座談会概要     *肩書きは当時

  • 日時:2011年7月15日(金)19:00~21:00
  • 場所:日本NPOセンター会議室
  • ゲスト:
    早瀬 昇(大阪ボランティア協会常務理事)
    松原 明(シーズ・市民活動を支える制度をつくる会副代表理事)
    山岡義典(日本NPOセンター代表理事)
  • 司会:坪郷 實(早稲田大学教授)
  • 進行:辻 利夫(NPOまちぽっと事務局長)
  • 記録:原田 峻(東京大学大学院)

NPO法制定過程における市民団体の動きに関して、松原明氏・山岡義典氏・早瀬昇氏の鼎談形式でインタビューを実施した。

松原明氏は、経営コンサルタント等を経て、1994年に「シーズ=市民活動を支える制度をつくる会」の事務局長に就任。1998年のNPO法制定と2001年の認定NPO法人制度制定、およびその後の法改正でロビイングの主導的な役割を果たした。2013年からシーズ=市民活動を支える制度をつくる会代表理事。

山岡義典氏は、都市計画の実務を経て、1977年にトヨタ財団プログラムオフィサー(のちにプログラムディレクター)に就任。1992年に同財団を退職後はフリーのコンサルタントとして市民活動に関する調査研究や政策立案に関わった。1996年に日本NPOセンターの常務理事・事務局長に就任、2012年から同顧問。

早瀬昇氏は、1978年より大阪ボランティア協会に勤務、1991年に事務局長就任。阪神・淡路大震災発生後は日本初の災害ボランティアセンターとなった「被災地の人々を応援する市民の会」の創設に関わり、NPO法制定過程では関西の市民団体の立場から関わった。2012年から日本NPOセンター代表理事。

なお、この鼎談は2011年7月15日に日本NPOセンターで実施した(司会:坪郷實、進行:辻利夫、記録:辻利夫・原田峻)。

(補注)今回、ホームページに公開することになったため、表現を改め一部補足・省略した個所がある。

 

座談会本編

辻 本日は、立法運動をになった当時の市民団体の主要メンバー3人にお集まりいただいて、順番にお話をうかがうことにします。制定過程の期間は、前史となる1992年くらいから辿って2001年の認定NPO法人制度導入までとします。時間が限られていますので、網羅的に全部ということでなく、2つくらいにポイントを絞って話していただくことにします。1つは、NPO法制定に向けた市民団体の動向、背景。もう1つは、政党や議員の動きです。司会は坪郷さんにお願いします。

坪郷 シーズは94年11月設立ですが、前史がありますよね。最初は、シーズができるまでの前史の時期と、シーズができて以降の98年3月のNPO法制定、2001年3月のNPO支援税制成立という時期で、2時間で重要な出来事を思い出していただければと思います。加えて、このプロジェクトでは当時の関係者に広くインタビューもおこなう予定ですので、その時々でインパクトをもった人の名前も適宜挙げていただければと思います。

最初の1時間くらいで法制定を求めた市民団体の動き、後半は政党や会派、議員の動きとどう連動したのかをお話いただきます。と言っても、2つは重なってくると思います。初めに、法制定を求めた市民団体の動きについて、山岡さん、松原さん、早瀬さんの順でお話いただきます。後半については鼎談のかたちで進めたいと思います。

 

山岡義典

1996年5月までの段階については、日本福祉大学の紀要に詳細に書いています[1]市民団体の動きはそこに書いてありますので使ってください。1992年10月31日と11月1日に川﨑市で、第2回日本ネットワーカーズ・フォーラムという会議を開催しました。公的な場で、日本に新しい非営利法人制度を作ろうという動きを意図したシンポジウムは、これが最初かと思います[2]。ネットワーカーズ会議の代表の播磨(靖夫)さんの開会報告に続いて私が基調報告として新しい非営利法人制度がなぜ必要かを問題提起した。アメリカからも4名を招聘してNPOのなんたるかを聞き議論をした。早瀬さんもディスカッションに参加した。このときは、企業、自治体、いまでいうNPOの人が100人以上、初めて一緒に集まったという感じがします。このあと大阪と名古屋で開きました。

*早瀬 大阪では、当時、大蔵省主税局長の大武健一郎さんが来ましたね。)

この会議が、「新しい非営利法人制度を作る運動を起こそう」と初めて公に言ったものでした[3]。このあと、会議をいろいろなところでやっていたのですが、もう少しきちんとやろうということで、奈良まちづくりセンターの理事長だった木原(勝彬)さんと、今はビッグイシューの代表をしていて当時は地域社会研究所というコンサルタントだった佐野(章二)さん、この2人が僕に呼びかけて、3人でNIRA(総合研究開発機構)に企画を持ちかけて調査をおこなうことにした。2000万円は必要だということで助成ではなく委託にして出してもらった。スタートしたのが93年3月だったかと思います。東京のYMCA研究所で第一回をやりまして、それから1年余りかけてまとめました。市民活動団体に関して網羅的な調査をして、関西と東京で30人ほどの人間が議論しました。このときに、新しい制度をどうつくるかということと、独立の民間のセンターを作る必要があるということを書いた。民間センターは全国的なセンターと、それぞれの地域のセンターを作るとした。

