある。一部で指定管理を受けたりコミュニティーバスを走らせたりというところもありますね。町内会は住民がボランティアでやっていますから、パワーがちょっと弱くて苦労していますけどね。協議会をうまく育てていったらいいかも知れないな。

辻 例えば指定管理は、施設管理になっているでしょう。ある程度の収益事業をやってもいいという話になるんだけど、それにしても施設という、行政が作ったものを単に管理して効率よく運営するみたいなことにとどまっていて、それを利用していろいろな事業ができるというな形にはなっていないんですね。向こうのCDCとかDTは基本的に、自分たちで施設を作ることもできるし、それを活用してそこからいろいろな収益事業を組み立てることもできるような仕組みになっているので、たぶんそこが明らかに違うと思うんですけどね。今の日本の指定管理は、行政が作ったハコモノが効率よくできないから、まあ、指定管理で安くやってもらおうという話でしかないですから。議会でいちいち条例で決めなくてはいけないことになっているので、CDCのようになるのは厳しいですね。

木原 ソーシャルビジネスがいろいろと出ていますが、あの辺と今の話と結びつきますか。

辻 どうですか、ソーシャルビジネスはまた違いますね。

木原 僕もあまりわからないんだけど、サービス提供ですよね。地域をマネージメントするというか、包括的じゃないですよね、コミュニティーをマネージメントしていくというような、事業型の活動ということが求められているのですね。その辺、これから課題としては出てくるでしょうね。まちづくり協議会は各地に出てきているけど、今の私の見立てでは行政主導なんですね。自発的に地域の皆さん方が事業を起こすなり自分たちが仕切って、自分たちで納めた税金を自分たちの自治に使うからよこせ、という発想じゃないんです。わしらに任せなさいという発想じゃないですよ。行政から今までの補助金がばらばらに出ていたものをまとめて、少し減らして、「はい、これで優先順位つけてやんなさい」というような話なんですね。

それを脱却して、自分たちで納めた税金の一定枠を確実にこの地域、小学校区なり中学校区なりの地域に5億なら5億円というお金を確保する。それで福祉、介護の問題、空き家の問題、いろいろなことを地域でやりまっせというような、そういうような事業体が出てこないといけない。

辻 昨日ちょうど、高見省次さんにお会いした。当時はさきがけの政調スタッフで、いま奈良で宇陀市議をやっています。宇陀もやっぱり人口はどんどん減っているし、高齢化率は30%を優に超えているという。やっぱり高見さんが言っているのは、一種のエリアマネージメントみたいな話なんですね。ともかくいろいろな資源はあるんだけども、そういう資源をどういうふうに結びつけて全体としてどういうふうに地域を活性化していくかが問われているんだと。それが、人的資源が枯渇してきているなかで、少ない資源がやっぱりつながっていないという。個別ではそれぞれ努力しているんですけどもね。

木原 NPOセンターとか、地域の支援センターというのは、そういうつなぐ役割を果たすべきなんでしょうけど。ばらばらの資源をつなぐということで機能させることは、これはこれで大変な仕事なんですけどね。

 地域のNPO支援センターが果たすべき役割ということと、始めに木原さんがNPO法という制度の必要性を全国的に市民活動をやっている人たちと議論し、共有化することができなかったことが懸念だったとおっしゃったことと関連がありますか。

木原 阪神の震災があって、それを契機に(NPO法が)できたということでしょう。そういう意味で、われわれ市民社会の中において、先ほど申し上げたような議論がなかなかできなかったということと、行政サイドの方も、結局、制度がぱっとできましたということですね。理解していようがしていまいが、制度ができたからそれに対応せにゃいかんとなるわけでしょう。だからそういう意味で、市民公益活動といったことを日本の社会において強化することの必要性、あるいは政府の考えにおいて、これから自治体の経営なりガバナンスにおいて、そういった活動が重要なんだってことの認識もないままで、彼らは制度ができたから、一挙にNPOの支援だとか、いろいろな形でばっと広がってきたじゃないですか。逆にそれが、今の現代の政府とNPOセクターとの間における関係性を意外に規定しているかも知れないし。市民社会そのものの存在とかパワーというのかな、なかなか日本の社会においての存在証明的なるものの弱さというのかな、ひょっとしたらそのへんの議論をする間がなかったということが原因なのかも知れませんし、これはちょっとわかりませんけど。

