NPO法制定過程における社民党の動きなどについて、辻元清美氏にインタビューを実施した。辻元氏は、1983年にNGO「ピースボート」を設立、1996年衆議院総選挙に社会民主党公認で比例近畿ブロックから出馬し、初当選。当選直後からNPO法制定に関与した。インタビュー当時、民主党所属の衆議院議員(5期)。
インタビューは、2013年4月24日に衆議院議員会館・辻元事務所で実施した(聞き手:山岡義典・辻利夫・原田峻、記録:辻利夫・原田峻)。 *肩書きは当時
- 日時:2013年4月24日(水)15:30~17:00
- 場所:衆議院議員会館・辻元事務所
- 協力者:辻元 清美(衆議院議員、社民党→民主党)
- インタビュー担当:山岡 義典・辻 利夫・原田 峻
(補注)今回、ホームページに公開することになったため、表現を改め一部補足・省略した個所がある。
インタビュー本編
辻 シーズができた頃に辻元さんのピースボートと一緒にNPO法のイベントの共催をしたことがありました。文京区の公会堂だったかな、お芝居をやりましたね。あれが1995年でした。シーズ設立が94年11月ですから。辻元さんがNPO法を意識するようになったのはどのあたりからですか。
辻元 ピースボートをつくったのが1983年なんです。それからずっとがむしゃらに活動してきましたけど、その頃の普通の市民運動と違うのは、スローガン闘争型ではなくて、初めから経済的にも自立させるという、ちゃんとそこで社会的に働いていけて、経済にもコミットメントしていくということが重要だと思ってピースボートを続けてきたわけです。あるとき、『技術と人間』という雑誌でアメリカの非営利セクターの特集を見て[1]、そこで初めてNPOという言葉を知ったんです。私の知り合いが「これや、これや。これからはこれの時代や」と言って、「ピースボートはこれや」と言われたのが最初でした。
その後、早稲田奉仕園でNPO法の勉強会をやったんです。松原(明)さんがいて、親子劇場の高比良(正司)さんとかもいて、すごい少人数でした。その頃はそんなNPOとかまだメジャーでもなかったんです。その後にそういうお芝居とか一緒にやって、ピースボートでもNPO法を作る運動に参画していかなきゃいけないという認識が生まれてきたと思うんです。
95年の阪神淡路大震災のときには、私たちピースボートも神戸の長田にボランティア活動として入りました。それがあって、NPO法を作ろうという動きが大きくなっていきますよね。その前に、92年にブラジルの地球サミットがあって岩崎駿介さんたちがブラジル市民連絡会というのを立ち上げて、日本からもたくさんNGOというかNPOというか、市民団体がブラジルへ行きましたね。この時にブラジルで他の国のNPO・NGOと連携してさまざまな活動をするんですが、他の国ではNPO法がある、そして経済的な基盤もしっかりした大きな環境団体が多く、さらに政府の代表団の中にNPO・NGOが入って対等に、環境問題の政策立案に関わっている姿を見た。ところが日本の代表団は、竹下元首相が代表で、外務省とか入って、NPO・NGOはどちらかというと排除するみたいな、対立構造にあるような関係でした。それで、Japan Dayというのをリオでやったときに、岩崎駿介さんを中心にNPO・NGOの代表を招待すると言ったんだけど、スピーチの時間はたった5分で、それで「政府に反対してる人が入ってる団体は招かない」とか言われてもめたんですよ。いかに日本が遅れているか。帰ってきて、ブラジル市民連絡会で市民フォーラム2001というのを環境団体などを中心に92年に作りますよね。そのときもやっぱり、ああいう諸外国のNPO・NGOのように日本も基盤を大きくしないといけないね、というような流れがあって。その流れでたぶんシーズの松原さんとか、当時は飯田哲也さんとか、情報公開法を作る運動の奥津茂樹さんとか、みんな活動を活発化していった。そしてNPO法を作っていこうっていうような流れに合流していくんですね。95年に阪神淡路大震災が起こり、たくさんのボランティアが集まり「ボランティア元年」と言われ、はっきり法律を作ろうっていう意識にみんな変わりました。
当時、堂本暁子さんがブラジルの地球サミットのときはすでに参議院議員だったと思うんですが、堂本さんなんかが中心になって、そういうNPO・NGOを支援していこうという動きがあって、ロビー活動を私たちもかなりやるようになっていました。例えば法律を作ろうという明確な意志を持ったロビー活動と同時に、当時は自社さ政権で村山さんが首相で河野洋平さんが外務大臣で、あの時はカイロの人口会議とか、北京の女性会議とか、コペンハーゲンの社会経済会議とかいろいろあって、カイロの人口会議に初めて岩崎さんとかNGOの代表者がオブザーバーで入ったんです。そんなことをしていました。当時、自社さでしたけど、竹下さんの家に「NGO・NPOとは何か」っていうようなことを、岩崎さんを中心にNPOの代表者が何人かレクに行ったりしていたんです。ということで、NPO・NGOセクターが政治への働きかけも積極的にやろうということが、やっぱりブラジルの地球サミットがあり、阪神淡路大震災のこの数年間、熟成されて、そして一つの流れになっていく、と。松原さんは東チモールの運動をやってたから、こうしたNGOの流れを知っていたんですよ。
辻 それでは、東チモール時代の松原さんに会っていましたか。
辻元 知っています。ですから松原さんと私と、早瀬(昇)さん、それから奥津茂樹さんとか、そのころ私たちまだ30代前半ぐらいで、元気にやっていたっていう感じですね。
辻 その後、辻元さんが社民党から衆議院に当選されて、NPO法の与党プロジェクトで五島正規さんの跡を継ぐ形で入ったんですね。確か五島さんが、あの時落選したんですね。