94年4月23日に、新宿でシンポジウム「市民活動を支える制度を考える」がありましたので、報告書もこれに間に合わせました。シンポジウムでは、僕らはNIRAの報告をしたわけですけど、石村耕治さん、林和孝さん、柏木宏さん、といった人がそれぞれに報告し議論して非常に活気がありましたね。これがベースになって、11月にシーズができる訳です。

NIRAの報告書[4]には自治体はじめいろいろなところで反応があって、日経新聞が一面に出してくれたんですね。その後NIRAの発表会を東京と大阪で開催しました。100人ずつくらい集まったかな。本格的に法案というか仕組みを作ろうということで、NIRAの第二弾の調査研究を94年12月27日から始めるんですが、始まったところで震災が来たわけですね。すぐに法案関係の動きが出たので、新しい法案作りに対して意見を出して、基礎理論を固めていった。そして95年11月に取りまとめ、最終的に報告書[5]が出たのは96年の5月です。

僕らは常に、2つを睨んでいたんですね。1つは民法の抜本改正に基づく公益法人制度本体の改革による新しい非営利法人制度をつくること、もう1つは現実的に民法はそのままにして民法第34条の特別法による非営利法人制度をつくること。報告書でも、雨宮孝子さんが民法改正の素案、僕が特別法の素案を2つずつ書いて、4つの案を作ったんです。これが、シーズの活動と並行して、震災前後1年くらいの間にやったことです。

この間に、94年9月にはイギリスでCharity Lawの国際カンファレンス[6]があったんですね。ヨーロッパでも新しい法人制度についていろいろ議論があったんです。そこに僕らも10人くらいで出かけていって、NIRAの報告をして、向こうの人とディスカッションしました。我々は日本のことしか知らなかったけど、初めて、これは世界の動きであると興奮した。特に佐野さんとかが興奮しましたね。これはやらなくてはいかんな、ということも感じてきた。とりあえず僕が直接関わったことは以上で、直接関わっていないことは、先ほどの論文に書いてあります。

 

松原 明

1993年の時点で、市民、財団、行政の側から制度に向けた動きがあって、この時点でいろいろなレポートが出ていたんですね。古いところでは1985年です。一番印象的なのは、1992年に経済企画庁が出した「新しい制度を目指して」というレポートです。新しい法人制度の必要性を訴えていて、行政側からは一番しっかりしたレポートだったと思います。

私の来歴は国際人権活動から立法運動に入ってきました。東チモールなどの国際協力で91年まで大阪にいて、東京に移ってきたときにやろうと思ったミッションが立法運動です。そのときの一番の原動力は国際協力団体の法人化の問題ですね。アムネスティ・インターナショナルが公益法人になろうとして、なかなかなれないという問題がずっとあって、そういうのは許せないと思いましたからね。

立法のアプローチとしてコアになったのは、税制の問題です。税の問題から組み立てて、法人格の問題をやりましょうと考えていました。91年、92年は税制や法人制度の勉強しかしていなくて、93年1月からフリーになったので、運動を組み立てるつもりで、あちこちを回ったのです。そのとき、東京ランポの辻さんとも「情報公開法を求める市民運動」の勉強会で出合って、それで東京ランポで2月に立法のための研究会を始めるからというので参加しました。そこで林和孝さんに会い、「情報公開法を求める市民運動」の奥津(茂樹)さんにも会った。法律を作ることを考えていたので、立法運動団体にまずアプローチして、それから政党にも個人的にアプローチしていきました。

一方で、林和孝さんと辻さんと3人で東京ランポに市民活動促進制度研究会を立ち上げて、立法運動をするということで、運動に必要な法案を作る研究ということで始めました。ランポのほうで法人制度の問題をやるというので、税制の問題もやろうと思い、アムネスティの人脈で自由人権協会を紹介してもらって、93年の6月に自由人権協会の肩書きでウィーンの人権会議に出るわけです。そこでいろいろな人にリクルートをかけて、帰ってきてから、石村耕治さんと北野弘久さんをトップにして、(自由人権協会のなかに)税制に関する研究会を作りました。同時に運動面で、92年のリオデデジャネイロの環境サミットのグループの助けが必要だということで、岩崎駿介さんが立ち上げた環境団体[7]に話に行って、リオに出たグループのなかで弁護士の矢花公平さん[8]と法人化についての研究会を一緒にやりましょうと。そのときに、運動母体となりそうな人のグループをリオ関係から調達して、法人化制度はランポでやって、税に関しては自由人権協会でやって、この3つを統合して運動体を作るというプランで進めていました。法案については、弁護士の浅野晋さんをランポの研究会に引き込んで検討を続けました。

94年にニッセイ、住信の報告書[9]が出て、NIRAの報告書が出た。それとあわせて、一方で自由人権協会の税制の提言骨子、ランポの法制度の原案もできて、法律を作るためのコアとなる目標レベルが決まったので、「運動やるべし」ということで、4月に東京ランポが企画して「市民活動の制度を考える」シンポジウムを開いた。

