NPO法制定過程における経済界とりわけ経団連の動きについて、経団連1%クラブ事務局長の安斎洋一氏、明治生命社会貢献部長および経団連社会貢献委員会の青木利元氏へ座談会形式のヒアリングを実施した。(司会:山岡義典、進行:辻利夫、記録:辻利夫・原田峻)。 *いずれも肩書きは当時

  • 日時:2011年7月22日(月)18:00~20:00
  • 場所:日本NPOセンター
  • パネリスト:
    安斎 洋一(元 経団連1%クラブ事務局長)
    青木 利元(元 経団連社会貢献委員会)
  • 司会:山岡 義典(日本NPOセンター代表理事)
  • 進行:辻 利夫(まちぽっと事務局長)
  • 記録:長島 怜央・原田 峻・平野 泉・三原 正太郎・渡部 克哉

 

 

インタビュー本編

(諸事情により青木氏が遅れたため、安斎氏のみで座談会開始。)

 

山岡 お手元の資料のなかに、「経済団体連合会1%クラブ事務局長 安斎洋一」という名前で松原さんに宛てた招聘状があります[1]。日付は1997年9月19日、ちょうど衆議院から回ってきた市民活動促進法が参議院でストップしかかっている頃に、いろいろ活躍していただいた時期に行われたものだと思います。経団連自身が、社会貢献委員会を立ち上げたのが1990年で、1%クラブがそのあとだったのでしょうか?

安斎 私は2000年まで経団連に勤めておりまして、辞めてからもう随分経つんですけども、1991年にたまたま、初代の社会貢献部長[2]を仰せつかりました。経団連には1990年に、社会貢献推進委員会[3]と、そのあと1%クラブも発足しました。社会貢献推進委員長は初代が武田薬品の梅本(純正)さん、二代目が日本IBMの椎名(武雄)さんで、私は両方の委員長にお仕えしました。1%クラブは、最初に会長をお願いしたのが若原(泰之)さん。西口(徹)さんが、主に事務局の責任者として、1%クラブのことを若原さんのもとでやっておられた方です。経団連では、亡くなられた田代(正美)さんと、田中康文君が、主に関係方面に動いてやってくれたということですね。阪神大震災のときは、特に田代さんが飛び回っていました。田中さんも、(ナホトカ号の)重油流出事故のときに、現地で情報を集めていました。

NPO法成立にからんだのは、社会貢献推進委員会や1%クラブを中心にいろんな方にお話聞いたり、情報を集めたり、その中で働きかけも必要だということで、若原さんにずいぶん積極的に動いていただきましたね。国会で議論している過程でも、ぜひ正しい方向で法案が成立するように、若原さんに前面に出てもらって。私も印象的に覚えているのは、当時自民党の村上正邦さんという大先生がおられて、その先生に対して若原さんも国会のほうに出向いていって、面会した上で働きかけをされていた。私らも事務方としてくっついて行って、田中さんもそのとき一緒に行ったと思います。それからシーズの松原さんも動いてくれて、田中さんが松原さんと一緒に組んで関係の議員の先生のところへあちこち回ったのを覚えております。堂本先生の、議員会館のお部屋にお邪魔したりですね。そうやって、関係方面の方々の一致したパワーで法案が成立した、というような流れだったように記憶しておりますね。

山岡 当時の1%クラブと社会貢献推進委員会の役割としては、たまたま1%クラブ会長の若原さんが熱心に動いて下さったということで、1%クラブが中心となっていたということでしょうか?

安斎 若原さんも比較的よく動いて下さる方でしたので、事務局でも、影響力のある方に前面に出ていただくようにお願いして、そういう流れになったということだと思います。ここの資料[4]にも出ている山本正さんとか、昔からNPO・NGOの問題を含めて幅広く市民社会の形成ということに指導的な発言をされてきたような方々も、このNPO法のときはそちらの立場から推進していただいていたので、経団連としてもそういう状況をできるだけ掴んでおこうということで、1%クラブや社会貢献推進委員会の場にお招きして話をお聞きしたと。山岡さんにも何回もご登場いただいたのをよく覚えております。

山岡 そう、何回かね。この資料にある97年9月25日の世話人会の記憶ありますか。

安斎 そうですね、パレスホテルで朝食会のスタイルでやって、1%クラブの世話人の方々も当時の各界の企業トップの方ですからお忙しいんですけど、まあ比較的よく出ていただいたほうじゃないかと思います。状況はご説明して、それで推進する上でやはり大きな力になっていただいたということですね。松原さんもずいぶんご登場いただいて、その都度こういう段階にあるということを、説明を受けた記憶がありますね。