辻 そうですね。シーズを作るための準備会というのを94年の4月23日、山岡さんのNIRAの報告も含めてシンポジウムをやって、そのときに、そういう立法運動をやる組織を作るので準備会的なものを始めますということを、集会の決議に盛り込んで始めたんですね。シーズができるのが11月ですが、5月から11月ぐらいまで、月2回ペースで10回ぐらい、準備会をやってるんですけども。その中で議論してたひとつが、なんのために我々はNPO法人をつくるのかという話のときに、市民社会について結構議論をしてたんですよ。

ただ、市民社会論的なことについて、集まってくる人もいろいろ千差万別なので、なかなかまとめるのが難しい。日本は今、市民社会としてどのレベルにいるんだみたいな話とか、市民社会を強化するという言い方と、これから市民社会を創るんだという言い方と、これはまた認識が違ってくるし、つまり市民社会とは何かとか、いろいろ論点がある。そういう議論を一方でしてたけども、やっぱり具体的にどういう組織を作ってどういう活動をするんだみたいな話も一方でやらなきゃいけないので、議論はすれども、突っ込んで議論できないので、認識の共有ができなくて、結論は棚上げになるんですね。なかなかそう簡単にいかなくて、結局、何となく市民社会をこれから日本で創っていく、そのための道具としてNPO法人制度というのが必要なんだというようなことで落ち着いたというところですね。

木原 それはなかなか難しいですし、それだけの議論はなかなかできなかったですよね。

辻 うちはだから、作って走りながら煮詰めていきましょうというスタンスだったんですね。山岡さんもシーズの準備会には何度かお見えになって、お話をしたときに、やっぱり市民社会のためとかいろんな議論したじゃないですか、あの頃。やっぱり、そこはなかなか煮詰まんなかったですよね。

山岡 震災を過ぎてからは違うけど、震災までは、僕らとしては20世紀中にという感じだったからね。

辻 我々もそうだったんですよ。NPOって言葉すら誰も知らないんだから、まずこれを知ってもらうための手立てがいるだろうみたいな話をしてましたからね。ただ、震災が起こって、当面政府も動き始めたので、そうすると、当時は市民社会がどうのこうのとか、市民社会の中での位置づけとかいう話が棚上げになりましたね。

山岡 一気にもう、立法論になっちゃうからね。しかも僕らも深めるというよりも、もう技術論に行かざるを得ないわけですよね、技術論と政策論に。

辻 思うんですが、市民社会論ってどうして出てきたんですかね。

山岡 あれはアメリカがまず社会主義体制崩壊後の東欧について、フォード財団とかいくつかの財団が出かけて行くんですよ。それで東欧の民主化みたいな問題意識から、昔の古典的な西洋シビルソサエティー論とは別の文脈で、現代的な意味でのシビルソサエティー論がアメリカから出て来て、それが日本に入ってくるのはちょっと遅れるわけですよ。だから、95年の時点ではシビルソサエティー論はほとんどまだ出てなかった。

辻 東欧の市民革命があって、アメリカがそれを受け止めて、シビルソサエティー論が出てきたということですか。

山岡 それがアメリカで醸成されて、日本に入ってきた。

辻 結構日本の人たちでその辺の流れを早くキャッチしてて、そういう意味でNPOの法人論に市民社会を改めて考えないといけないよっていうのが、当時、もうすでに山岡さんなどには入っていたんですか。

山岡 僕らには入ってきたけど、僕らに入ってきたのもNIRAの時はその意味での市民社会論については議論していない。西洋古典の市民社会論はやったけども。近代的な市民社会論と現代的な市民社会論というのがあって、現代的な市民社会論はこの時点では僕らは認識なかった。