シンポジウムでは、アメリカのSharon BeharさんというNGOの活動家にアメリカの話をしてもらって、石村さんが税制の案を紹介し、伊藤(道雄・JANIC)さんには日本のNGOで寄付が集まっていないことを話してもらって、富山和子さん(日本消費者連盟)が郵便料金の話で、林さんには市民活動促進法の原案を出してもらって、山岡さんにはNIRAの報告をしてもらった。予想を超える200人近くがきて、そこで立法のための運動体をつくろうとなって、準備会をもって11月にシーズが発足しました。

*辻 フォローしますと、4月23日のシンポジウムのパネリストに、日本消費者連盟の富山洋子さんがなぜ入っているのか。NPO法を作るにはメリットがないとだめだろうと思い、その頃、第三種郵便の改定の問題があって消費者団体などが盛り上がっていたんです。そこに、柏木宏さんからアメリカの事例を聞いて、「NPO法を作ると、アメリカのようにNPOの郵便料金が割引されるメリットがあるよ」とアピールしたんです)

郵便については、アメリカのような「ニュースレターを封筒に入れないで三つ折りにしたものを簡易書簡と認めてくれ」ということで、郵送できるかどうか実証するために港区の郵便局に行って、ぐるぐる回る機械に入れたら、通らなかった(笑)。これもひとえに、NPO法と税制をつくるメリットを広げないと運動が進まないということで考えたことです。寄付税制だけで法律を作るのは難しくて、一番のメリットは郵便料金だということで、消費者団体を巻き込んで運動化しようした。そういう意味で、富山さんに入ってもらったのです。それまでは、消費者団体に「一緒に運動をしましょう」と呼びかけても「やらない」と断られていたのです。94年以降の経過は、シーズのブックレットに書いてあります。

 

早瀬 昇

僕自身が背景として感じるのが、1985年にプラザ合意ができて円高になり、日本の企業が大挙、アメリカに進出しだしますよね。そこで、日本の企業がアメリカの戦略的なフィランソロピーを知るわけです。これは90年以降に企業が社会貢献活動を始める背景となったし、さらには自民党サイドに影響する話です。

もう1つ重要なのが、89年の冷戦終結だと思うのです。89年までは社会主義対資本主義という対立があって、市民活動は基本的に反体制にならざるをえなかった。冷戦が終わって以降、そういう議論が一段階上にあがるんですね。それまでは「市民運動」という言葉しかなかったわけで、「市民活動」という言葉が馴染まなかったんです。僕は91年に大阪ボランティア協会の事務局長になったのですけど、91年に企業市民活動推進センターという部門をつくると、仲間から裏切り者扱いですよ。「なんで企業のお化粧を手伝うの、そんなにお金ないの」と。「企業を変えないと社会は変わらないでしょ」とだいぶやりあったんですけど。

一方で90年くらいから、企業自身によるフィランソロピーの運動が始まりだして、僕は市民活動団体と企業とのつなぎ役をやっていました。その過程で企業内に市民活動を理解する人が増えてきた。そのような社会の転換があったから、後々にNPO法をつくるときに、経団連の初代社会貢献課長である田代(正美)さんが自民党の説得に動いてくれた。田代さんに「なんでNPOの応援をしてくれるのですか?」と聞いたら、「NPOが伸びないと行革が進まない。政府だけに任せていたら行革が進まない」と。その発想は、行政にとって代わるというNPOが反体制型の団体以外のものもあるという認識がないと、あり得ないことだったですよね。それまでは、市民活動に参加している企業人は企業内では隠れキリシタン状態だったんですよ。

そういった90年前後のパラダイムの転換と大震災でのボランティア、そして市民活動への注目が、法律を作ろうということになる背景だったと思うんです。NIRAの研究会では、「民法改正は100年かかる」と話していたんですよ。太平洋戦争に負けても民法34条は変わらなかったわけですから(笑)。

そこへ突然、大震災が起こってしまった。そこで95年の1月25日に、当時の官房長官の五十嵐(広三)さんが「ボランティアを支える制度を作る」と言いだしたんです。その流れで、18省庁連絡会議ができた。ただ、あのときはボランティア推進だったのを、NPO法制度に変えられたのは、震災前からの松原さんたちの準備があったからですね。実際には、94年の前に公明党が「ボランティア推進基本法案」という法案を出すんですけど、実効的な意味はほとんどなかった。あのときは実態がなかったですから。ですので、95年の震災後にボランティアの活動が盛り上がったときに、既にNPOという法制度に関する準備状況が進んでいたことは大きかったと思いますね。

たしか、95年の2月に鳩山由紀夫さんからヒアリングを受けた経験がありますよね。彼はあのときは新党さきがけの幹事長でしたね。この時には既に法人制度の話で、完全に法人格に関する法律整備のほうに舵が切られていました。

 

ボランティア支援立法と18省庁連絡会議

坪郷 ありがとうございました。これからは後半ということで鼎談のかたちで進めたいと思います。95年1月に阪神淡路大震災が起きて、ボランティア活動が注目され、政府からボランティア支援の法制度をつくるという動きがあって、18省庁連絡会議が発足する。それに対して市民団体側が議員立法として進めることで連携するという動きが具体化するわけですね。

