NPO法制定過程における海外の市民団体からの関与について、柏木宏氏にインタビューを実施した。柏木氏は在米中の1985年に日本太平洋資料ネットワーク(JPRN)の立ち上げに関わり、日米の市民活動の連携やアメリカのNPOの紹介を行った。同事務局長・同理事長を務めたのち、2003年から大阪市立大学大学院創造都市研究科教授。

インタビューは2012年4月24日に大阪市立大学大学院創造都市研究科梅田サテライトで実施した(聞き手:辻利夫・成元哲・原田峻、記録:辻利夫・原田峻)。 *肩書きは当時

  • 日時:2012年4月24日(火)16:00~18:00
  • 場所:大阪市立大学梅田サテライト
  • 協力者:柏木 宏(元・日本太平洋資料ネットワーク理事長、現・大阪市立大学教授)
  • インタビュー担当:辻 利夫・成 元哲・原田 峻

 

インタビュー本編

成 日本太平洋資料ネットワーク(JPRN)の創設はいつですか。

柏木 1982年じゃないかな。

成 そんなに早いんですか?どこかで1985年と出ていましたけど。

柏木 85年というのは、JPRNに名前を変えたときで、最初はJIEN (Japanese Immigrant Educational Network) という名前で立ち上げた。要するに戦後日本から海外へ出て、活動していた人たちのネットワークを作るということで、北米、南米、ヨーロッパ、若干アジアを対象に、石朋次さんのアイデアで、82年に始め、岡部(一明)さんらも加わり、85年にJPRNに衣替えしました。石さんがもともと南米へ行ったりして戦後の移民の研究を少しやっていたんです。それで自分の研究を社会活動にくっつけようみたいなところでスタートしたわけですよ。

私も82年のときには、アメリカで、まだニュージャージーの大学院に行っていたのです。その前にロサンゼルスに77年から79年に居て、そこで移民の問題とか移民労働者の問題とかに関わる機会があった。それで興味があったので一緒にスタートしたというわけです。世界各地へ日本から出た人とネットワーク作るとかいっても、今のようにインターネットがあったわけじゃないから、まあ、言うは易く行うは難しでした。

辻 日本人の移民ネットワーク作りを初めにやろうとしたわけですね。

柏木 要するに、学生運動が無くなったでしょう、潰されたでしょう、潰れて海外へ出た人がいるんです。海外へ出て行って、ウイーンのオージャパンとか、ギリシャにアウトという女性が集まってやっているグループとか、そのへんと繋がっていたりしていて、そういう人たちやグループをネットワークしていくというようなことをやろうとしていたのですよ。それによって戦後海外に出た日本人のウエルビーングを高めてゆくみたいな意味合いの組織として、ニュースレターを作る団体として始めたんですね。だけど世界全体では広すぎるしフォーカスがないということで、現実的には日本とアメリカでやっていく方がいいだろうというので、日本とアメリカの運動交流、つなぎ役みたいなことをしていくことになった。最初はJapan Resource Centerと言ったかな。で、すぐ名前をJPRN(Japan Pacific Resource Network)に変えたのです。

私が77年にアメリカに行ったとき、さっき言ったように移民とか労働運動に関わったというのは、ロサンゼルスの日系レストランで働いて、そこで労働組合を作ろうとして、そこの移民労働者を集めて組織化するようなことをやっていたからです。日本に一時帰ったときにその支援団体を日本で作って、当時の総評とかの支援を通じて日米労働運動の連携みたいなことを行ったんですよ。だからJPRNのコンセプトみたいなものに割と近いものを、70年代からちょこちょこやっていたもので、そういう延長でJPRNを作っていったという感じなんですけどね。オルグみたいなもんですね(笑)。

辻 基本的に移民ネットワークの対象は日系ですか。

柏木 JIENの対象は、戦後海外に出た日本人ですが、私が関わった労働運動でいえば日系移民とあとはコリアンなどアジア系ですよね。私はほり川という日系レストランで働いていたんだけども、そこに居たときに、日系の移民もいるけれども一緒に働いていたのはヒスパニック系の移民がたくさんいる。やっぱり日本のレストランだから日本からきた日本の連中がだいたい牛耳っているんだけれども、若干の日系人がいて、コリアンなどアジア系が入っている。その連中はだいたいチップがある程度入ってくる仕事、ウエイトレスとかシェフみたいな仕事をしている。ヒスパニック系の人たちはキッチンヘルパーや皿洗いとかで(人種によって仕事の)階層が分かれている。その連中が夜いなくなると黒人が掃除に来る。だからレイス(人種)と階層がはっきり分かれているような社会、それが70年代後半でしたよね。

そこで組合を作ろうとなった。組合を作るときには、ヒスパニック系とアジア系、まあコリアンとかジャパニーズ、英語を母国語にしない連中だけどそういう連中をまとめていかなくちゃいけない。日本の労働組合であれば(職種に関係なく同じ職場の)労働者で組合はできるのだけど、むこうは職種に応じて過半数の従業員が賛成しないと団体交渉権が成立しない。つまり同じ職種の従業員の過半数が賛成して始めて組合として認められ、団交ができることになります。ただし、職種単位なので、レストランでも事務をやっている連中は組織化の対象外で、シェフとかディッシュウオッシャーとか、ウエイター、ウエイトレスとか、そういう連中で組合を作る。そのようなことがあったので、後に、アメリカの大学院で労働問題の勉強をすることになった。

成 移民労働者の話はすごく面白いですね。

柏木 そうですね。まあ、自分は自分でやっていただけの話だから、どうってこともないとか言えないこともないんですけどね。まあ、考えようによっては面白かったですね。そこからどうなったかというのは、さっき言ったように日系のレストランで働いていたときに日系人団体があった。日系人といってもいわゆる三世のね。公民権運動から始まったイエローパワーみたいな、ブラックパワーじゃなくてイエローパワーみたいな連中が作った左寄りの団体があったんですよ。Little Tokyo People’s Rights Organization (LTPRO:小東京住民の権利を守る会)というのがあって、そこのメンバーのウエイトレスがいたので、その人を中心に組織化をしようという話が出てきてスタートしたんですよ。81年だったかな、そのウエイトレスが組合活動で解雇されちゃったから、当時、日本に一時帰国していた私は、日本に彼女を招いて東京とか京都とかあちこち連れ回して、アメリカの労働運動、マイノリティ運動などを紹介するようなことをやっていたんです。