山岡 資料に、世話人会の前日に社会本部の名前で「NPO法案について」という文書がありますけども、これは安斎さんが関わられて作られたのですか。

安斎 そうですね、97年ですから。私は98年4月まで社会貢献本部におりまして、その後、「事業本部」というところに異動したんです。

山岡 ではNPO法が成立した後ということですね。成立まではずっと社会貢献本部にいらっしゃったと。

安斎 ええ、そうです。ですから7、8年、その関係の分野の仕事を事務局では担当していたということです。この文書は97年の9月ですから、まだ私がいた頃ですね。

山岡 この文書に書かれた、「経団連では、『魅力ある日本の創造』において、市民活動をはじめとするNPOの社会的基盤整備をうたい、議員立法によるNPO法の法制化を支持している」という現状認識は、経団連内部では基本的なものとして認められていたんですか。

安斎 ええ、「魅力ある日本の創造」は、このときの豊田(章一郎)会長が作った経団連のひとつの考え方ですけれども[5]。社会貢献推進委員会や1%クラブの普段の活動を通じて、経団連としてもこれからは市民社会・市民活動が魅力ある日本を創っていくうえで重要だという認識を、できるだけ共通認識として持とうということで、そういうつながりでやはりNPO法の成立にも経団連なりに推進役を担おうということだったかと思いますね。

山岡 同じ文書に、「(社会貢献推進委員会の)今後の対応については、委員長と各専門部会が協議のうえ決定する」とありますが、この「専門部会」というのは?

安斎 社会貢献推進委員会の中に分科会的に一つ、普段議論する場として企業の社会貢献担当者の集まりのようなものがあったんですね。座長を島田京子さんとか、アサヒビールの加藤種男さんとか、いろんな方にお願いして。ああいう論客である方も何人かいて、そういったところでもNPO法の問題はヒアリングしたり議論したと思います。経団連の中で、社会貢献推進委員会あるいは1%クラブ以外の場では、特に常設の委員会があって議論したということではなかったと思うんですね。経団連の関係で常設の委員会というと、主に経済・産業・科学技術とかエネルギーとか商法だとか法律の問題とかかなり多岐にわたるんですけども、このNPO関連の問題は、主に社会貢献推進委員会が中心になって、あるいは1%クラブが中心になって推進していったということですね。

山岡 青木さんは何かの委員会の座長か何かをしていらしたんですか。

安斎 青木さんにもずいぶん社会貢献推進委員会や1%クラブでご活躍いただいたのですが、特に明治生命の社会貢献担当の責任者という立場で、経団連という場に登場いただきました。当時はまだ創生期というか、その代わり勢いはかなりあったように記憶していますが、各企業が社会貢献に対する取り組みをお互いに「この会社はどうしているんだろうか」「あの会社はどうしているんだろうか」と非常に関心が高かったんです。ですから経団連が音頭を取って、当時富士の御殿場の近くにゲストハウスがあって、そこへ毎年集まっていただいて、そこでも議論していました。山岡さんにも来ていただいたことがあると思いますね。

山岡 ぼくも1回か2回か、御殿場に行きました。

安斎 ええ、それで恒例になって、毎回フォーラムを開いていたんですが、青木さんはそういう形でかなりアクティブなメンバーの1人でありましたね。

山岡 田代(正美)さんがある時期まで社会貢献課長としてご活躍されて、ある時期から経済広報センターに移られましたね。あれはいつだったでしょうか。

安斎 阪神大震災のときは当然いましたから、96年か97年かもしれませんね。田中さんは震災の後から加わって、彼は田代さんが離れたあともやっていたと思います。

山岡 長沢(恵美子)さんも震災の頃から現地に行っていましたね。

安斎 長沢さんも長いこと熱心にやってくれましたので、社会貢献分野の担当だった期間は長いですね。この分野は、女性が活躍しているという印象がありましたね。各企業でも、日産の島田さんや、花王の嶋田(実名子)さんも社会貢献の立場でずいぶん長いですものね。企業では、アサヒビールは加藤さんが専門部会の座長をやってくれて、樋口(廣太郎)さんも1%クラブの世話人をやっていただいて。あと、安田火災の後藤(康男)さんとかもご熱心で、後藤さんは特に自然保護基金でもずいぶんご尽力いただいています。日本生命の伊藤(助成)さんも、その後社会貢献委員会の委員長になっていただいたことが確かあったと思いますね。日本生命は植樹運動で有名になりましたけど、それは伊藤さんがけっこう熱心に推進したと聞いておりますけどね。