松原 92年に経済企画庁国民生活局長に大蔵省の主税局長が異動してきます[10]。彼がなぜ重要かというと、NPO法のコアは税制だったので、元は主税局の局長だったから、「税は俺なら話をつけられる」ということで、五十嵐官房長官に「これで行きましょう」と囁いたんです。五十嵐さんも「オーケー」ということで18省庁連絡会議を作って(1995年2月)、大蔵省も「彼がやるんだったら」と乗ったんですね。これに対して、シーズでは政府主導で立法されてはいけないということで、山岡さん、木原(勝彬)さんたちのNIRAグループ、関西の本間(正明)さんたちのNPO研究フォーラムに呼びかけて連絡会をつくることにした。それが1995年の3月ごろだと思いますね。4月15日に日本青年館で「市民活動の制度に関する連絡会」の結成集会を開いたら、「ストップ経企庁」という話で、とりあえず人が集まった。一方で、各政党もNPO法に関する部会を作ったので、それが18省庁連絡会議と並立しているかたちになった。

山岡 4月15日のイベントは地方都市からも人が集まって、これがのちの地方展開につながって、今の地方の支援センターの母体になっていくんです。呼びかけは3団体でしたが、全国の動きになったというのは大きかったと思いますよ。

松原 4月26日に18省庁連絡会議のヒアリングがあったんですね。そこに出たのが、僕と雨宮さんと山岡さん。

山岡 堀田(力)さんもいませんでしたか。

松原 堀田さんがいたのは与党三党のヒアリングで、そのときは僕と堀田さんが対立したんですよ。堀田さんは「政治活動を認めるべきじゃない」と言って、僕は反対論を主張していた。そこから堀田さんのグループとの論争が始まるわけですが。話は戻って、4月26日の18省庁連絡会議のヒアリングがあまりに酷かった(役所主導だった)ので、木原さんが怒り狂って、「18省庁連絡会議は止めなあかん」という決意を強く表明していた覚えがあります。

山岡 連絡会を作ったあと、仙台・金沢・広島と、地方でフォーラムをやるんですよね。地域のなかに実行委員会をつくってもらって、実行委員会と連絡会の共催というかたちで実施するんです。地域で初めて、分野を超えた団体が集まるようになるんですよ。自然保護団体とか福祉団体とか、普段は会わない人たちが出会ったのが、NPOという考えを地方に広げる役割を果たしたんじゃないかと思います。

とにかく我々は、「ボランティア法案反対」と言っていたんですが、4月、5月くらいから新聞で「ボランティア支援立法」から「NPO法」という名前が出るようになるんですね。ところが、18省庁連絡会議は「ボランティア支援立法」でまとめかけて、11月初めに素案を各都道府県にファックスで流すんです。これはいよいよ、議員立法でやるべきだという決断をして、議員も「議員立法でやるから政府は手を出すな」と言ったのが、11月でした。そのときから経企庁は、表向きは口に出さないようになる。それは大きかったんじゃないかな。あとは、11月に新進党が法案を提出するけど、連絡会のほうは誰も見向きもしなかった。

松原 僕と雨宮さんと山岡さんと何人かで、河村たかしさんのところに行って、「法案を出すな」と言ったんですが、彼は無視して出してしまった。

山岡 東京は新進党案に冷たかった。僕は新進党のインタビュー受けても「これじゃダメだよ」と言っていたから嫌われたのかもしれない。

早瀬 ただ、このときはまだ、関西は新進党案の支持者が多かったんですよ。

松原 本間さん・山内(直人)さん、跡田(直澄)、出口(正之)さんのNPO研究フォーラムは中立の立場と新進党案を支持するという人がいて、両睨みでしたね。

早瀬 神戸などでも、僕と実吉(威)さんだけが自社さ案支持で、あとは新進党案支持。あのときはみんなの政治的志向性がわかりましたね。

 

NPO法案をめぐる攻防

早瀬 NPO法案をめぐって本当に政策論争になるのは、96年2月に与党3党案が出てからですよね。そこに至るまでのプロセスが大変だった。市民活動の定義だって、さきがけと自民党で揉めに揉めた。

山岡 96年2月に与党が骨子で合意して、そのあとまた崩れるんですよ。

松原 96年4月3日に、(自民党から)熊代(昭彦)試案の修正案が出て、これが公益性と低廉性について問題があって、特に公益性問題が酷かったので、「シーズとしては絶対に飲めません」と言ったんですよね。「飲まないと廃案になるよ」と言われたけど。4月から6月までは、与党三党で激論が繰り返されて、与党NPOプロジェクトの調整では結論が着かず、NPOプロジェクトから上の与党政調会議に移ったのですけど、上のほうでも氷付けになった。(社民党の)五島(正規)さんからは、あまりいい表現ではないけれど「この法案は安楽死ですね」といわれたのを覚えている。