木原 新しい市民社会論ね。市民社会論のルネッサンスと呼ばれている市民社会論。1989年か、市民革命からですよね、クローズアップされたのは。

辻 今は枕詞のようにNPOとか市民セクターとかいうときに、市民社会を強化するとか新たな市民社会を創るとか必ず言うわけですが、その辺がもともとどこから始まったのかね、ということです。僕らもそんな話をぼやっと言ってたところがあるんですけども。結構そこはたどると面白いですね。

木原 だから、ハーバーマスの『公共性の構造転換』、あれは何年ですかね。

原田 あれも改訂版を出してるんですね。ハーバーマスが最初に出したのが古典的な公共性概念で、その後アメリカの影響を受けて新しく書き直したのが結構新しい。

木原 それは東欧革命で彼が考え直して、違うのを書いて出したよね。あれは影響あったでしょうね。

辻 与えてますね。ただ、あれはかなり研究者レベルですよね。

木原 いずれにしろ市民社会論って、研究レベルで。

辻 94年とか95年ぐらいで市民社会というような話が、NPO法人の立法運動なんかで出てくるという話は、今の山岡さんの話だとまだ東欧革命とか新たな市民社会論でなくて、旧来型の市民社会論の中で議論したのかということですか。

山岡 いわゆる市民社会って言葉は使わずに、市民セクターって言葉を使ったわけ。市民社会っていうのはイデオロギー的にいろいろややこしいじゃない。だから市民セクターを出した。

辻 新しい公共論が出てきたのが、やっぱり95、96年ですかね。

山岡 95、96年から、「新たな公共」とか「新たな公益」とか、国民生活審議会の報告でも「新しい公」とか出しましたね。NPOの議論の中で、僕らはNPOってのは「新しい公共の担い手」なんだ、と。僕なんかがあちこちで講演してたのはそういう話をしてるわけだ。

辻 旧来の公益法人制度に対するアンチですね。われわれもやっぱり、NPO立法運動の中で旧来型の公益法人に対して、我々は「新しい公」だとか、「新しい公共」だという意味で使っていた。

山岡 そういうことです。そういう意味で。主務官庁制だったら「新しい公」にならないわけで、従来の公の下請けしかできないわけだから。「新しい公共」とか「新しい公」とか「民による公」とか、そういう言い方で僕らは使っていた。

辻 新しい公共はそういう意味で使っていたんですね、あの頃は。だから、その辺の市民社会論も含めてたどると面白いかも知れない。

山岡 自治体でもかなり、90年代の末ぐらいから、自治体の報告書とか各省庁の報告書には「新しい公」とか「新しい公益」とか「新しい公共」とか、いろんな言い方で出てきてますよ。90年代後半から。それはNPOの説明をするときは一番わかりやすいんですよ。だから僕は、常にそういう言い方で講演していますけど。

辻 自治体関係では、一部なんでしょうけども、公務員制度改革みたいなところで市民公務員制度とか、そういう議論が結構あるんですよ。90年過ぎたぐらいで。自治体を市民自治体というふうに変えていくというような形で、従来の公務員制度を変えなきゃいけないっていう話があって、市民が担う公務みたいな議論が出てくる。それをやっていたのが、三鷹とかあの辺の自治体の職員のグループです。それが結構、そんな議論をずっとしてるんですよ。そのグループは結構早くからNPO法とか市民セクターとか、注目していましたよ。そういう動きは確かにあったですね。あれは、行政改革の方から来ているんだろうと思うんですけどね。

山岡 市民参加論・住民参加論ですよ、武蔵野市・三鷹市はね。

辻 自治体職員の都市研究会グループと東京ランポもかなり一緒に活動しましたから。自治体職員のいろんな動きがやっぱり90年前後から一気に出てきたんですね。

山岡 ネットワーカーズ会議があって、ネットワーカーズフォーラムの1回目がリップナックとスタンプスを呼んできて89年か。第2回が法人制度で92年にアメリカのNPO法人の紹介などをした。この時は企業と行政と市民団体と三者がかなり参加したんです。これは、初めての経験だった。企業人と自治体職員とNPO関係者などいろんな分野の参加構成だった。