辻元 私は96年の総選挙では「NPO法を作る」、「情報公開法を作る」というのを公約に立候補したんです。96年は小選挙区比例代表並立制が始まった年なんです。選挙制度が変わったこと、それから同時に旧社会党が分裂して、民主党にみんな行っちゃって、社民党の候補者がいなくて、土井(たか子)さんが議長(衆議院)から社民党に戻って、私と保坂展人さんと中川智子さんが市民派候補みたいな「市民との絆」というスローガンの候補者だったんです。それで立候補して、当時は近畿ブロックの比例区でしたが、当選しました。15名が衆議院に当選した小さな所帯だったのですが、自社さ政権を続けるということで、1年生の私も重要な役割を担わざるを得ない。自民党は239議席だったんです。それで五島正規さんがNPO担当ということで、その選挙の前に堂本さんたちががんばられて、NPO法の原型みたいなものができつつあったときですね。与党の当時の選挙前の自社さの政策責任者が合意文書を交わしてサインをした原型物のようなものがあった。それを引き継いで私が自社さのNPOプロジェクトの社民党の代表として、私と熊代昭彦さんと、落選中でしたけどさきがけは人数が少なかったので渡海紀三郎さん、3人が担当になったんです。という経過があった。私は1年生だけど人数が少ないからもう一つ、政審副会長ということになりました。それで、このNPOの政策協議の社民党の代表になる前に、自社さの与党三党の連立政策合意というのを作る現場に当選していきなり出されるんです。そこで私は、山崎拓さんが自民党の政調会長だったんですが、「NPO法を絶対に入れてほしい」と言った、いきなり。当選して数日後にみんな「あんた、誰?」っていう顔してるんだけど、偉そうに「NPO法の成立と選択的夫婦別姓の実現を連立合意に入れろ」とやったのがスタートでした。
山岡 ちゃんと入ったわけね。
辻元 NPO法は入ったのよ(笑)。向こうは社民党の合意がないと過半数を取れなかったので、よく言うことを聞いてくれました。だいたい社民党の言うことは、最初は聞いたんです。それと同時に、最初に首班指名があったとき、閣外協力の与党でしたけど社民党は1回目の投票から「橋本龍太郎」と投票するということを決めて臨んだんですが。私と中川さんと保坂さんだけは「土井たか子」って造反したんですよ、いきなり。そうすると、自民党が239議席で、当時は議席が500でしたから過半数が251だったから、12議席足りないわけです。そうすると私と保坂と中川さんが造反すると、15議席のうち12しか残らない。私たち3人の市民派がキャスティングボートを握るポジションになったんです。最初に「土井たか子」って書いたので、震え上がったわけです、自民党の執行部、野中(広務)さんとか、幹事長の加藤紘一さんとか。私は、すぐ加藤さんとさきがけの幹事長の園田(博之)さんに、「当選祝いに食事に連れていってあげるよ」って呼ばれて、なんかおいしいもんを食べさせてもらって、懐柔ですよ。でも私は反対にリュックサックにいっぱいNPOの資料を詰め込んで、加藤さんを3時間、懐柔したんですよ。いかにNPOが大事かっていう、逆に。やっぱりあの時の政権でキャスティングボートを取れていたっていうのは、その後の展開にはすごく大きかったなと思うんです。
辻 そのときは1年生の3人がこんなに力があると思いましたか?
辻元 びっくりした。自信をつけたというか、しめしめ、と(笑)。そこから連立もNPO法を作るために、キャスティングボートっていう位置エネルギーを使って、ほとんど100パーセント、自分のエネルギーをそれに使っていました。ただ最初に自社さでNPOプロジェクト、与党の協議会を開いたときに、私が引き継いだ選挙前の案というのが、自民党がNPOを警戒して立入検査の要件が厳しかったり、名簿を提出させようとしていたり、到底NPOの現場からきた者としては呑めない内容だったんですよ。自由な活動を促進させるというよりも、いかに規制をするか監視するかというような項目が、すでに三党の政調会長の人たちがサインした骨子案の中に入っていたんです。
それで私は最初のときにこれをひっくり返さないといけないということで、「これを承服しかねる」と大演説をぶったんですよ。そうしたら、「あんた、社長が合意してサインしているものを、平社員が来て覆せると思ってるのか」と一喝されたんですね、熊代さんとかにボロカスに言われたんです。渡海さんが担当だったんだけれども、堂本さんも心配で来ていて、堂本さんも「辻元さん、いまごろそんなこと言っちゃだめよ」ってなだめられたんだけど、私は「その現場から来たんだ、意見を聞いて欲しい」とか言ってゴネたというか、承服せずに終わったんです。それで松原さんとか山岡さんたちみんなに連絡をとって、自民党とかさきがけにもう一度議論をし直すように働きかけをやってほしいというような作戦会議などをして、そのあたりから、本当にNPOの側のロビー活動が活発に、各党への展開をされたんですよね。結局ひっくり返していくんです、1個ずつ。
辻 シーズの資料に当たってますけども、その頃のファックスのやり取りが全部残ってるんです(笑)。96年の10月に辻元さんが当選されて与党プロジェクトに入ってきて、12月までのほんとにふた月ぐらいのことですね。
辻元 すごいなあ、すばらしい。もうあっちこっちとやり合って、私のところにもだいぶ送っていたんじゃないかな。社員名簿、立入検査の要件とか、あと、もっとあったと思うな。端々に「監視していきたい」っていうニュアンスが入っているわけですよ。
山岡 「担当大臣の意見を聞くことができる」とかありましたね。