だからJPRNのやっていたようなことを80年の頃からやっていたので。そこから82年に前身団体ができて、85年にJPRNになってしばらく任意団体でやっていて、助成金をとったりとかいう関係で独自の法人になった方がいいということで、88年ぐらいにカリフォルニア州で法人化して税制優遇もとった、という流れになったんですね。

辻 そのときに501-c3団体になったわけですね。

柏木 そうです。税制優遇の寄付控除と事業に対する非課税がメインだけど。だいたいアメリカのNPOってそうなんですね。宗教団体も学校も病院も、我々みたいな市民活動もだいたいそこに入ってくるんですけれども。ただそのときは別にNPOって意識していたわけではない。NPOへの優遇ということでニュースレターのところにバルクメールという形で書いてあって、「バルクメールってなんじゃい?」と。それはNPOが郵便料金のディスカウントのために郵政局(USPA)から貰う証書みたいな番号になるわけで、そうした制度のことを意識しだした頃に、ぼちぼち日本の中でも、90年か91年ぐらいに、ネットワーカーズ会議などが出てきた。

原田 ここに載っています。1992年10月に第2回ネットワーカーズ・フォーラムが川崎、名古屋、大阪で開かれました。

辻 この92年の川崎で開かれたときは、ぼくも参加しましたが、いろいろな人が集まっていましたね。いくつも分科会ができて、その中でNPO法人みたいなことがちょっと話されていた、早瀬(昇)さんか誰かが。あのあたりから、法人化みたいな話が日本でもぼちぼち出てきだした。

柏木 そのときにアメリカから4~5人招かれて来たんですよ。私もそこに半分混ざった感じで来て、話をしましたね。ぼちぼち出てきたのはその頃で、早いところでは生活クラブとかね、そのへんが少しずつNPOに興味をもって、アメリカに来たりもしていたんですね。

辻 生活クラブ(東京)から林和孝さんたちがカリフォルニアに行きましたね。

柏木 その前に、生活クラブ(神奈川)の横田(克己)さんたちのほうが早く来ていたみたい。ただ横田さんのときには、我々は接点が無かったのですよ。初めは、山岸(秀雄)さんたちがUSIA(米国文化情報局)かなんかのお金を貰って、アメリカ政府のお金でアメリカに研修に行くプログラムがあって、それでJPRNに寄っていったんですね。90年かそこらじゃないかな。

辻 JPRN発行のGAIN(Grassroots America Information Network)で、1993年に発行された第1号、第2号の頃からNPOの紹介をやっていますね。これは93年の第3号だけど、かなり精力的にNPOの記事を書いていますね。

柏木 NPOの紹介をいちばん包括的に出したのは、ネットワーカーズ会議の時に冊子を作って持って行ったんです。「アメリカのNPOシステム」というタイトルでした。その前に、日本でもメセナとかフィランソロピーが結構言われていたんですよ。私の問題意識としては、80年代の終わりぐらいから、アメリカに日本企業が大量に進出して来たけど、日本の企業は地域貢献をしないと問題にされていたことがあります。地域貢献をしないのはなぜかというと、わざわざ貢献したくないというのがあるにしても、アメリカだと80年代くらいになってくるとNPOと企業がコラボレートして何かするとか、あるいは企業がNPOにお金を出すとか寄付をするというような動きがだいぶ広がってきたのです。一つは80年代のレーガン時代に予算がバーッと削られてしまってNPOが財政的に厳しくなってしまった。だから企業にお金を出して貰うというかたちでアプローチして、企業の寄付活動が80年代にアメリカは伸びているわけですね。だけど日本の企業は日本でのそうした経験がないからそういうことをしない。それで現地で軋轢が起きてきて、ご存じかも知れないけど共同募金団体のユナイテッド・ウエイとかと日本の企業が組んで共同募金をするようになったのが80年代の終わりから90年代にかけて。そういう在米の日本企業のフィランソロピーの動きが広まったのですよ。

それで、日本の企業がアメリカに来てあれこれ問題を起こすというのは、もともとの原因は日本にある。日本の中でそういう経験をしていないから外へ出ておかしくなる。だからまず日本の本社から協力させにゃあかん、と。だけど日本の本社が協力するにしても、日本でそういうカウンター・パートナーがいなければ、「協力」って言っても、「くれ」とか「寄こせ」というところがなければ、企業だってなかなか「貰ってください」となることは考えにくいわけだから、(受け皿の)貰うところ取るところを育成しなくてはいけない。というところからNPOセクターの育成ということで、JPRNで戦略計画を作ったのは90年ぐらいだと思う。そのときの3本柱の中に日本のNPOセクターの強化、というのが入っていたのですよ。

辻 それはすごい、90年ですか。

柏木 90年か91年だったと思ったけれどね。日本の企業に対しての教育活動、今で言うとCSRの教育と、今言ったNPOセクターの強化と人権擁護の3本。ただ、あの頃ね、そうやってNPOセクターの強化と言ったというのはやっぱり、一応向こうだけで戦略計画を作って、向こうのコンサルタントがいてやったわけだから、そういう中でよくそんなものが出てきたな、と思う。そういう方針もあったし、NPOについて「どういう仕組みなんだ?」とか、当時で言うとトヨタ財団が少しずつ助成金を出し始めた時代だったけど、それに比べてアメリカの財団はかなり大きなお金が出てくる枠があったので、「どうしてそんなことができるんだ?」とかいうところに興味が移っていった。それで、アメリカのNPOを紹介する冊子を作ったり、それからこうしたGAINという形で3年間、NPOの紹介をするということをしていったのですよ。