辻 分科会が10個ぐらいあって、その中の1つに法人格の話が入っているんですね。

山岡 アメリカ側が1つと日本側から1つで、僕が基調講演して、新しい法人制度を日本に必要だってことを言ったんですよ。考えてたことを言ったわけだけど、それはかなり広がりを持った。

辻 ネットワーカーズ会議は元々、どっからの発想ですか。

山岡 ネットワーク会議はトヨタ財団だね。そのとき最初の代表が、播磨さんと栗原彬さんと、あと朝日の編集委員の西村(秀俊)さんの3人。西村さんはAERAの編集長になったかな。それで裏方の仕掛けや事務的なことは渡辺元さんがやっていた。

木原 それはどういう目的で作ったんですかね?

山岡 とにかく市民団体がばらばらであってもしょうがないんじゃないか、と。もうちょっと、日本の市民セクターを一体のものにしていかないといけない、そのための理論武装する勉強会、広がりのある勉強会をやろうというので始めた。最初はネットワーク研究フォーラムとかいう名前だったんじゃなかったかな。

辻 金子郁容さんのネットワーク論みたいものは反映しているんですか。

山岡 あれはちょっと反映していない。あれは情報社会論だからね、情報ネットワークになっちゃうんだよね。あのネットワーク論ではなくて、リップナックとスタンプスのネットワーク論をいかに日本に広げるのかという問題意識だね。川崎でやって、大阪でやって、名古屋でやったんですよね。やっぱり神奈川でやったフォーラムが一番、影響力が大きかった。肝心な人はだいたいあれに参加している。

辻 僕らも行きましたよ。ちょうどランポを立ち上げる準備的なことを始めたところでしたから。

木原 それは、市民団体のネットワークという市民社会論、新しい市民社会論に繋がる話じゃないですか。その辺は、新しい市民社会論を意識したんですかね。

山岡 その前後、僕ら市民セクター論やっていたからかなり意識した。市民社会論になると話が難しくなるから、市民セクター論ということでやっていたんだ。

辻 それも当時、第1、第2、第3セクターとして市民セクターというふうに位置付けていましたか。

山岡 まあ、第3セクターのもちろん一部というかね。第3セクターってのはもっと幅広いから。第3セクターのうち、やっぱり市民ベースの、個人個人のそういうものに根ざしたセクターという意味でね。だけど、いわゆる新しい意味でのシビルソサエティーという言葉は、僕らは知らなかった。

木原 栗原さんは、ひょっとしたらその辺を意識していたかも知れないね。

山岡 栗原さんは政治学だから意識していたと思う。社会主義じゃなくて、資本主義・自由主義に代わるというか。それを支えるものとして、市民セクターを育てるっていうところに、それはやはり意識してた可能性はあるね。我々の中では議論していない。

木原 話し出すといろいろと、わからなかったことがつながってきますね。

山岡 ネットワーカーズ会議のフォーラムから参加してる人は本物というか、あの時代に感度の高かった人ですよ。

辻 僕らは、東京ランポを作るんで、とりあえずアリスセンターが兄弟みたいなもので、神奈川の川崎でやるというので、何もわからないで行ったんですよ。まだ僕自身もNPO法人なんてわかんなかった。とりあえず勉強しに行ったんですね。林和孝さんは、かなりわかってて行った。彼がランポがまずやることは2つ。1つは臨海副都心開発計画の抜本的見直しの運動の事務局で、僕はそれをやる。もう1つはNPO法を作ろうっていうのがあって、それは僕はまったくわかんなくて勉強した。まあともかく、ネットワーカーズ会議とやらに行って、とりあえず勉強しないといかんということでしたね。

山岡 あれがきっかけになって、企業の人なんかでも関心をもつようになった。あのときは田代さんも出演してたし、コーディネーターもやったし、このときのメンバーはかなりネットワーカーズ会議の中心にいた…。