辻元 そうそう。「それじゃ今までのいわゆる公益法人とどこが違うんだ」っていうようなことを、私なんかすぐ、見て思ったんですね。
辻 確か新進党案の方がまだその点ではよかったんですね。
辻元 よかった。改善命令とか、認証の取り消しの要件とか、罰則とか、いろいろありました。
山岡 政治活動の制約なんかもありました。これは最後まで残るけど。
辻元 与党の協議会を何回開いたかは、いま地元に資料があるのでわからないんですけど、かなり三党で揉むわけです。その間にNPOとの会合は数限りなくですよ。夜中であったり、いろんな局面で。たぶん当時は松原さんが、うちの事務所にずっといたっていう感じでしたね。それと同時に、とにかく提出しよう、と。一定のところまで妥協して提出しよう、と。しかし修正をしようということで、提出までにどこまでそういう規制が強い傾向を緩和できるか。私は山崎拓さんに直撃とか、自民党の政調の事務局は田中さんという人だったんだけど、田中さんが実務をやっていたので、私は自民党の政調の部屋に行って田中さんの横に座り込んで、「ここはどうにか変わらないの」とか「文言をこうしようよ」とかやりました。それで自民党の政調の事務局の部屋で作業をしたりしていたので、自民党の食堂でご飯食べていたら、それがもう大騒ぎなった。「あれは誰だ?」って言われて、「社民党の議員」だっていうことになって、「なんで自民党の政調に社民党の議員が来ているんだ」とか。私は「一緒にやっているんだから、いいんじゃないの」と言ったら、社民党に戻ったら怒られて、「だめだ、そんなことしちゃ」って。
これは本なんかにも出てきますけども、加藤さんを探していざというときは、加藤さんがどこにいるのか、幹事長室の職員と仲良しになって、加藤さんのスケジュールをいろいろこっそり教えてもらっていた。「今、散髪に行ったわよ」とか聞くと、私は散髪屋を直撃するとかで。「散髪ぐらいゆっくりやらせてくれよ」って怒られたんだけど(笑)。それはたぶん、最後の名簿を出す出さない、の案件だったと思いますね。そんなことをして12月に、不満は残るが、問題点は残るが、とりあえず出そう、と。ここで当時の民主党は菅(直人)さんが代表だったと思うんですが、野党民主党の賛成も得ようということで、野党民主党からの修正案を出してもらう形で与党案を修正していこうという作戦というか根回しも一方やっていた。提出はするが、野党の意見を聞きましょう、と。金田誠一さんが民主党のご担当になられて、金田さんと菅さんなんかに、私たちも修正したい、NPO側が修正したい項目を、民主党からの修正案という形でぶつけてもらうというようにして、その後、また協議を続けていくんです。今だから言えるけど、当時、私は与党の一員ですから、民主党からの修正案を自分で作っているとは言えないから。「また民主党からこんなこと言ってきたよ」とか言いながら、実は「でもこれは民主党も巻き込んだ方がいいよね」とか、なんとかかんとかって言って、やったりしていたんですよね。
辻 当時の自民党側で、要するに強硬にあえて監視的な視点を主張していたのは、熊代さんですか、山崎拓さんですか。
辻元 山崎さんや熊代さんはまだよかったんですね。大半の自民党議員が反対だったそうです。加藤紘一さん、山崎さん、熊代さんは、本当の理解者だったと思います。山崎さんは理解者というか、意味がわかっていなかったんだけど(笑)。私なんかが「じゃ、連立を離脱してやる」とか、「反対票を投じてやる」とか大騒ぎするもんだから、よく意味は理解されていたかどうかわからないけど、何とか三党案を良好にまとめようと、政策責任者として言ってくれたんですよ。だって、「NPO」って最後までうまく言えなかったですよ。「N、N、N・・・。あれだあれ、ボランティアだ」とか(笑)。
それで、亡くなられた梶山(静六)さんだったかな、とにかく自民党の議員が部会なんかで、「何だ、こんなもん。反権力だろう、反権力ってことは反自民だろう、そんなヤツらを応援する法律をなんで通さなきゃいけないんだっ」ていう議論は、もう何回も自民党の中であったと漏れ伝わってきて。それをむしろ、加藤さんとか熊代さんとかが抑えていたっていうことだと思います。加藤さんははっきり意味を理解していて、やっぱり日本の将来にとって非常に大事だということは理解されていたので、そういう最大の理解者でした。自民党の参議院の方でもこれは異論が出ていましたので、その後国会で審議できる、提出するところまでも紆余曲折がありますよね。衆議院で国会に提出して議論が始まったとしても参議院の方が了承しないとか、いろいろあって、有名なのは名称問題で、市民活動促進法というのはだめだと。「市民」という文言を全部法律から消せっていうように、これは参議院の村上正邦さんを中心に出てくるわけですよ。
辻 参議院で議論されたのは97年の秋ですね。その前にこの年表をご覧になるとわかると思いますけれども、96年の12月にようやく与党三党で提案をするという話になって、民主党の、今おっしゃっていた修正を加えていこうというので年が明けて97年にかなりまとまっていくんですね。その時に新進党がそこから外れて、あえて単独でつっぱってくるといので、そのへんの紆余曲折がいろいろあったという話を聞いています。97年の6月4日に与党と民主党との修正法案が衆議院を通るんですが、その前に新進党が審議拒否をするという局面があった、そのへんのことは憶えていますか。
辻元 河村(たかし)さんが何回も私の部屋に来たり、自分の部屋で「会おう会おう」って言って、何回も話しました。河村さんって名古屋なんですよ。私の両親が名古屋でうどん屋をしていたから、そこまで食べにいって、両親を説得するということまでした(笑)。「娘に言ってくれ、新進党案に一本化するように言ってくれ」って、親にまで言いにいったっていうエピソードもあるんだけど。