山岡 まあ当時の状況ですね。それから、資料の1%クラブの世話人名簿には、世話人幹事として和田(龍幸)さんが載っていますが、このときは専務理事だったんですね。その前は常務理事だったですよね。1996年の9月に日本NPOセンター設立のためにアメリカに行ったときに、NPO界から僕とか播磨さん、経団連からは若原会長と和田さんとご一緒でした。青木さんや島田京子さんも。

安斎 経団連じゃないですけど、東南アジアに何かのミッションで、山岡さんとご一緒したことがありましたね。国際会議があって、あれは市民社会がらみの、そういうテーマでしたね。

山岡 95年、96年の初めくらいから安斎さんにいろいろお世話になって、そして若原会長と椎名さんに設立準備に加わっていただいたという経緯がございます。私は安斎さんとはその頃から、とくにNPOセンターの設立でいろいろお世話になって、その関係から97年のNPO法が参議院で行き詰まったときに、かなり経団連で動いていただきたいということで。その頃の経緯で印象に残っていることはありますか。

安斎 シーズは頻繁に会合を開いていましたね。ですから、あちらの主催の会合ですけども、われわれもよく覗いたのは松原さんのところでやる集まりですね。そこにけっこう議員先生方を呼んできて、加藤紘一さんや河村たかしさんが来ていました。河村たかしさんは、「経団連の豊田会長に会わせてくれ」と、あの調子で電話かけてきたり、なかなか押しの強い人で、当時の議員の人では印象的な方ですね。

山岡 他に何か印象に残った人とか、大変だったこととかありますか。

安斎 経団連のなかでも、事務局の他の担当分野の人にもNPO法のことをわかってもらえるように説明する立場で、それは多少、苦労って程でもないですけどあります。当時の、例えば常務とか専務とか事務総長とかにもよくわかってもらって、経団連なりに推進しなきゃいけないということで、我々なりに一所懸命情報は上げたつもりでいるんですけども。実際には若原さんとか、椎名さんとか関係委員会の委員長が動いてくれましたので、ずいぶん助かりました。

山岡 豊田会長はどういうご意見でしたか。

安斎 豊田会長も、比較的理解のある会長として立場を取っていただいて、そしてあの方自身がわりと市民活動とか若い人の国際交流にも、トヨタとしてもずいぶん支援していたし。山岡さんはトヨタ財団にいらしたんで、お分かりだと思うんですけれども、企業としては社会貢献の活動そのものも熱心に進めてたし、財団も別に持ってやっておられたんで。私も、森田さんという若い担当者を連れて豊田会長のところへお訪ねして、「今の状況はこうでございます」という説明に行ったのを覚えてますね。豊田さんは、1%クラブのほうも世話人に入ってもらっていましたね、ここに名前が出てますけど。

山岡 議員に働きかけるっていうのは、当時の経団連から言えば、自民党に一番強いっていうんですかね。基本的には自民党への働きかけが経団連に負わされた役割ということでしたか。

安斎 ええ、でも堂本さんなんかは自民党じゃないけども、党派を超えて熱心な議員先生には、経団連としても応援しましたね。これは、経団連のトップを担ぎ出してやったということよりも、我々事務方がシーズの松原さんと組んでですね、頻繁に出入りして、「よろしくお願いします」とやっていた感じですけどね。

山岡 最終的に参議院自民党がおおむね「よしわかった」というような時期が、おそらく1997年の11月か12月くらいじゃないかと思うんですけど、そのへんの感触はありましたか。

安斎 そういう方向になったことについては、私も、経団連としてそれなりに努力してきたことがこれで報われる感じだと思って、率直に言ってうれしい感じでしたね。で、関係方面のいろんな人も、そういうことでかなり機運としては盛り上がったんじゃないかな。マスメディアでも熱心な方がよく書いてくれたり。朝日新聞の記者、辻(陽明)さんでしたか推進の論調を書いてくれた方がいましたね。

山岡 村上(正邦)さんと会われたことは?

安斎 私は事務方で、若原さんにくっついて行って、親分同士が話をするのを脇では聞いていましたね。強面で、「あの人を突破しないと」なんていう噂だったので、若原さんも肝をすえて会っていただいたんで、比較的こちらの言ってることは村上さんにはある程度分かっていただいたんじゃないか、という感じは傍で思いましたけれどもね。

山岡 ある時期に、「市民活動」という言葉を使わなければいいよ、となったということなんですけれども。

安斎 ええ、そうです、そうです。そういうことも、いま考えれば懐かしいことなんですけれどもね。世間一般に与える印象が、言葉一つで分かりやすかったり分かりにくかったり、そういうことがあるんで、大事だなという感じは持ちましたね。