そしてNPO法ができる段階においては、アメリカの制度の紹介をもう少ししていくとか、同時に日本から「見てみなくては分からん」ということで見に来る人たちにはコーディネートしたりとかしていった。今度は法律ができたときは運営するためにはどうするかというと、やはりマネジメントがなくてはいけないということで、NPOのマネジメントの研修プログラムを作るとかした。それが90年代の終わりから2000年の頭ですよね。だから私が最後にこちらへ来る直前はその辺の活動ですね。日本向けのNPOの経営、マネジメントですね。

成 日本のNPO団体に、具体的にどんなことを教えるんですか、ファンドレイジングとかですか。

柏木 いや、ファンドレイジングだけではなくて、大きくいうと、〝人〟〝金〟〝プラン〟とあるじゃないですか。人っていうのは要するにボランティアもいるわけじゃないですか。ボランティアというのはお金を貰わないわけですよ。それで企業のマネジメントだと一生懸命働けば給料を上げてあげるよ、という話になるけど、ボランティアのマネジメントでは給料を払わないわけだから、お金じゃインセンティブにならないでしょ。それならどうやるのか、とかね。ボランティアは自主的にやるのだから、来ても来なくてもいいのだみたいな話になっちゃうと、組織としては困るわけですよ。「今日、何時から何やるよ」って言っても誰も来ない、みんなボランティアだからというのでは困るわけで、それをどうやって調整するのかというのがある。もう一つの〝人〟で大事なのは理事会ですね。理事は企業だと取締役でペイドだけど、NPOはノンペイじゃないですか、まあ原則ね。ノンペイの理事がスタッフとかに対してちゃんと適切な指導ができるのかという話が出てくるわけです。そもそも理事と職員をどうやってすみ分けするのかとかいうのが、〝人〟の領域ですよね。

〝お金〟に関していえば行政資金、事業資金、寄付というのが大きな三つのリソースになるけれども、それぞれどうやって取ってくるとかマネージしているのか、ということがあるわけです。〝プラン〟については、90年ぐらいまではあまり企画ということを考えない人が多かったですね。今はお金取るには助成金でも企画書を書かなければいけないというので企画という考え方が出てきているでしょうけれども、当時は「俺の頭の中にある」みたいな、「どうせ、やってみにゃ分からん」というような発想が強いわけで(笑)。プランニングを経てというのが無かったわけじゃないですか。だから、やっぱりどうやって頭の中のアイデアを企画書に落としていくのかとか、予算というものをどうやって立てていくのか、それは企画力というかプランニングの問題ですね。あとまあ戦略計画というような発想もそうだし、評価とかいろいろあるわけであって、そういうものを総合的に理解していかないと、NPOの経営というものはなかなかうまくいかない。というようなわけで、それが今の仕事にも繋がっているという話ですよね。

辻 さっきの戦略計画にNPOセクターの強化というのが出て、ではどういうふうに具体的にやるのかというのがあるでしょう。それはどういうものだったのですか。日本のNPOセクターの強化について具体的にどんなことを考えたのですか。

柏木 日本のNPOセクターの強化にどういうことを考えたかという、その時の戦略計画の具体的な内容は今は憶えていないのではっきりは分からないけど、実際にやったことから言えば、一つは日本のNPOに対して情報提供でしょう。情報提供というのは当時では大きくいうと2つあって、一つは制度の紹介ですよね。つまりNPOというのはシステムに乗っかっているわけじゃないですか、法人格にしろ税制にしろ、制度に乗っかっているわけだから、純然とボランタリーな形でやっているというだけではないから、こういう仕組みがあって初めてこうできていますよ、という仕組みをちゃんと紹介しなければいけないというのがあると思うのですよ。

もう一つは、それによってどんな団体がどんな活動をやっているのかという、要するにロールモデルみたいなものがなければ、いくら形があると言っても内容や実態が伴っていないものには誰も興味を持たないからその実態を知らせる、というのが90年から90年代の半ば過ぎぐらいまでのことでしたね。90年代の後半になってNPO法ができてくると、運営の問題が出てくるからマネジメントが中心になるというふうな段階はあるけれども、いずれにせよ情報提供というのが主眼としてまず一方にあった。

もともと、GAINの発行資金をトヨタ財団から取ってきた岡部さんのコンセプトでは、いろいろな草の根運動を紹介したい、と。だから草の根運動を紹介するのはもちろん良いのだけれど、ただ運動だけが自律的にあるわけではなくて、運動の基礎には法人格とか税制とかあるいはマネジメントとか、そういうものが組み合わさってあるのだというコンセプトを打ち出していきたい、と。岡部さんもその辺は理解されていたと思うのだけれども。そういう考えがGAINの中にはある程度入っているような感じですよね。だから分野別情報みたいなものはいろんな細かいことを紹介してどんな実態があるのかとか、インパクトのあることをこんなにやっているとかいう情報を出していきたいとか考えていた。そうした部分で情報の提供と、あとは人の交流。日本から来て貰って、さっきの林さんなど生活クラブとか生活者ネットとかが一緒になってきて交流をした。あのとき何人ぐらい来たのかな、10人ぐらい来たのかな?

辻 そうですね。東京・生活者ネットの都議だった池田(敦子)さんとか、92年か93年ですね。

柏木 93年かな。そういう形で受け入れをして、アメリカのNPOはこんな活動がこんな形でできているというのを知っていって貰う、というのをやっていったわけですね。結構多く来たのは行政関係者とかシンクタンク。メディアも若干あったけれど、行政とかシンクタンクが目指しているのは法律ができそうだとか、シンクタンクの連中は役所から委託で仕事をとってきて、アメリカのNPO法人の制度というのを調べて帰る、と。そこでより適切な情報提供をすることによって、日本の政策形成に影響を与えることができるのではないか、というようなこともあって、シンクタンクとか研究者とかそういう人たち向けの調査の支援とかも結構していましたね。