辻 辻元さん顔負け、ですね(笑)。
辻元 それで河村vs.辻元になっていて、与党案に乗れ、と。ただ新進党の税制の優遇措置とか、新進党の方が割合ラジカル、進んでいたんですよ。私はうまく一本化して、新進党の力も使って、できたら税制の優遇まで取れればいいなと思ったのですけど、それだと自民党がもたなかったですね。私はそのころ、新進党の外圧も使いつつ、新進党のいいところを与党案に組み込む形とか、一本化するようなことができないかっていう模索はこの頃よくしていました。だから河村さんともしょっちゅう会っていました。ところが最終的に、税の取扱いをめぐっては非常に自民党は固かった。しかし、まだ私も納得できなくて、なんか入れられないかなと思って、一生懸命でした。この辺は税のことで頭がいっぱいの時期だったんですね。
それで最終的に竹下さんに話をつけに行くんです。それも竹下さんの事務所にお電話して「1年生の辻元ですが、ぜひ先生に聞いていただきたいお話があって」と。あの人は税の親分だったから。そうしたら、全然会ってくれなくて、「何ヶ月か先ぐらいまでアポが入っています」って言われた。それで仕方ないので直撃しかない、と。国会稲門会というのが開かれる、早稲田の同窓会。私も早稲田で、竹下さんも早稲田で、来るに違いないと思って、私はその稲門会にNPOの資料を握りしめて行ったら、竹下さんが来たんです。「チャンス!」って感じで。昔の、お代官さまに村娘が直訴みたいな感じで。それで竹下さんを私はその場でつかまえて、「辻元といいますが、NPO法のことでご相談で、一度お時間を頂けませんか」ってお願いしようとしたんです。びっくりしたのは、そこで竹下さんは、「NPOの…」ってちょろっと言っただけなのに、ばっと私の顔を見て「税はいかんよ」って言ったんです。全部頭に入っているんですよ。97年の3月かな。私、これで諦めたんです。税を深追いして自民党がパンクしちゃったら困るなと思って、私は諦めたんです。実は、さっき「社長が合意したものをひっくり返すのか」と言われた後に、辻元私案というのを作っているんです。その辻元私案を盾にそこまではずっと交渉していたんです。そういうこともあって、そこに税を入れたりいろいろやっとったんですが。
山岡 税の話だと、97年の5月ぐらいかな。
辻 そう、5月ぐらいですね、新進党と調整していたときですよ。なんだかんだといろいろとあって、我々の方も新進党の税制案は地域依存・地域基盤だから違うだろうという話をやっていた時期ですね。
辻元 さっき自民党にたてこもってやっていた頃は、97年1月17日ですね。その頃、情報公開法も両方やっていたんですね。奥津さんとも延々とやっていて、あれもまた自民党の、今度は政調会長室にたてこもって、またゴネてやっていたりして(笑)。あの頃、私が自民党に行くと嫌そうだった。「また来た、辻元」みたいな。それで、河村さんとは最後、そこを調整していたんですけど、私は竹下さんの一言で、「これはもうあまり深追いすると全部つぶれかねないな」と思って。このあたり、新進党案の附則をめぐっていろいろありました。新進党は小沢(一郎)さんが仕切っていて、どちらかというとちょっと政局的な臭いもあったんですよ、審議拒否とかして。「自分たちの方がNPOには理解があるぞ」ということをアピールするみたいな。このとき内閣委員会の理事会でしょっちゅう揉めていたんですが、新進党の理事は西村眞悟さんで、なんか意味不明の揉め方をしていた、あの頃は。
これ(『週刊金曜日』の記事)に出ていますけど、NPO法の公聴会までの一部始終というのを書いています。「さすが、尖閣列島まで行った西村眞悟議員、言うことが一際違うよな。NPO法の理事会で、『ニューヨークやロンドンで公聴会を開くべきだ』って。衆議院内閣委員会理事懇談会でのこと…」。とにかく西村さんのこの時の妨害の模様が書いてありますね。
辻 それはNPO法についてニューヨークで公聴会を開けということ?
辻元 そう、意味不明なゴネ方をしたんですよ。「NPO法案は議員立法、与党案の他に新進党、共産党案も出している。特に新進党とは何回も協議をしてきた。しかし一本化することはできなかった。」「新進党は審議入りを引き延ばし、今国会での審議は時間切れで成立見送りに持ち込むという作戦に出たようだ。ここで飛び出したのが、西村さんのニューヨークやロンドンで公聴会を開くという…」。西村さんも新進党で、たぶん小沢さんの指令のもとにいたとは思うんですけどね。
山岡 議事録にあるよ。結局は東京と大阪でやるわけだけど。
辻元 ここに書いてあります。どこを修正していったか、と。「今通常国会に入ってからは民主党との政策協議をし、この法律もかなりマシになったと思う。例えば市民団体から批判が強かった名簿の提出や別名チクリ条項とささやかれていた所轄庁への申し出条項の削除、所轄庁の関与の緩和など17ヶ所を修正することができた。そしていよいよ法案は審議入りを待つばかりの段階に入った。」
それで最終的に、附則に、付帯決議ではなくて附則に入れるというので、最後のぎりぎりで調整して新進党も賛成に回るんです。しかしこの委員会で、新進党案と与党三党案に民主党修正案を加えた案とで議論したんですが、山岡さんなんかも傍聴に来てくれていたかも知れないですけど。みんなNPOの人たちが傍聴に来ていて、そこで議員同士が激論をやったわけですね、いろいろと。それで私なんか休憩時間にNPOのみんなと話をして、自民党が少なくともまだ爪を立てて規制を厳しくしたいとか痕跡を残している部分は、確かにまだ残っていて、それを答弁で規制を緩める担保をしていく役割だったんです。それでNPOサイドの人たちが傍聴していて、「さっきの答弁はどうだろう、あの答弁だとまだ心配があるが、どうか」というのを意見を聞きながら委員会を進めていたと思うんです。最後、河村たかしさんが泣いたんじゃないかな、悔しがって。それが97年ですよね。