山岡 その危機感から出したのが、6月10日の市民活動の制度に関する連絡会の要望書でしたね。

松原 そのあとに解散総選挙のムードが高まって、8月に(さきがけの)鳩山(由紀夫)さん・菅(直人)さんが「民主党を作る」と言いだして、「自社さ政権では限界がある。できない法律がたくさんあって、とりわけ情報公開法とNPO法ができない。だから出ていく」と言ったんだよね。情報公開法やNPO法や行革を争点にして民主党が選挙に出ることになったものだから、慌てた与党三党の政調会議が、争点潰しに出た。自民党は山崎(拓)さん、さきがけは渡海(紀三郎)さん、社会党は誰だったかな。とにかく、この三人が署名して、合意事項ということで、問題だった公益性の項目は削って立法することになったんですね。9月27日に衆議院解散があって、その翌日9月28日に民主党が結成されます。ちなみに、政調会議でがんばった渡海さんは選挙事務所に戻るのが遅くなって落選した。「シーズに関わった人はみんな落ちる」というジンクスがある(笑)。

早瀬 96年という年は、NPOという言葉を広める年でしたね。大阪NPOセンターも、正式発足の1か月前までは「大阪NGOセンター」という名前だったんですよ!(笑)。日本NPOセンターが11月22日に発足するということを知って、1日でも早く作ろうとされて、大阪NPOセンターは予定を変えて11月21日に発足したわけですが。

山岡 大阪で開いた懇談会でうちの行程表を見せたら、「じゃあ、1日前にやろうと」と大阪NPOセンターにしたみたいですよ。

松原 シーズとしては、NPOセンターについては「このロビーで忙しいときにいかがなものか」と思っていました。衆院選を経て氷漬けになった法案を再始動させるために与党三党との間で大激論している最中だったので、「時期を外してよ」という気持ちでしたね。(笑)

早瀬 年表には書かなくてもいいけど、NPO法案については何回か、動きが止まったときがあって、松原さんはじめ大変な苦労をしましたよね。

松原 96年は大変で、新進党の住専をめぐるストで国会が動けなくなった。96年の法案が自社さでまとまって、やれやれと思ったときに、民主党ができて、与党案に反対と言っていたわけです。そのときも実は民主党のNPO担当である金田(誠一)さんと話がついていて、自社さで法案を出してもらって、民主党に修正案を出してもらう。自社さに修正をオーケーしてもらって通すというシナリオで、1996年の終わりごろに話がまとまっていたのですね。96年12月5日にシーズのシンポジウムに金田さんに来てもらって、そのときには既に自社さと民主の間で話を進めていて、仮法案を自社さで出して民主で修正をかけて完全なものにするという話がついていた。ところが、96年の総選挙で社民党から当選した辻元(清美)さんがプロジェクトに入ってきて、突然、それまでの議論を無視して、与党案に反対を唱えだした。96年11月に辻元さんが拒否権を発動しまくって、法案を出せないのではないかというところまでなったので、私はしばらく辻元さんの説得に時間がかかりました(笑)。与党協議と民主党との調整は、10月の総選挙が終わって橋本内閣が発足してからずっとやり続けていたんですよ。

山岡 その頃は、僕は連絡会で全国をオルグしていましたね。なぜ今NPO法が必要なのかといったことを、各地で講演して回っていた。12月16日の前に、僕と松原さんと、与党三党と会うんだよね。「三党内で言い合うのは終わりにして、法案を出した上で、国会できちんと修正議論をしてくれ」と。

松原 そのときには既に修正協議の話をしていて、辻元さんの説得も終わったところです。12月に与党三党が「市民活動促進法案」を出したときには、民主党の中で修正事項を決めてもらっていたんです。予定通りに、97年2月にシーズが与党三党に修正要望書を出した。3月に衆議院で議論が始まったけど、新進党は「絶対に乗らん」と決裂して、その一方で、5月に与党と民主党が修正で合意する。新進党に「もう一回乗らんか」と話をして、熊代(昭彦)さんと河村(たかし)さんの間で「税制は附則に入れる」と一旦合意したにもかかわらず、自民党の税調が出てきて、あのときは柳澤(伯夫)さんだと思うんだけど、ダメを出した。新進党が怒って、6月に新進党が審議拒否。しょうがないから多数決で通すということになりました。

早瀬 河村さんは「税は俺がやった」という手柄が欲しかったんでしょうかね。

山岡 国会が切羽詰まっていた6月7日・8日が第1回NPOフォーラムだったんですよ。その前日にNPO 法は衆議院を通過したものだから、全国から1000人くらい集まって、ものすごい熱気だった。これは、NPOというものを全国的に理解するきっかけになりましたね。

 

NPO法成立へ

早瀬 結局、衆議院で可決して、参議院で継続審議になったあと、自民党の保守派への対応が大変だったんですが、それに対しては、1つには、(経団連の)田代(正美)さんががんばってくれた。田代さんはあのとき、経団連ではなく自民党本部に詰めていましたから。それともう1つはJYVA(日本青年奉仕協会)の会長を務めていた末次(一郎)さんが強力に応援してくれましたね。