その辺の情報提供を紙かインターネットでするか、あるいは人に来て見て貰うのか、というのはあったわけだけれど、90年代半ば以降、それがだんだん人材育成みたいな方向に徐々に変わってきて、形としては日本からインターンを受け入れるとか、あとは数日から1ヶ月ぐらいの研修として受け入れる、と。インターンの場合はその人の関心に合わせた個別の形になりますけど、研修の場合は一応メニューを決めておいてそれに沿ってやるという形ですよね。あとはアメリカから日本へ人を連れてきて紹介するという形です。そういうふうにやっていたという感じですね。

辻 具体的にそうしたことを紹介し始めたというのは、JPRNがかなり早かったと思いますね。

柏木 まあ、他にそういう団体や人を紹介できるところも無かったと思うのですよ。私は70年代の終わりから向こうでいろんなことをやっていたし、気がつけばNPOだったというわけですよね。まあ石さんなんかも同じようなところがあって、別にNPOだと意識してその中にいたわけではないけれど、気がつけばNPOだからお金を貰って活動ができていたのだ、とかね。逆に日本はそれが無かったことに気づいて、それを日本に紹介する必要があるのではないかという形になっていったと思う。だからそれは日本のニーズが80年代の終わりから出てきたときに、我々として見るとその前の10年ぐらいに個人的にやっていた経験とか、JPRNの中でたまたまやっていた経験があった。それプラス、80年代後半の日本の企業へのフィランソロピー活動・社会貢献の不足、CSRの不足ということに対しての問題とか、活動の裏返しとして日本のNPOセクターの強化の必要性というのがテーマとしてあったので、その辺がある程度くっつけながらやっていた、という感じです。

 

辻 東京ランポの研究会が93年2月スタートですから、確か4月ごろに柏木さんに来て貰って、それで松原さんと出会う。

柏木 ランポの研究会っていうのは、中村(陽一)さんがコーディネートでしたか。

辻 中村さんは生活クラブの中ではその前からNPOみたいなことを研究していたのですが、研究会には入っていない。世田谷の赤堤の事務所で、3階に中村さんがいて『社会運動』の編集をやっていて、2階に僕らがいた。

柏木 中村さんはたしか、山岸さんがアメリカに来たときに一緒に来たんじゃないかな。

辻 そうかも知れない。ランポの研究会を立ちあげる打ち合わせのときには、中村さんもいたと思う。そこでたしか林和孝さんと意見が合わず離れている。うちは林さんの肝いりで作ることにしたのが2月かな。その頃に松原さんが僕たちの情報公開法を求める市民運動の研究会にひょっこり現れて、「自分はNPO法を作りたくて、立法運動をやろうとしているところを探しているんだ」と言うので、「実は立法の研究会を立ち上げるんだ」って言ったら、来たんですよ。それでその研究会へ柏木さんに声をかけたでしょ。それから学者さんは都留文化大の寺田(良一)さんとか、中央大の広岡守穂さんとか声かけたんですよ。

柏木 93年というと、これ(GAIN)を始めた頃だよね。私はたしか90年だか91年だかに久しぶりに帰って。それまでは、82年に行ってから80年代は一度も帰ってなかったですよ。この辺のときは、年に4~5回行ったり来たりしていました。

辻 須田(春海)さんのところ(市民運動全国センター)に事務所を構えたのはいつごろですか。93年の秋ごろかな、平河町の木造2階建ての階段を上がった踊り場の所に机を置いて、柏木さんが椅子に座っていた姿をはっきり覚えているんですよ。

柏木 1992年ですね。元もとは岡部さんのお家を事務所にしていたんだけど。あるいは山本美知子の家かどっちかだったのかもしれないけどね。こうした個人の家ではない事務所としては、平河町が最初だった。平河町の事務所を紹介してくれたのは山岸さんだよ。

辻 我々もよく須田さんのところで郵便料金の話し合いやっていたから。平河町の後、シーズを設立して飯田橋に事務所を構えたときに、柏木さんたちと事務所をシェアしたわけだから。93年の秋ぐらいでしたよね。郵便料金の改訂があって第三種扱いが厳しくなるというので、消費者団体なんか戦々恐々になって、日消連なんか消費者レポートを1万部ぐらい出すので大変だっていう話で、当時の公明党の郵政大臣に主婦連と一緒に会いに行ったりしていた。年明けてから松原さんと港区の郵便局でアメリカのようなダイレクトメールみたいなものをいろんな工夫して、折りたたむとかそういうことでできるとかいうのがあって、いわゆる封筒に入れないものを持ち込んで実験した記憶がありますよ。

柏木 アメリカだとこうやって三つ折とか二つ折りにして、切手を貼って出しちゃうというのがある。国際便は封筒に入れないといけなかったと思うけど、封筒に入れて日本のプログラムの案内をアメリカから日本へ出した記憶がある。アメリカから出すと50セントぐらいかな、日本から出すよりもえらく安く出せる。

辻 それを柏木さんに聞いたので実験したのですよ。「たしかにアイデアは良いのだけれど機械が受け付けないので困ります」みたいに言われて、じゃあ実験しましょうというわけで、500ぐらい作って港郵便局へ持ち込んでやったんですよ、4人ぐらいで。郵便料金の割引について、たしかあの当時、アメリカでは法人格をもっていなくてもできるみたいなこと言ってましたよね。

柏木 アメリカは法人格とらないで、税制優遇だけとることができるのです。税制優遇がないと郵便料金の割引はできないので、だから答えとしては法人格なくても取れるということです。今は、郵便で出してアウトリーチということは減っていると思う。ただ郵便料金の値上げのときに私が言ったのは、結局アメリカではバルクメールで出せば、日本の10分の1ぐらいで済んじゃうわけですよ。そうするとやはり10倍の人に声をかけることができるわけね。だけど日本の人はどうしても寄付を求めるにしても、リターンしてくれそうな人にしか声をかけないわけよ。ところがアメリカだったら10倍だから、確率の低い人たちも含めて出せるというわけで、そういうことが活動を広げていく基盤になるわけですよね。