辻 それで参議院に送られて継続審議になり、秋の臨時国会、参議院で名称変更が争点となりました。
辻元 参議院で早く審議してほしいというなかで、さきがけが開いたパーティーに行ったら加藤さんとか山崎さんが来ていて、加藤さんが私にいきなりパーティー会場で、「辻元、名前だ、名前、いい名前を考えろ」って言われたんですよ。私が「何の名前?」って言ったら、「市民活動の市民がいかん、市民が」って言われた。衆議院を通って、もういくと思っていたのに、また参議院で名前問題が浮上しているという。半信半疑で翌日確認にいったら、こんな「市民」がついた名前の法案は通せん、と。誰が言っているかといったら、参議院の村上正邦さんと片山虎之助さんたち。私は村上さんとはお話ししたことがなかったので、あの人は生長の家の出身かな。それで村上さんの親分が、玉置(和郎)っていう昔の議員なんですけど、村上さんは秘書で仕えていたのかな。その甥っ子っていうのが、私の知人にいたんですよ。それで、その子を呼び出して、その彼に「玉置議員の甥っ子です」ということで村上さんにアポを取ってもらった。そうしたら村上さんはその子と会うということで、一緒に私がついていって村上さんに会いにいったのよ(笑)。当時は「参議院の天皇」って呼ばれていました村上さんの参議院会長のお部屋に通してもらって。そのあとおもむろに私が「NPO法のことで・・・」って切り出した。村上さんに「名前がだめというのなら、なんという名前ならいいんですか?」と聞いてみたかったので聞いたら、「奉仕活動ではどうか」って言ったんですよ。それで私は仰天して、これ以上は聞くの、やめようって(笑)。それで、村上さんのお家に行ったのとどっちが先だったかな。結局、無味乾燥な名前がいいだろうというので、非営利活動促進法でどうだ、と。しかしそれだと民法の今までの法人との棲みわけができないというので「特定」を、当時は12分野を特定するという意味でつけて、変な名前になった、と。ただ「市民という言葉を全部消せ」と自民党の参議院から言われたんですけど、こっそり1ヶ所だけ残したんですよ。
山岡 第1条ね。
辻元 あれは、よくバレなかった。
山岡 堂本さんから「何とも言われなかった」って聞いて、「うっそー」と。「気がつかなかったみたいよ」って聞きました。
辻元 参議院に行ってからは、私と参議院議員の堂本さんと清水澄子さんでやっていたんですよね。それでも片山虎之助さんが、いつごろかな、参議院で審議している最中ですよ。まだ「こんな法律は通せん」とか言うから、片山虎之助さんに女3人で会いにいったんですよ。そしたら片山さんがテーブル叩いて「こんなもんなあ、国を滅ぼす」みたいなことを言ったんですよ。私たちは最初は聞いてた、ずっと「忍」の一字で。そしたらすごかった、あんなの見たことない。堂本さんが「あんた、何言ってんのよ!」とかって怒鳴りだしたんですよ。「あなたは分かってない、世の中は変化しているんだ!」みたいなことを堂本さんが片山さんを上回る声量と迫力で怒鳴りちらしたの。そうしたら片山さんが黙ってしまって。
それで私が村上さんの家に行ったんじゃないですかね。いつだったか、村上さんを説得しなきゃいけないと、どうしても通してもらわなきゃいけないからということで、議員の便覧を見たら埼玉県志木だった。日曜日だったので地元にいるだろうと思って、直撃しようと思って、村上さんのお家に行ったんですよ。そうしたらいらっしゃらなくて、奥さんしかいなかった。家にピンポンして行ったら、夜回りの記者に間違えられたけど、奥さんに「あんた、誰?」みたいな。1年生でリュックサック背負ってスニーカー履いて行ったから。それで奥さんがその場から村上さんに電話して、「今お家に辻元さんていう議員が、挨拶とちょっと話を聞いてほしいということで来ましたよ」って。村上さんはびっくりしちゃって、その場で電話を代わったんですよ、村上さんの家の玄関先から。そしたら村上さんが「お前、家に行ったのか」って。「とにかくお話を聞いてほしいし、もう先生になんとかご理解いただきたいし、お願いしたくて」って言って。そうしたら、もう大笑いしてて。「突然、家に行ってすみません」って言って、一旦、切ったんです。そうしたら翌日、村上さんがそのことをものすごく評価していたっていうか、喜んでくれたらしくて。私は堂本さんと清水さんと、作戦をいろいろ立てていたんだけど、二人には言わずに行ったの。「そんな失礼な、突然家に行くなんてやめなさい」って止められたら困るので。あとで叱られるだろうと思って。そうしたら堂本さんが「よくやった」って言ってくれて、あれから村上さんが変わって、自民党の会議で「あの社民党の女性議員は自分の作ろうとしている法律を通す一念で家まで来たり、一人ひとり説明に回っていて、自民党の議員も見習わなきゃだめだ」って言ってくれたらしいんです。それと堂本さんが片山虎之助さんに怒鳴りちらしたことがあって、なんか自民党の方も軟化してきて、それで参議院でも通してあげようかなあみたいな空気になっていったんですよ。あんな堂本さん、初めて見た。どこだったか、すごく狭い部屋のところでやったんですよ。参議院の院内のどこかですよ。片山さんのいるところを訪ねていったんですね。すごかったですよ。
辻 村上さんが辻元さんを評価して、「女の1年生議員がそこまでがんばるんで、君たちもがんばれ」というので、自民党の空気が変わったわけですか。