山岡 JYVAは斎藤信夫さんがネットワーカーズ会議に関わっていましたよね。

松原 JYVAというか、齋藤・末次のラインの個人プレーでしたね。

早瀬 末次さんと会ったのは、97年の全国ボランティア研究集会の時だったかな。

松原 97年の全ボラ(全国ボランティア研究集会)の大会で、JYVAの末次さんと齋藤さんと話をしたんですよ。97年12月に自民党の総務会が開かれて、自民党は総務会でオーケーが出ないと法案通らないですから。そのときに、「市民活動促進法案の名前を変える」という話が出たときに、一部の右派が「名前を変えるだけで通していいのか」って反対したら、加藤紘一さんが、「経団連も賛成して、山本正(日本国際交流センター)も賛成して、末次一郎も賛成して、笹川陽平(日本財団)も賛成して、これだけ賛成しているのに、まだ左の法律だというのか。笹川陽平にも、俺が署名をもらいに行ったんだ」と言って、みんな黙ったという。(笑)。

山岡 経団連は1%クラブ会長の若原(泰之)さんががんばってくれて、97年10月に経団連がきちん声明を出したというのは大きかったですよね。

松原 この声明は豊田章一郎さんなんですけど、若原さんと山本正さんがすごくがんばってくれたんですよ。この直前に、山本正さんが豊田章一郎さんにNPOの解説をする場を設定してくれて、私も一緒に行って、経団連も「わかった」と。声明を出すと同時に、豊田さんが橋本総理大臣に会いに行って、「日本のオリンピック招致よろしく、ついでにNPO法もよろしく」と言ってくれた(笑)。橋本総理も「今国会か次の国会で通す」と約束したと。それと同時に、(参議院自民党の)村上(正邦)さんへのアプローチをした。そういう右対策とあと宗教対策が大変だったですね。

97年の10月くらいまでは新進党案があったので、新進党を支持するPAN(芸術文化振興連絡会議)とさわやか福祉財団のグループと、こちらの3人を中心とする市民活動の制度に関する連絡会との激烈な論戦があった。連合は民社党系と総評系が合体して、民社党系は新進党、総評系は自社さだったので、連合としては身動き取れない状況にあった。この頃は民社党系の人にも会いに行きました。97年12月に参議院与党が修正内容に合意して、あとは衆議院で通すだけだったんですけど、実はこのときに危機があった。98年の夏に参議院選挙があるので、自社さの連立は解消するだろうと言われていて、98年3月までに通さないといけなかった。予算を審議している裏法案で通したんだけど。通すためには、市民側の一致が必要だということになって、緊急集会を何回も開いた。前年の12月に(さわやか福祉財団の)田中尚輝さんとPANの高比良(正司)さんと僕で集まって、手打ち式をしました。それで一致して12月から1月にかけて市民団体の署名を集めた。2月5日に集めた署名をつけて、申し入れをしたんですけど、それが大きかった。

早瀬 このときは全県から署名を集めましたね。この署名運動ができた背景には、JYVAが開催していた全ボラで、全国の多様なNPOの間にネットワークができていた、ということもありますね。

松原 その結果、民友連も折れたし、公明党も折れた。PANは共産党に強かったので、共産党もオーケーしてくれた。新進党は12月末に解党して、衆議院は民友連がメインになったんですが、基本的に乗ってくれました。自由党は抵抗したけれども、最終的には98年3月4日に参議院で可決するときにはオーケーしてくれた。それが、3月19日のシーズとPANの声明発表につながる。それまでは政局とからんで、民間側も二つに分かれて大論争があったわけです。

その前の2月だったかな、委員会で決議をする前日に河村たかしさんにホテルに呼び出されて、延々と今までの話をされて、「我々はNPO法に反対していたわけじゃないんだ、賛成の立場だったけど内容についていろいろ議論があったから言っていただけだ、明日は賛成票を投じるから理解してくれ」と言われましたね。参議院で可決したときは参議院自民党の村上(正邦)さんが根回ししてくれたんだけど、新社会党に根回しする時間が無くて2人が反対を投じて、全会一致にならずに可決して、衆議院で全会一致になりました。

 

議員立法と市民団体の関わり

早瀬 やっぱりNPO法は、最も成功した議員立法の1つだと思うんです。それは、議員とシーズなど市民団体との密な話し合い、連携があったからですよね。

山岡 市民団体側がネットワークを組んで、いざという時には「議員しっかりしろ」とまとめられましたよね。

松原 うちのロビーの仕方は非常に変わっていて、NPOってマイナーな話題なんですよ。マイナーなんで、なるべく多くの人が議論に参加してもらわないといけない。連絡会を中心として全国に広げていくと同時に、例えば、95年12月に日弁連に提言を発表してもらって、96年に2月の神奈川ワーコレ連絡会にお願いして法案を作ってもらって、たくさんの人が法案を出してくれたほうが議論が進むと。民主主義なので、議論の間口を広げてもらうということで、片っ端から団体を尋ねて、草案を渡して、「いまこういう状況なので、必要性はないですか?」と営業に回ったのです。日本青年会議所も法案を出してくれました。それに関しては、全部で7本くらいの法案が出たんですね。最後に、構想日本が出したんですが、これはタイミング遅かった。だけど、山田厚史さん(朝日新聞記者)がいるから、デカデカと朝日新聞に載りましたね。いろいろなところから提言や法案が出てくるというのが特徴でしたね。