でも今はインターネットで同じじゃないかとか言っても、ただインターネットもどこかでアクセスがないかぎり繋がらないわけです。今まで関係があった人たちのメルアドを集めて送るというようなことでは、やはりアウトリーチに限りがあるよね。インターネットへのアクセシビリティとかもいろいろ違いがあったりするわけです。その辺でいかに広げていけるようなデータベースなどを作っていくのか難しい問題だと思いますよ。なかなか日本の場合、その辺が十分できているとは思いにくいところがありますよね。

 

原田 このGAINが発行され、こういう形で情報提供をされていたのは、93年から95年ぐらいまでですか。

柏木 たぶん93年の3月から96年までの3年間だと思いますね。

原田 そのころGAINはどういう形で発行していたのですか。

柏木 これはアメリカで作って、もともとのコンセプトとしては電子版と紙版ということで考えていた。電子版は岡部さんがやりたがっていたので。でも電子媒体はそれほど日本にニーズがあるかというので止めてしまって、紙媒体を定期購読してもらって、あとはわれわれが来たときに売ったりとか、そういう方法で配っていたという感じです。刷っていたのは500部ぐらいのものですよ。(最初の2年間はトヨタ財団、その後の1年はリーバイスの)助成金でやっていたので、その枠内でぎりぎりできるようなことだったのでね。年に6回でしょ、1回30万円ぐらいで作っていたと。

辻 もっぱら日本向けで、英語版というのはないですよね。

柏木 これは基本的に日本向けです。英語版はないです。我々としては、JPRNという団体がアメリカのNPOとか運動の情報を持って提供できるようなキャパをもっている団体であることを示したいとか、あとは内容に興味を持っている人たちを繋げていきたいとかいうようなことが念頭にあったので。もともと、あの時代でこういうものが何万部売れるとかいうようなことは当然ないだろうからね。そういう発想でいましたけどね。これはまだワープロで作っていた時代ですよ。ただ、途中からコンピュータで作るようになった。まあ、私らはちょっとローテクだったので、ワープロのほうが楽だったのですよ。岡部さんなんかはコンピュータの方が好きなんだろうけど、岡部さんは原稿を貰ってこっちで作るのがちょっと難しいので。そのうち、現在、日本NPOセンター常務理事の(今田)克司とか入ってくると、彼がコンピュータ好きでね、マックで編集するようになりました。

原田 NPOの立法化が本格化するのが95年の阪神大震災以降で、自社さや新進党だったり、シーズだったりいろんな市民団体が出てくると思うのですが、立法化へ動き出してからは柏木さんはどういう形で関わっていかれたのですか。

柏木 立法過程に関わるというより、どちらかと言えばそれ以前ですね。私の関わり方はね。立法過程が始まってしまうと、私はアメリカに居たわけなので、そうすると、シーズの人が個別に議員に会いに行ったりとかいうようなことに、私はアメリカからそのためにわざわざ来るということにはならないので。要するにそれ以前に、制度はどうなっているかとか、さっき言ったような法人化をするためにこういうプロセスができていますよとか、税制優遇はこう取っていますよというようなことを紹介することとか。実際そういう制度を使った上で活動していますよということを紹介したりとかしていましたね。

法人化が始まっているプロセスの中で、強いて言うならばシンクタンクとか行政の人とか研究者、メディア、市民活動の人もいましたけれど、アメリカの制度は実際どうなっているのかを直接来て調査をして帰りたいというようなところが結構出てきたわけですよね。だからそういう人たち向けの調査のコーディネーションみたいな形はずいぶんやっていましたね。だから向こうのIRS(内国歳入庁)に行ったりカリフォルニア州の機関に行ったりとかいうのは結構していました。

この頃、私が辻さんとか松原さんと歩いていたのは主に人の勧誘ですよ。だからJANICの伊藤(道雄)さんとか、あるいは「(シーズをつくったから)お金をくれ」って言いに行ったりとか。そういうのはあったけれども、あんまり立法化の要請のことでは歩いた記憶はないな。ただ、平河町の事務所は座敷の会議の場所があったから、私が時間のあるときは、郵便料金の話をしたかもしれないね。

辻 たしかうちの研究会で柏木さんに2回ぐらい話をしてもらっていますね。アメリカの制度とか501-c3のこととか郵便料金の話とか聞いています。僕らもアメリカの税制が体系的に紹介されていなかったから、よく分からなかったからね。

柏木 例えばあの頃、朝日大学の石村(耕治)さんとか、税制を調べている人はいるわけよ。でも実際に実務レベルで使ってやっている人はいなかったから。「バルクメールとか言われてもなんだかよう分からん」みたいな話になっちゃうわけでしょう。こっちはあんまり細かいこととか、体系的にどうかというのは知らんでも、実際にバルクメールは郵便局へ行って貰ってきて、1年に1回でいいとか、いくらでできるとかいうのは分かるわけであって、その辺のプラクティカルなことは実際向こうでやっていたから、そういう情報もやはり欲しかったというのもあるよね。

辻 あとは、アメリカのNPOが州法で決められていて、それがほとんど厳正な監視はされず事後チェックスタイルでとか、日本と真逆だね、という話をしていましたね。それでやっていけるんだ、と。日本は、監視しないと悪用するやつがいっぱい出てくる、そういうのはどうするんだとかいう話が必ず出てくるから。

柏木 あと、公益という考え方にしても、パブリック・サポートテストみたいな考え方というのは日本では無かったでしょ。要するに寄付が一定割合あればそれで公益が担保されるのだ、みたいな考え方ですよね。誰が公益と判断するのかといえば、それはまた結構難しい問題が出てくるのだけれども、この事業に対して本来100円かかるところを、30円誰かが出してくれるのだったら何かそういうふうにする意味があるだろうから、単純にそれでパブリック・サポートテストを満たしたとして、公益と認定して寄付控除にできたらいいんじゃないかなという発想は、日本の人たちはほとんど持っていなかったわけであって。であるからゆえに、われわれは必要以上に収益事業に走ったりしないとかいう形を主張していたということですね。