辻元 そのあと村上さんは、事あるごとにいろんな会合に私を誘ってくれるようになった。やっぱりNPOとの関連でいうと、この衆議院・参議院で審議入りさせていく、そして各党を巻き込んでいくのに一番大きかったのは、シンポジウムです。全党を呼んでシンポジウムをして、踏み絵を踏ませていったじゃないですか、決意表明というか。あれを何回か院内集会もやりましたし、最後は全国のNPOの署名を集めましたね。それを各党に届けたり、それから全国のNPOが自分の選挙区の議員に働きかけようとか、あの作戦も大きかったり。あと経団連もやっているということで、自民党を説得しようとか。あと自民党に顔がきく山本正さんが走り回ってくださったりとか。保守系の理解者の役割も大きかったと思いますよ。
山岡 経団連は、特に参議院に入ってからは若原(泰之)さんが動き回ってくれました。
辻 辻元さんは1年生でしたが、当時そういうふうに経団連が出てきて山本正さんがいてというような、ある意味では、参議院をターゲットに全戦線でNPO法成立に向けて働きかけていくという経験は今までNPO側ではなかったんですよね。NGOとか市民運動でも、僕も結構、運動はしていたんですけども、なかなかそこまではできなかったですから。NPO法で初めてそういうことができたと思うんです。
辻元 初めてですね。それと、奥田敬和議員が「立法府として議員立法で何本か出て、議員同士の議論をして法律を作り上げていくっていうのは初めてだ。国会の希望を見た」みたいな発言を委員会で最後にされましたね。
山岡 ものすごくいい演説だった。
辻元 これが「市民=議員立法」という名前で、その後に市民と議員が一緒に法律を作るというモデルになっていくんですね。この頃、阪神淡路大震災の被災者の人たちが被災者生活再建支援法を作ろうとしました。これは小田実さんたちが神戸の被災者と一緒に法律を作ろうと、これも私やってたんですけど、そういう当事者というか、市民と一緒にというのが、このころNPOモデルといわれた、一つの典型例ですね。
NPOサイドの方も分野とか垣根を越えて、そして経済界も当時やっぱりブラジルの地球サミット以降ぐらいからメセナというか、社会貢献をするということが国際的にもスタンダードになってきて、日本の企業なんかもやはりそういう取り組みをしなきゃいけないというCSRとかも、この頃出てきて、理解者もいたということですね。
原田 少し戻ってしまうんですけど、96年の10月に最初、辻元私案というのを作られたと思うんですけど、そのときは辻元先生がひとりでベースを作られたのか、それとも松原さんとかと一緒に作られたんですか?
辻元 私が衆議院法制局と相談して最初は案を作って、松原さんたちにも意見を聞きました。答弁も明日から委員会で審議が始まるっていう夜中に、どうするかっていうのを夜中まで詰めて、こんな答弁ブックを作ったんですよ、松原さんたちと一緒に。あれは大事に、今でもボロボロだけど全部地元に置いて持っているの。なんか、異常な執念でやっていましたね(笑)。
辻 ファクスを送って、「これでどうか」という資料がシーズにありましたね。松原さんが半分ぐらい泊まり込んで、堂本事務所と辻元事務所を行ったり来たりしていましたから、あの頃は。
辻元 私、立法府というのは、やっぱり執念を持った人間が何人かいれば法律もできるんじゃないかっていうふうにあのときは思ったよね。それと外との連携。松原さんとかNPOの人たち、さっきの経団連の人たちとか広がっていくことと同時に、粘り強かったんですよ。絶対に非難とか批判をしない。よくある運動団体は「なぜできないんだ」だけど、批判ばかりされると前に進めないわけです。そうじゃなくて、「できないんだったらどうすればできるかを一緒に考えよう」っていう、「できないのは自分たちの力不足だ」っていう、何だろう、寄り添い型の運動との連携だったですよね。
原田 私もそれはすごいなと思うんですけど。辻元先生はピースボートから、土井さんから声をかけられて立候補して当選して、そのすぐ後にNPOに関わって、そこでもうある種の何て言うんでしょうか、「妥協するところは妥協する」みたいなことをされていたと思います。その論理の切り替え、運動家から急に政治家に切り替えられたということもすごいなと。
辻元 私のピースボートの活動というのは、さっきのスローガン闘争型ではなくて、いろんな国に船を出して交流を組み立てていくっていう、どちらかというと、妥協の連続の運動なわけですよ。例えばマルコス政権時代のフィリピンに船で入って、そこで交流プログラムを組むといったら、向こうの政府とも交渉しなきゃいけないし、ベトナムもそうだったし、そういうことを80年代からずっとやってきたので、どちらかというと、利害の異なるもの、考え方の違うものを調整してひとつのものを作り上げるというのがピースボートの運動スタイルだったんですよ。ですから、古い市民運動からピースボート自体もよく批判されました。「なぜ独裁政権のフィリピンに行くんだ、それは相手を利することになる」と言われて、「行ってみなきゃ、わかんないじゃん」ということでやってきたんですね。
山岡 リアリズムがちゃんとある。
辻元 それと家が商売していたから、大阪の商売人だから。値切り交渉とか、どこで落としどころを見つけて商談を成立させるかとか、子どもの時から見ていた。どちらかというと大阪の商売人のスタイルが役に立ったように思うんですよね。引くときは引いて、損して得とれ、みたいな。
辻 当時、社民党はまだ労組が強かったと思うんですけど。我々も外から見てると、社民党の中でなかなか理解が進まなくて、辻元さんとか何人かが突出してやっていて、土井さんがそれを大目に見ているという感じでした。いろいろと社民党の中でありましたか、そのへんは?