あとは、シーズのやり方は、議論をオープンにして、対立軸をつくってショーにしていくというやり方で。その意味では河村さんは一番人気でしたね。申し訳ないけど、あの人はヒールになってくれたんですね。河村さんを呼んでは、戦う相手として辻元さんとか堂本さんとか熊代さんとか金田さんを呼んで、まあ一種の興行にして、観客を増やすという。なんせマイナーな法律だったものですから。

坪郷 NPO法がマイナーな状況から変わった時期はありますか?

松原 マイナーな状況から変わったと実感した時期があって、運動の仕方を変えた時期があるんですよ。シーズという団体の結成の仕方は、一種「被害者の会」をモデルにしてるんですよね。「NPO法人格を取れない被害者(団体)」が集まって被害を訴えるというイメージ。運動というのは戦略が幾つかあって、組織は戦略によって決まると思っているので、そのつもりで組織を作ったんですね。

97年くらいから、運動の仕方がそれでは持たなくなったんですよ。どうしてかというと、マイナーな問題でも関係する人が多くなって、そうすると、逆に反対する抵抗も大きくなった。危機というか、法案が通りにくい状況が起こったんです。そのときに、ステークホルダーを広げないことにはうまくいかない。それまでも、山岡さんが経団連やJCを連れてきてくれたけど、参議院自民党というのは、それぐらいの論理では動かないんですよ。被害者団体としての姿では通らないとなったときに、運動スタイルを変えて、多くのステークホルダーに関して、それぞれのメリット・デメリットを提示していき、ステークホルダーをさらに拡大して、広く巻き込むことに変換したという時期がありました。

具体的に、何をしたかというと、知り合いを通じて片っ端から電話して、各省庁のメリットと、何を考えているかの情報を集めた。与党を説得するキーがいると。このときにやったのが、各省庁と族議員へのアプローチですね。厚労省だったら、介護保険法が通るという目処のもとに、「地域の介護主体がいるでしょう」と自民党の厚労族に訴えた。主に厚労省、防災、外務などですね。防災では、震災時にNPOは大切でしょうと。外務では、NGOが今後の国際協力で不可欠ですと。それから、右派ですね。日本の若者の未来のためには、NPOで優秀な人が国のために頑張る場が必要だと。いろいろやりました。参議院の実力者の片山虎之助さんや元官房副長官の石原信雄さんにも会いに行きました。片山さんは自治省出身なんですよ。自治省は階級社会なんで、片山さんの上は石原さんだと。石原さんは、防災に関心があったので、防災や日本社会の国づくりということでアピールしました。

あとは、直には会っていないですけど、右翼の重鎮の四元(義隆)さんにもアプローチして、あの人から中曽根派にアプローチしてもらった。そうこう、ステークホルダーが拡大していく過程で、新しい問題も起こった。キリスト教系が反対声明を出したんですよ。NPO法の宗教活動の制限条文が信教の自由を侵しているというのですね。キリスト教系には山岡さんにお願いして。あとあたったのが、新宗連の政治部ですね。立正佼成会に何回かお願いしたかな。当時、自民党に強い宗教関連団体は神社本庁と新宗連だったんですよ。神社本庁は無関心を決め込んでくれて、新宗連にはオーケーを出してもらった。あとは、東京都の自治体関係から都議会公明党ルートで、公明党にもオーケーを出してもらいました。地方活性化や地方自治行政にとって、地域住民の活動の活性化という点でNPOが重要というアプローチで、自治体も攻めたのですね。

このときに、それまで「被害者団体の会」だったのが、いろんな団体・機関・人たちにそれそれの利益を訴える方向に運動が変わった。衆議院を通った直後ですね。シーズが一番ロビイングしたのが、96年から98年1月までですね。参議院自民党は、村上正邦という実力者がいて。非常にマメで熱心な人で、参議院全体をまとめていて、共産党でさえも村上さんに従うという。参議院というのは、衆議院への対抗意識があって、同じ党でもまったく違う。96年までは各党を崩せばいいと思っていたら、各党の衆議院と参議院を別々に崩さないといけないと気づいた。97年に衆議院を通ったあとは、参議院攻略に出ました。数うちゃ当たるで、あのときは無茶苦茶な数のところに行った気がする。村上さんの出身地が福岡なので福岡に行ったら、「全国区だ」というので、どうするかという話になった。辻元さんが思い余って村上さんの埼玉の自宅に行ったけど、それでも落ちなくて。そのあとに四元・石原・末次という保守派のラインで、村上さんをはじめとする中曽根派の攻略ですね。どうやって右派をNPO賛成にするか。地元とボスを調べて、片っ端から回る。しんどかったな。