辻 1994年の4月23日、最初のシンポジウムのとき、柏木さんはパネリストで出ましたね。あのときは東京ランポの試案を林さんが話して、山岡さんがNIRAの報告書を話した。その午前中のフォーラムにアメリカからシャロン・ビハールという女性を呼んでフォーラムをしている。

柏木 NPOのコンサルをやっていた人だったと思うね。環境系でしたからリチャード・フォレストの紹介で呼んだんだ。リチャードはWWF(全米野生生物連盟)の日本支部ですよ。支部というほど機能していたかどうかは知らないけど、日本でWWFの活動をやっているというふうには聞いていたけどね。海外から日本へ来て活動しているNGOで20から30ぐらいの団体が集まって日本政府に提言したことがあったでしょう。たぶん90年代半ばだったと思うけど。海外から来た連中がやりにくくて困るとか、そんなようなことを提言したことがあるんですよ。リチャードなんかにしてみれば、学生の間はいいよ。でも仕事としてくると、法人化していなかったら滞在の受け皿となる団体の信用がないでしょ。だから短期的に商用で来るならいいかも知れないけど、ある程度の期間になるといられないとかいうような話があった。そんなような問題とか、あと日本の市民運動っていうのはほとんどボランティアでやっているけれど、諸外国はやはりいろいろな制度の中でやっていて、その格差が大きすぎてうまく市民間の連携なんかもできない、みたいなことを言っていてね。あれどこがやったのだったかな、よく憶えていないけれども90年代の半ば頃にそんな提言をだしていたよ。

辻 93年6月に東京サミットがあって、それでもう一つのサミットということで「TOES」というのがあった。要するにサミットに対してNGO系でサミットをやって、本物のサミットにいろいろ提言してロビーイングなんかやるんですけど。それを今度日本でやるから、ランポで事務局をやれと、須田さんなどから言われて受けたのですよ。私は英語ができないので、伊庭さんという女性がついてくれて、彼女は有名なインドのNGOのバンダナ・シーバ女史などをよく知っていて、そのときに地球の友とか、日本にいる環境系関係者を集めた。それでランポは、環境系のNGOに付き合いができたんですよ。それでたぶん、リチャードとか地球の友も付き合いが始まったんですよ。環境系はやっぱり動いていたのかな、いろいろとね。

柏木 環境と言ってもローカルでやっている連中は別ですが、どうしても海外との交流ってあるじゃないですか。そうすると一定程度意識を持つっていうのがあると思うね。

辻 この間、堂本暁子さんにヒアリングをしたのです。そうしたらJVCの岩崎(駿介)さんがかなり早くから法人化のことを言っていて、海外へ行ってはそういう話をしていて、それを引き継ぐ形で堂本さんがリオの環境サミットへ行ったという話をしていましたね。やっぱり92年なんですね、いろいろと日本の環境系が動き始めたのはね。それでJVC系で岩崎さんはじめ動いていたのですね。だからシーズを作ったときも、JVCは有力なメンバーでした。意外とリチャード・フォレストなんかキーパーソンだったんだな。

原田 法人化のプロセスの中で、条文をめぐっていろいろ争われて、それによってかなり日本のNPOの規定みたいのが動いていたと思うのですが、そのとき柏木さんはアメリカから見て、日本のプロセスはどういうふうに映っていたんですか。

柏木 私は率直に言えば、日本で現実的にはああいうふうな法律にならざるをえないというのは理解できないわけではなかったけれどもね。ただ、例えば社員が10人必要であるとかいったことについて、そもそもアメリカの場合、法人化にするというのはほとんど名前を書いて出すぐらいのことですよね。日本の場合は、法人化自体アメリカで税制優遇をとるぐらいの高いハードルがあるわけで、少なくともアメリカでは定款なんて必要無いし、事業計画とか予算計画も必要ないしという話なので、そういう点でかなりハードルが高いわけですよ。

そうすると、NPOはオーガナイゼーションだから、組織だから定款があって当たり前だろうとか、計画もなくてオーガナイゼーションは運営できないのだから、あって当たり前だろうというのは、分からないわけではないけど。結局そういう言い方をすると、組織の運営に対してのウエイトが大きくなってしまって、運営力のある人の方が、問題意識を持っている人よりも発言力が強くなってしまう、というようなこともありうる、とかいうようなことも含めて、そもそも団体なんていうのは自由にできていいだろうし、とかいうことは思っていましたよね。だから、いつだったか忘れたけれど草案みたいなものができたときに、それに対してのコメントをシーズに送った。それはたぶん最後だったんじゃないかな、直接的に意見を言うのはね。あとは、アメリカに来て自分たちで直接見たいとか、法律ができてくると法律に基づいて運営していく上でどういった運営の仕方が必要か、マネジメントの研修がほしいとか、私もアメリカに居てそういうのに対応するのが忙しくなってそれ以上の関わりはなかったですけどね。

やはりその当時から思っていたのは、日本の人たちが持っている組織とかいうことに対するイメージと、私らとやっぱり違いがあると。認証にしろ税制優遇の取り方、仕組みにしろ、そもそもその発想の違いというのが結構あって、形は似たような感じなのだけど、そこに入っている考え方がずいぶん違う。税制優遇でも、IRSの人に話を聞くと、「それは基本的にタクスペイヤーに対するサービスなんですよ。タクスペイヤーがいろいろやるわけだから、運営に対してお手伝いをするサービスだ」と。そういうふうなスタンスでは、日本の税務当局は見ていないのですよね。日本では税制優遇というのは、何か特殊なことをやって特に認められて、社会のため世のためにするのをちゃんと間違いなく行われているか見ておかなければならない、みたいな発想が、強く伝統的にあると思うのですよ。納税者・市民に対してのサービスとして税制優遇をしますよとは、たぶん言わないと思うのだけど。やっぱり感覚の違いというのはあったと思いますね。