辻元 そうですね。ちょっと、最初は浮いていましたね。組織の論理ですから。ネットワーク型の対等にという発想での動きというのは、ちょっと受け入れられないところがありました。ただ私の場合、2000年に小選挙区で勝ちましたので、ここの世界はある意味、実力の世界だから、自分で選挙を勝ち抜くと、みんなやっぱり一目置いてくれる(笑)。
辻 やっぱり説得力が出るわけですね、小選挙区で勝つと。
辻元 小選挙区で厳しいところを勝ったというので、そこから発言力は強くなりましたね。
山岡 労組という組織に支えられてやっている議員とは違うというわけだ。
辻元 「市民とか、市民がどうのこうの」って、あまちゃんだと思っていたけど、そういうNPO・NGOのネットワークで選挙に勝ってきたじゃないかっていうことで、一目置かれたという感じ。そのネットワークで何だろう、目に見えないところでみんなサポートしてくれる。あの頃の岩崎さんのリーダーシップは大きかったですよ。あのパワーはすごかった。NPO法を作るときも彼がいろいろと動いてくれましたね。
山岡 しょっちゅう傍聴席で一緒でしたよ。
辻元 ものすごくよくしゃべるんですよね。それでものすごいレジュメを作る、一夜にして。あのときの岩崎さんの力は大きかったですね。
辻 時間がないのではしょりますけども、NPO法ができてからその後は税制をやろうということで、附則で3年後に検討するとした。そして、認定NPO法人制度が2001年の3月にできたわけですが、そのために加藤紘一さんなどが中心となって議員連盟をつくる。99年の8月かな。そのあたりは、確か自社さが壊れていく過程ですね。その壊れていく過程で議員連盟を改めてつくって、税制を作ろうという話だったと思います。最初の議連を作るときに、加藤さんからかなり辻元さんには相談とかいろいろあったんですか。
辻元 いや、こっちから加藤さんに。私とか松原さんとかが相談して、加藤さんをキャップにやろうってことで、こっちが口説いて、「やりましょう」っていうことだった。超党派で法律を成立させた、それも議員立法ですからフォローアップもしっかりやっていこうと。少し時間が経っていて、私たちは政権を離れたり、加藤さんももう幹事長を降りられていたんじゃないかと思うんですけれども。ターゲットははっきりと税制の関係をどう処理するかということで、99年8月ですね、加藤さんに会長になっていただいて、すべての党が入る議員連盟をつくったんですね。当時、熊代さんが議連の事務局長で私は事務局次長だった。加藤さんは大蔵省はじめずいぶんと働きかけをしてくださっていました。
辻 当時、税制では自民党税調がターゲットでしたね、これをどうするかという話を我々の中でもやっていて、議員連盟を使おうっていう話は結構あったと思うんですけども、ただ議員連盟だけじゃなかなか難しい。これは超党派ですから、税調はあまりびくともしないのかなって話で、辻元さんあたりがいろいろと加藤さんに働きかけたと思っていますけど。
辻元 そうです。これで動き出して、議員連盟が第一次提言を出したりした。ところがやっぱり、当時は大蔵省だったか、財務省じゃなかったかもしれない、要するに自民党税調が固くて、まったく動かないんです。むしろ「NPO法なんか作ったのはよかったかしら」みたいな、ちょっと揺り戻しなんかもまだある時期でしたね。2000年に解散総選挙があって。それで私とか熊代さんは当選して、この後でNPO議員連盟で行脚しようということで、全国4ヶ所、確か仙台、熊本とかでフォーラムをやるんです。その熊本の直後に加藤の乱が起きた。私は熊本に行けなかったんです。加藤さんが変だったんですよ。夜中に電話がかかってきて、NPOとかの話をしてるのに、「世の中がどんどん変化してるのに、自民党は変わらない」とか言う。なんか私、この時の全国行脚が加藤の乱の引き金を引いたんじゃないかって思うぐらい。「やっぱり自民党はもう古い自民党で、だめだ、変えなきゃだめだ」みたいな。そして熊本から帰ってきて加藤の乱をやっちゃうわけです。
山岡 そうか、触発されたんだ、現場で。
辻元 そう思う。この頃からどんどん、「やっぱり市民だ」とか、なんか言い出したんですよ。それで熊本の後に加藤の乱が夜中まであって、加藤さんが失敗して、失脚しちゃう。翌日に東京で集会だったんです。それで「加藤さんが来るかどうか」って言っていたら、加藤さんが来たんです。
辻 加藤さんが「やっぱり市民だ」と言ったという変化とか、その後、小泉(純一郎)さんが「郵政で自民党をぶっつぶす」って言ったわけですけど、その辺はやっぱり小泉・加藤・山崎のYKKには、今の自民党じゃだめだという意識があったんですかね。
辻元 私が96年10月が初当選で自社さ政権に入ったときに、山崎さんと加藤さんは政調会長と幹事長ですから、NPOの理解を得たいと思ってずっと働きかけしていたんです。NPO法を提出して1月に予算審議が始まって、予算が通ったときに、夜遅くに加藤さんから呼び出されるんです。それで、赤坂のある飲み屋に行ったら、山崎さんと加藤さんと小泉さんと村岡兼造さんが飲んでいた。それで私がひとり呼び出されて、そうして一緒に飲んでいたんですけれども、やっぱり小泉さんも市民ということについて、理解がありましたよ。
小泉さんは当時、厚生大臣ですね。厚生大臣で、いろいろ環境問題なんかやっていて、フグのホルマリンにおけるいろいろ弊害がでている話を聞いて、厚生省に電話して、小泉さんに「市民運動の代表者が来るから会ってくれないか」って言ったら、すぐ会ってくれたりとかして。小泉さんもそういう環境問題とか、市民的感覚はあった。それとか、村岡兼造さんはあまり、ちょっとピンとこないようだったんだけれども、阪神淡路大震災で現地のその後の実態調査に行こうということになったときに、私なんかが向こうのボランティア団体とか市民団体とも意見交換しなきゃだめだって言ったら「そうだな」って言って、「じゃ、どこにすればいいか、教えてくれ」とか。あの頃の人には理解がありましたね。
山岡 村岡さんも息子(村岡敏英)がJCで、今度当選してきたよね。ものすごく熱心なの、息子さんが。