木原 僕は、大阪のフォーラムのときに参加したんかな。

山岡 大阪では佐野さんが中心にやったかな。あと早瀬さんとかですか。大阪は、まあ小さい勉強会というかたちでしたね。

辻 早瀬さんは、川崎のときに分科会にいましたよね。川崎では2日間やってたんですよね、確か。かなり人が行ってますよ。1000人規模で集まったと思います。自治体の人たちもかなり行っている。

山岡 やっぱり企業人がたくさん来てたっていうのは、青木(利元)さんであるとか、いろんな企業の社会貢献担当者がいたからですかね。もう田代さんが檄をとばして「これ、行け」って言ったのかも知らんけどさ。ずいぶん企業人が来た。企業人と行政マンと市民団体関係者が一堂に会した。市民団体もいろんな団体が来て、それに若手研究者的な人が参加したから、そういう意味では画期的な集まりになった。あれで姿としての市民セクターってのが見えたっていう感じはあるよね。こういうのがしょっちゅう行われるのが市民セクターだっていうイメージがあった。

木原 成蹊大学の高田(昭彦)先生がその辺の経緯というか流れを本に書いたよね。

山岡 高田先生も来てるからね。高田さんはその後もずっと関心持って追っているからね。だから、そのフォーラムがホップとすると、NIRAの報告書がステップだよね。

木原 山岡さん、もう一つ僕が知りたかったのは、1989年の東欧革命があるでしょう。あれがどう、我々の立法過程に影響しているのか、いないのかですね。東欧革命で市民社会が注目されたでしょう。それが、私自身もそうなのですけど、この時にはほとんどそんなこと意識しなかった、しかし、どうなんですかね。

山岡 日本では動きはなかったね。僕らもあまり意識もしなかったし、僕らの動きには直接は影響していなかっただろうな。個人として関心をもっていた人はいたかもしれませんけどね。

木原 あれは日本では、どなたもそうでしたか。今、市民社会を唱えられている先生方はいっぱいおられますけど、皆さん、そのへんはあまり感じなかったんですかね。社会主義の崩壊という、あのあたり。

辻 あのとき日本では消費税が争点になって、1989年6月の都議会選挙で社会党が一気に伸びるんです。その後、7月に参議院選があって、社会党がマドンナブームとかで躍進して自民党がかなり議席を減らすんですよ。それから金丸信が佐川急便問題で捕まったり、田中派は、当時は竹下派ですけど分裂してくるんですね。それで93年に小沢一朗が自民党を割って出てきて、日本新党の細川さんを担いで反自民の8党で連立政権をつくるんですけれども。だからあの当時は、日本は別の意味で政治が結構ドラスチックに動いていましたね。

山岡 だけど、それが東欧の影響だとは言えないんじゃないの。

辻 ただ、市民レベルでは結構そういう影響があったような気がしますね。

木原 そう、市民レベルで社会主義の崩壊とか、市民革命、あの辺はどう受け止めたんでしょうね。

辻 日本で具体的にそれをストレートに反映しないんですけどもね。ただ、やっぱり緑の党を作るとかいう話はあの当時からかなり出てきてましたね。

山岡 それは東欧の崩壊とはあまり関係ないでしょう、ドイツの話だから。

辻 ただ、もともと東欧革命の原点みたいなものは、確か80年代前半ぐらいのヨーロッパの反核運動から始まっているんですよね。一方で、ポーランドの「連帯」などの動きが大きくなって、あの辺とチェルノブイリ原発事故とかいろいろ動いていて、結構国を越えていろいろな市民の動きが活発になる。東欧の市民ともいろいろと連携して動いていると、僕らも聞いていたんです。

山岡 反核の方は直接あるかも知れないけど、東欧の改革は日本の市民レベルでは影響ありましたかね。

木原 市民社会について改めて、ルネッサンスが言われるじゃないですか。ああいう意味において、あれが日本社会においてどういうインパクトを与えたのかというのが、一つ疑問なんです。それともう一つ、私が疑問なのは、80年代以降の小さな政府論、サッチャイズムがあるじゃないですか、新自由主義的な。新自由主義という、ニューリベラリズム的な考え方というのと、それイコール市民社会というのが膨らむことにもなるわけですね。ただそういったものと、この辺のところがどうなのかという…。僕自身も、あまり考えていなかったよね。小さな政府ということを是として、小さな政府的なことに疑問を抱かずに捉えていた気がするんですよ。

山岡 ベルリンの壁は89年だっけ?