もう一つ考え方が違うというと、日本はどうしてもトップダウンですね。まあ、別にやっちゃいかんというわけじゃないけれども、会計基準というのにしても、本当に必要なのかな、と。そりゃ議論はあると思うんですよ、今の日本の状況からいえば作った方が良いというのを確かに否定できないところもあるんだけれども。ちょっと最近変わってきたけれども、アメリカだと年間予算が25,000ドル以下のところは前は税務報告はいらなかったじゃないですか。今はイージー・フォームっていう形で、単純な形で出せっていうふうに変わってきた。だけれども、やっぱりああやって出されてくるような会計基準というのに準拠してやっていくことになると、そもそも「活動したい、何か問題があってそれを何とかしていきたい」というところでスタートする人の感覚と、アカウンタビリティとかマネジメントとかいうものを持つ発想とズレがあるわけですよね。活動する上で、そのマネジメントが必要だとかアカウンタビリティが必要だと理解して、そこに入ってそういうことを学んでいこうというのならいいかもしれないけど、最初にハードルが設けられちゃうでしょ、敷居が高くなっちゃうんですよ。敷居が高くなっちゃうとね、「そんなことまで、ようせんわ」っていう感じになってしまう。

アメリカでも最初にこちらへマネジメントを紹介することもあって、向こうのサポートセンターへセミナーをいくつか聞きにいって、NPOの作り方というセミナーを受けたときに「NPOを作ろうと思っている人?」「はーい」みたいに言っていて、「NPOを作ると何か良いことありますか?大変なことばっかりですよ、作ったあとでいろいろ報告もしなければならないし、それでもやるんですか?」みたいなことを言っていましたけどね。だけど、ある程度システムがあったりしても、アメリカなんか比較的簡単な会計報告にしても、それをしていくのが負担になるということはあるわけですよ。だから、タイズセンターみたいなところに任せちゃうという発想も出てくるわけだけど、タイズの考え方は「そういうのは我々がやるから、あなた方は活動に集中しなさいよ」というのがあるわけ、その代わりに収入の10%程度をよこせっていう話になるけどね。やっぱり負担は負担になるわけですよ。「こんなことまでいちいちしていなくちゃならないのか」というところで、活動することは生き甲斐を持って使命を持ってやっていたとしても、年度末になると「また、こんなことやらなくちゃいけない」とかいうことによって、やる気を削がれちゃう。そういうふうなことを押しつけてしまうような可能性があるんじゃないかという気はしましたよね。

辻 ずっと前からそういう話がありますよね。

柏木 確か2004年に、大阪でNPO法人の認証取消しが相次いで、そのときにアンケートをとって調査したのです。そのときに小さい団体は、やはりアメリカのように報告義務がなくてもいいのではないか、と思っている意見が多かったですよ。大きな団体はやるべきだという考え方が多くて、やはりそういうような違いもあるわけですね。だから実際の制度作りをやってきた立場から言えば、行政とこうやったり説明をしたりとかしながらやっているから、どうしてもこうやらざるを得ないということを意識してそういう発想になってくることは分からないわけではない。でも一方、そもそも誰のためにやろうとしているのかと言えば、とにかくやってみたいというような人たちのために必ずしもなっているのかどうだろうかっていうと、結構クエスチョンがある部分もある。活動をやり始めたばかりの人たちだってそのうち大きくなっていくこともあるわけだし、こういう制度があったからやり易いということもまたあるだろうから、一概には言えないだろうけれどもね。でも、なかなか報告もきちっと出せない団体もたくさんあるじゃないですか。だから今NPO法人が4万いくつとか言っても、どれだけ実際に報告したりして活動ができているのかというと、心もとないところがあるわけです。今の報告というのは別に会計制度に則っていなくてもいいわけでしょ。だけどそれは非常にアバウトなお小遣い帳みたいなものでいい筈なんだけど、それすらも「ようせんわ」というところがやっぱりたくさんあるわけであって、そういうところを含めてNPOというのであるとするならば、その人たちに対してどういうふうに対応していくのかということを考えていないとまずいかなと思う。結局それが新陳代謝を生んでいくことになるのではないか。

最初から誰しも別に東大に入っているわけではなくて、生まれたら幼稚園行って小学校、中学校行ってから、一生懸命勉強すれば東大入れるのかも知れないけど、生まれて最初から「あんた試験できなかったら東大へ入れないよ」って言われたら、そりゃ困るじゃない。幼稚園のころは幼稚園児として将来希望を持てるようなレベルじゃないとね。幼稚園の子にお受験みたいなことをさせても仕方ないじゃないかなと思うのですよ。だからその辺のバランスみたいなことと、そういうような考え方が、NPOをやっている人たちの中でどれだけシェアされているのか気になるところですね。

成 それに関連して、昨年NPO法の改正があって、寄付税制も改正されましたが、アメリカと比較してどう見ておられますか。今回の改正で日本もアメリカに近づいたのですか。

柏木 近づいたと言えばそうかもしれない。例えば制度でいえば、日本のNPO法人制度にしろ、認定NPO法人の認定の仕方にしろ、かなりアメリカに近いような外形は呈していますよね。ただ少なくとも税制度でいえばアメリカの場合は同じパブリック・サポートテストという言葉を使いながらもはるかに楽に取れるわけであって、日本はまだ200数十団体でしょ。それで今回、法がまたゆるやかになったと言っているけれど、大阪府とか大阪市とか聞いてみても、「いろいろ問い合わせがあっても、実際に聞いてみると取れそうなところはほとんどない」といわれる。

成 3,000円で100人集めれば認定されるとかありますけども。

柏木 いや、3,000円で100人だけではなくて、他にいろいろなことが、たくさんの書類をそろえるとか出てくるから。必ずしもそう単純ではないということであって。だからやっぱり、「鶏が先か卵が先か」じゃないけど、寄付控除もないのに寄付を集めろというのはそもそも無理なわけで。まあ基本的な発想としては、その団体が公益性、すなわちグラスルーツに対するサービスであるということが担保されるというのであれば、原則として出すというのがまず最初にあるべきであって、出したあとにいろんな問題をチェックするのはいいのだけれども。出す段階であまり高いハードルを、低いつもりなのかも知れないけど、ハードルを課してしまうと、非常に難しいですよね。始まったばかりだから今度の制度が運用上どうなるかは分からないけれども、私が関わっている団体で税制優遇を取ろうとしたら、やっぱり過去の経理まで書類にして出さないといけないとなると、そんなことまでやっていられる団体がいくつあるかっていう話ですよね。だからある程度の規模で1億円のお金があるから、予算があるからそのくらいの投資をしてもいいというのなら別だけど、1,000万や2,000万、あるいは数100万でやっている団体が、そんなこまごましたことまでやらなくてはいけないと言われた場合に、「それならがんばってやります」となるかという話ですよね。そこら辺がすごく難しいかなと思いますよね。