辻元 あの頃の、どちらかというとハト派というかの人たち、自民党の良質な部分というか、保守というか、そういう人たちの理解はあった。しかし、小泉さんも含めて自民党を変えなきゃという気持ちが強かった人たちだと思います。当時は首相が森(喜朗)さんだったでしょう、支持率が下がって「えひめ丸」の問題(2001年2月10日アメリカ合衆国ハワイ州のオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」に浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」が衝突し沈没させた事故)とかあって、ちょっと自民党もどん底で、そこで加藤の乱に発展していくわけですけど。加藤さんはほんとに仙台のシンポジウムに行って、帰りの新幹線の中でひとりしゃべっていた、「時代は変わった」って。熊本からの夜中の電話は、私、今でもほんとに覚えてる。「変えなきゃだめだ、世の中変えなきゃだめだ、変えなきゃだめだ」って言い続けていた。
山岡 加藤さん、もうすごい興奮してというか。「これに命を賭けるんだ」ぐらいの感じですか。
辻元 そういう感じだった。日本の社会は変わるって・・・。でも、このNPOに関わった議員が不幸になるというのはある一面で正しくて。なぜかというと、新しい価値とか新しい社会を切り開こうというベクトルを持っている議員なので、なんか古い人たちに陥れられるというか、抵抗勢力にあったりとかするんですよね。私、加藤さんもそういうところがあったんじゃないかなと思いますね。古い自民党のしきたりだけに則っていっていれば総理大臣なったかも知れない。
山岡 そうですね。僕は当然なるものだと思ったものね。
辻元 加藤政権を見てみたかったですね、残念でした。その後、加藤さんが力を失ったことが痛くて。12月に支援税制といってもちょびっとだけで、この辺からちょっと議連の活動が、まあ加藤さんの傷も深く、ちょっと立ち枯れになっていった。このときはNPO法でちまちま、12から17分野への拡大とかやっていましたけど、大幅な税制の優遇措置をするとか、そういうところまでは至らなくて。そして2001年に小泉さんが登場してくるんですよ。加藤さんと私は2002年に2人とも辞職に追い込まれたわけです。それでちょっと議連の活動が止まっちゃうのです。
やはり加藤の乱が決定的に、謹慎みたいな形になってしまって、それで動きづらくなったんです。それでも加藤さんが支援税制の功労者というか、生みの親みたいなところがあるので、この議連は加藤さんでやろうねって言ってずっとやっていたんだけど、加藤さんも秘書の献金問題、私も秘書給与問題で2002年に、ほぼ同時期に辞職しちゃった。そうしたらほぼ2人でやっていたものだから、議連の活動がストップしちゃって、松原さんが来て、「なんでNPOに関わった議員は不幸になるんだろう」とかぼやいていた(笑)。
辻 ともかく加藤の乱のあと、2001年3月に最初の認定NPO制度が何とかできますね。その間ってどうなさっていたんですか。一応、自民党税調がOKを出したからなんとかできたという話ですか。
辻元 そうですね。熊代さんは頑張りましたよ。それから、自民党としてもやっぱりNPOがだんだん数も増えてきているし、自分たちの支持者もNPOを作ったりする人が出てくるので、空気が変わってきた。自民党のNPO局ができたのが、いつだったのかは覚えていないんですが、額賀(福志郎)さんがその責任者になるんです。それで、額賀さんに働きかけたりしていましたね。加藤さんがそういう状態でしたから。それから、当時は自公政権でしたから、公明党に働きかけることもしていた。辞職中はもういらいらして見ていたんです、悔しくて。戻ってきてまた議連を再開するんですけどね。
辻 認定NPO法人の時は、かつての新進党のような強力な野党がいなかったので、国会レベルでは比較的スムーズにいったのですか。国会での論戦って、そんなになかったような気がしているんですけど。
辻元 そうですね。でも、パブリックサポートテストの要件とか、最初はかなり厳しかったわけで、どうするかとか、松原さんとかみんなと議論はずいぶんしました。言葉は悪いけど、「敵は財務省」っていう感じだけでしたよね。財務省には熊代さんがやっぱり頑張ったんですよ。ですけど、要件を厳しくして、財務省もそんなに影響が出ない範囲で認めたという感じですよね。結局、向こうの思うツボで、10年かけて200団体程度の認定でしたから。だからまあ、「これぐらいだったらやっても影響はそんなに出ないだろう」というところで手打ちをしたという感じでしたね。
山岡 おもちゃをちょっと市民にあげておこうか、みたいな感じだろうね。
辻元 けれども、私たちはその扉をちょっとこじ開ければ、あとはまあ、またこじ開けられるだろうと思っていた。私は一旦辞職しますけれども、また戻ってきてからは、絶対に欧米並の税制優遇を勝ち取るっていうのをはっきり目標にした。自分たちが政権を取ったら私は(税制優遇を)実現させるぞ、政権とればできるはずと思いながら、政権交代させる、政権をとるということで必死に活動していたって感じです。
結果、政権交代し、鳩山政権で「新しい公共円卓会議」が官邸に発足し、管政権で東日本大震災が起こり、私は総理大臣補佐官になり税制優遇を実現させることができました。
辻 確か、僕らもあの頃議論していて、「ともかく扉のカギは外そう」と。「開かなくてもいいからカギは外そう」という議論をしました。この要件ではほとんどのところが認定は取れないだろう。よほど小さいところかよほど大きいところしか取れないという話をしていて、とりあえずかかっているカギは外しましょうという議論はやっていました。それがパブリックサポートテストであると。
辻元 そうですね。その間にどんどんNPOの数が増えてきましたし、苦しい中でもいろいろな活躍をする人たちも出てきましたから。認知度が上がってきて、今まで新聞にNPOなんて言葉は1文字もなかったのに、NPOという言葉が出ない日はないぐらいに、やっぱり変わってきましたので、そういう意味では国会の空気もだいぶ変わってきたっていうことですね。
辻 どうもありがとうございました。
[本文注]
[1] 『技術と人間』1992年8月号所収、岡部一明「アメリカではなぜ市民運動が根づくのか――もうひとつの公共=NPO制度とは」のこと?