辻 そうですね。日本は、89年はバブルの絶頂なんですけどね。だから小さな政府とか新自由主義という話はほとんどなかったんですよ、当時。とにかく右肩上がりの猛烈なバブルですから、土地はどんどん上がって、株は青天井で上がっていく時代ですから、みんなその中で何となく動いてましたよね。なんか東欧の危機感の受け止め方が日本は特殊ですよね、あの当時は。

山岡 その後でバブルがはじけて…。

辻 それで改めてかみしめて、振り返って、これは大変だ、みたいな話になったと思いますね。だから、日本ではあの89年は、世界とはすごくずれて、特殊だと思う。

木原 調子に乗ってたわけだな。

辻 社会レベルでは圧倒的にそっちの方が日本は多かったですよね。ともかく景気はいいし、新入社員は我々よりも給料が多かったみたいな時代でしたからね(笑)。ほんとにバブルでしたからね、89年は。

山岡 まあ、みんな踊ってたから。

辻 その中で、消費税で社会党が伸びたとか、ともかくそんな時代でしたね。

山岡 東欧革命をまともに考えたら、社会党なんか減っている可能性があった。

辻 社会党はあの時、一時伸びたんですね、消費税反対で。だからやっぱり消費税に対する、どうしても導入しなきゃいけないっていう感覚は庶民レベルではほとんどなかったですよね。あのバブルの中であえて強行しようとしたっていうのが、すごいって言えばすごいんですけど。

木原 平田清明さんとか、社会主義のなかの市民主義、市民社会派ですけど、あんな方々というのは、この時期はどういう考えだったのですかね。我々は実務レベルでやってましたけど、その思想史というか、政治思想とか、そういったレベルではどうだったんでしょう。

辻 平田さんとか栗原彬さんとかですね。

山岡 栗原彬さんはネットワーカーズ会議の代表で、ずっと一緒にやってた、かなりコミットしてて。栗原さんなんかは、もともとは社会主義者的ですよ、基本的には。まさに東欧の崩壊とかベルリンの壁とか、そういうものに対して、社会主義じゃない別の民主社会を作らないといけないという気持ちはあったと思う。だから影響は、そういう意味ではどちらかというと従来の社会主義者的な発想を持ってた人が市民社会論とかネットワーク論に入ってきてる人がいるかも知れない。

辻 あの東欧革命が起きた89年当時、日本ではソ連がまさか崩壊するとは毛頭思っていませんでしたからね。だからどちらかというと、今までのソ連型とか中国型とかの社会主義に対してアンチとして、社会主義のもう一つの道みたいものをずっと探っていたじゃないですか。あの中で東欧の市民が主導して社会主義を潰すんだけど、社会主義内のもう一つの道というものを結構みなさんが考えていたんですね。要するにスターリニズム的なものではないものを求める動きはずっと延々あるでしょう、反スターリニズムみたいな流れが。だから、たぶんあの辺で改めて市民主義的なもうひとつの社会主義というのを求めて、ずいぶんとみんな悩むわけですよ。たぶん栗原さんもそうだと思うんですけど。

山岡 東大でもどこでも、法政大学なんか特にそうだけど、みんな悩むわけよ。我々がやってきたことは何だったのか、と。

木原 市民運動にとって言えば、日高六郎先生とか、いわゆる理論構築の方々の世界というのは、我々の市民活動の世界とどうつながっているかっていう、その辺もクエスチョンなんですよ。

辻 それでは、本日は長い時間、ありがとうございました。

 

[本文注]

[1] ハウジングアンドコミュニティ財団『NPO教書―創発する市民のビジネス革命』(1997年)

[2] 平山洋介『コミュニティ・ベースト・ハウジング―現代アメリカの近隣再生』(1993年)