あと、もう一つは、寄付を受けていない団体が半分ぐらいある。もっとあるかもしれない。だから、そもそもNPOに寄付が必要だというふうに当事者は考えているかどうかというのがある。NPOが、なぜ企業と違うか行政と違うかといったときに、やっぱりそのあり方ですよ。やっぱり経営の仕方が、企業であればお客さんに向かってお客さんが買った物に対価をもらう。行政であれば地域に住んでいる人からお金を税金というかたちで取って地域へ返すでしょう。NPOの場合はお客さんから対価を取るかもしれないけど全額ではない。第三者から取る。それによってお客さんの課題を第三者を巻き込んでその課題を社会化していく、というところに重要な点があるので、だとすれば、それは寄付とかボランティアという形になるわけだから、それをプロモートするような仕組みを出していかなければならないわけで、そうするとはじめて企業との違いがでてくる。

例えば企業の介護とNPOの介護とどこが違うかっていう話があるわけだけど、それは企業は究極的には株主のため、つまり利益をあげるためっていう言い方があるわけだけど、まあ露骨にそうは言わないけれど。NPOは介護というのを企業と同じようにやるのではなくて、ボランティアを入れるとか寄付を入れることによって、今介護を受けていない人がその課題を共有化していく、と。そういうような関係性を作り出していくというところにNPOの重要性があると思うのですね。そのためにやはり寄付とかボランティアということに対してもう少し積極的な措置を講じることが大事じゃないかなというのが、ずっと私自身が思っていることです。まあそうは言っても寄付とか、名前を出してくれたら寄付をやるよとか、いろんな誘因があるからそれだけが全てではないのだけれど、ボトムラインとして「なぜわざわざNPOでなくてはならないのか」といった場合に、どこが企業と違うのか行政と違うのかと言った場合に、やはりそこが大きいと思うのですよ。そこがあまり意識されていないで、日本の場合良い面もあるのだけれど、社会的企業とか、コミュニティビジネスとか、そういう言い方になってしまって、いつのまにか社会性が付与されていれば営利・非営利も関係なくなってしまうような話になっていってしまう。でもそうではないと思うのですよね。

成 社会性の部分と違う軸があるということですか。

柏木 社会性があるといえばさっき言った介護だって社会性はあるわけだし、環境ビジネスだってあるわけですよ。だけどそこである課題を、介護だって本人・家族とプロバイダーの関係で完結してしまうでしょう。それが広がるという話にはならないけれど。NPOはそれを広げるという話でしょう。行政の場合はどっちかというと任せちゃうんですよね。行政にお任せになって、その中で完結してしまう。広がりを作るのではない。そこはやはりNPOがね、違う社会のあり方を作るというか、そういう理念をもっているのは、そこじゃないかと、私は思っているのですよ。だから税制優遇というのは大事じゃないか。要するに税制優遇というのは寄付したら控除されるというのではなくて、それを誘因にしながらその課題を共有化させるような関係性をつくるというところに税制優遇のもっている意味があるのではないか、というふうに個人的には思っている。

成 例えばアメリカの場合は、何か受益者だけではなくてお金をも巻き込めるような仕組みや措置があるのですか。

柏木 仕組みっていうか、意識の違いというのが大きいのではないですかね。これはまあ必ずしもリベラルとは限らないけど、ティーパーティーに関わっている人たちにしても、オバマの医療制度改革というのは批判しますよね。あれは誤解されている部分も大きいとは思う。やはり自分たちが助けていくのがいいと。でも政府に全部もっていって、そこから問題があれば政府に同じように対応させられてしまうのはよくない、というふうな考え方はありますよね。それは自分たちで問題解決に関わっていくべきだし、関わっていきたい、いかなくてはいけないというという意識を常に作り出していくとか再生産していくとかいう考え方が強いと思うのですよ。アメリカの中で生きている人たちにはね。強いと思いますね。ティーパーティーとハシズム(日本維新の会の橋本徹・大阪市長を揶揄する表現)がどう違うか、なんていうのはやはりそこなんですよ。それで非常に違うのは、ハシズムっていうのは、ほとんどの人がお金をだしているわけでもボランティアをしているわけでもないのですよ、後ろの方では「やれやれ」って言っているだけなんですよ。だけどティーパーティーっていうのは、自分でお金も出し時間も出して自分が働きかけをしてやっているわけですよ。それはやはり大きな違いとしてあるのじゃないかな。やっぱり、自分たちが関わることでチェンジしていこうという発想があって、日本のハシズムはそうじゃなくて、もう任せてしまおうという話でしかないので、それはやはり受動的な発想なんですよね。

やっぱり能動性。ティーパーティーを支援するわけではないけれども、やはり自分たちはおかしいと思ったことを自分たちで動いて変えていこうという意識が見られるわけだし。去年はやったウォール街占拠運動とかあるじゃないですか、「あかんと思ったらやっていこう」とか。日本の場合は、「やんないのかしら、あんたやれ、あんたやれ」って言っているわりにはね。それも表だって言っているわけじゃなくて、なんか知らないけどそういうのをみんなが言っているんだ、思っているんだ、と言っているだけでね。世論調査だけの数字でみんな決まっているみたいなね。主体性がないっていうことですよ。だからそういう点で自分の問題としてやっていこうとか、自分たちが主体的にやっていこうといった思想、発想が非常に少ないと思います。

辻・成・原田 ありがとうございました。