坪郷 話はNPO法ができるまでたどり着いたと思うんですが、そろそろ時間が来てしまったので、最後に一言ずつお願いします。

早瀬 この国はNPOも、もともと縦割りだった訳ですよ。福祉系は厚生省の下にあるし、海外協力系は外務省の下にある。その市民活動の法律制定への熱気が一番盛り上がったのは、97年12月5日の緊急集会以降だと思うんですけど。このときに、経団連の田中(康文)さんが泣いて怒ったんですね。「なんでこんなにバラバラなんだ」と。その姿を見て、みんなが奮い立ったんですよ。そこから、分野を超えた結集が生まれたから。意外に、違うセクターの人が怒ったということのインパクトが大きかったですね。

松原 このとき学んだことは、今回の改正にも通じているんですけど、ロビー活動は詰将棋のようなものだなと。ストラテジックに駒を配置していく。全体としての駒の配置は常に揺れ動く、なおかつ介護保険とか選挙とかいろんなものが起こるので、読みの勝負です。波を読んで、どういう風に配置して、いつの時点でどう手を打つかというのが非常に大事です。それに関して言えば、山岡さんが全国行脚してくれて、僕がロビーに集中して、関西を動かすときは早瀬さんが全部やってくれた。こうした役割分業をしっかりやっていくことが、市民団体の立法運動では大事だと思いますね。政党でも、自社さの中でも役割分業してもらった。民主・公明・共産もそうです。新進党も、シーズの集会で一番出演したのは、河村たかしさんでしたから、NPO法の議論を広げる大きな役割をしてくれたんですよ。そういうものをどう構築できるか。いろんな配置が重要ということですね。

山岡 東京のロビーは松原さんが中心にやってくれて、僕は地方を廻ったんだけど、地方で分野を超えた集まりをやるなかで大きいのは、JCとPANを中心とした子ども劇場なんですよ。動員力があると同時に、中央組織から情報が入っているから、あの2つは議論をよくわかっている。JCはほとんどが社団法人になっているから法人格が必要はないけど、政治課題にコミットしている。子ども劇場は、1000万円以上の事業をやっているのも多いのに任意団体ですから、法人格がないとやっていけないとわかっている。それ以外の団体は、正直のところ法人格があってもなくてもあまり変わらないんですよ。地方では、JCとPANが出会って、それにプラスいろんな団体があることで、法人格の重要性の説得力が増して、分野を越えた団体が集まる意味が出る。最終的にはPANは「法人格だけでは意味がない」と言うので、僕はずっと「まず法人格がないと税制もできないんだから」と言い続けて意見が分かれるんだけど。高比良(正司)さんとは仲良かったけど、そこは合わない。ともかく、地方でやるときは、その2つには実行委員に入ってもらった。

(*青木利元・編纂委員 私は外部から経済人として見ていたんですけど、政治状況の変化として、96年の衆議院選挙で政治の流れが変わったという認識を持っているんです。自民党が単独過半数でいられなくなったわけですよね。)

松原 その前から、細川内閣の成立のときから、自民党は危機感を持っていたんですよね。NPO法を作るということで自民党に行って、最初に政調の事務方に言われてシーズの名簿を見せたら、「こういう人たちは無党派ですよね、こういう人たちに関心を持ってもらわないといけないんですよね」と。事務方は問題意識がありました。それが、細川内閣が崩壊して、新進党ができて、民主党ができるという流れで、かなり危機感を強めた。特に、96年の衆議院選挙の前は、民主党が争点と言ったものは全部つぶしにかかったんですよ。そのうちの1つがNPO法でした。

坪郷 ありがとうございました。これをまとめて、資料編纂だけでなく、市民立法のロビイングの手法を伝えていくことが必要だと思います。

 

[本文注]

[1] 山岡義典,1996,「市民活動団体への法人格付与制度創設に関する最近の動きと市民団体の反応―その1―」『日本福祉大学経済論集』13: 95-107.

[2] 日本ネットワーカーズ会議,1993,『第2回ネットワーカーズ・フォーラム報告書 ネットワーキングを形に!』日本ネットワーカーズ会議

[3] フォーラムを受けて会議では「次代の社会システム創成にむけて」と題した7分野の提案をしているが、その7として「認知と支援のための「法制度」の創設」をあげている。前掲2 p.124~125

[4] 『NIRA研究報告書 市民公益活動基盤整備に関する調査研究』総合研究開発機構1994.3

[5] 『NIRA研究報告書 市民公益活動の促進に関する法と制度のあり方―市民公益活動基盤整備に関する調査研究(第2期)』総合研究開発機構1996.5

[6] NCVO主催の International Charity Law Conference(ICLC)。この会議の様子は山岡,1994,「民間公益活動の展望と課題~二十一世紀へ向けての社会ビジョン」『月刊福祉』(1994.12全国社会福祉協議会)の中で紹介(p.58~63)。

[7] 「92国連ブラジル会議市民連絡会」から発展した「市民フォーラム2001」

[8] 熱帯雨林保護法律家リーグ

[9] ニッセイ基礎研究所「市民活動に対する支援実態に関する調査」、住信基礎研究所「市民活動の発展を目指した助成のあり方に関する研究」

[10] 坂本導聡氏のこと。