山岡 あと、手ごわいなという感じとか、わりあい説得できたという感じとかありましたか。

安斎 まあ、経団連だけの力ではないので。山岡さんたちとか、シーズとか、大阪ボランティア協会とか、全国レベルで機運がかなり高まったんで、それで(NPO法の)成立につながったんだな、という感じを持っています。経団連もそのうちのひとつで、ただ議員の方に働きかける時はそれなりのお役が果たせるかなという感じでした。あの当時、自民党とのつながりが強い経済団体でしたからね。

山岡 では、皆さんから自己紹介してもらって、質問を出していただきましょう。

辻 まちぽっとの辻と申します。シーズの立ち上げに関わっていました。質問は、社会貢献推進委員会というのが、どういうメンバー構成で、経団連本体からどういう権限で、例えばロビーイングとかに動かれていたんでしょうか。

安斎 社会貢献推進委員会というのは、当時担当役員のひとりに房野(夏明)という人がいたんです。もうお亡くなりになりましたけど。意識が高かった方でフィランソロピーっていう言葉が、まだみんなに知られていないときに、経団連もそういうことに関心持って取り組む必要がある、常設委員会でもそういう新しい委員会をつくろうじゃないかというので、社会貢献推進委員会ができたのです。それから、パーセントクラブっていうのがアメリカにあるから、経団連も、「経団連1%クラブ」っていうことでつくった。やっぱり企業は社会あっての企業だということで、営利活動だけに終始していると、企業は社会から受け入れがたいんじゃないか、ということで、そういう運動を経団連としても推進していこうということで始まったんですね。それで、社会貢献推進委員会だけじゃなくて、1%クラブもつくって、少し具体的な活動をやる時に、企業の経常利益の1%をそういう社会貢献的なものに使う。それから、社員がボランティア活動なんかで時間を割くということもひとつの社会貢献ですから、そういうことも推進していこう、と。お金だけじゃなくて、その人の労力の1%ぐらいをそういう社会貢献的なことに当てたらどうか、というキャンペーンを、経団連としてもやっていこうということになった。

当時は、他の経済団体でそういうことやっていませんでしたから、経団連が初めてじゃないかと思うんですね。

山岡 突破口を開くうえでは、房野さんの決断力と言いますか、行動力が発揮されたわけですか。

安斎 ええ。昔から山本正さんなんかとも親しかったしね。あと、糠沢(和夫)という役員がいたんですけれども、この人は国際的な分野の担当役員を長いことやって、民間では初めてだと思うんだけど、経団連の役員からハンガリーの大使に出たんですよ。その人も山本正さんなんかとずいぶん前から親しくて、そういう国際的な場での「国際交流」とかね、そういう分野で経団連としての推進にある程度力を入れた人のひとりですね。

辻 もうひとつ、質問いいですか。当時はちょうとバブルの頃ですよね。80年代末ぐらいから、経団連でフィランソロピーとか社会貢献とかに取り組みを始めたというバックグラウンドとして、バブルというのは何か関連あるんでしょうか。

安斎 強いて言えば、経済活動、ビジネスとか利益とか儲けとかばかりに特化していると、バブルなんかはじけたら大変なことになるわけです。経団連で強調したのは、そういう企業の景気の浮き沈みに関わりなく、経営資源のある割合を社会貢献的なことに投じていかなきゃいけない、という考え方を、経団連が音頭を取って推進していく必要がある。そういう意識だったですよね。経団連が、90年代に社会貢献部ができてから「社会貢献白書」というのをつくり始めたんですよ。それは会員企業からいろいろ情報をいただいて、企業の取り組み、それから年間で経常利益のどのぐらいをそういうこと(社会貢献に類すること)に使っていたか、というのも出してもらったりして、毎年発表していました。できるだけ会員企業に機運を盛り上げて、意識を持ってもらおうということでしたね。

坪郷 早稲田大学の坪郷と申します。90年、91年ぐらいに社会貢献委員会とか1%クラブで動きをされていた時に、労働組合もボランティアに積極的で、組合市民とか企業市民とかいう言い方をしていたと思うんですが、経団連にとっては「市民」という言葉はそれほど違和感ないものだったのかどうか。あるいは後でNPO法成立の時は「市民活動」から「特定非営利活動」に、自民党はかなりこだわったと思うんですけれども、経団連にとっては「市民」「市民活動」「市民社会」という言葉には特に違和感はなかったと考えていいのでしょうか。

安斎 そうですね。集まってこられる代表者、会員企業のトップの人がどうだったかというところまではちょっとよく分からないですけれども。経団連としては、「市民」とか「市民社会」という言葉は、それほど抵抗があるというわけではなかったと思うんですね。だから、社会貢献推進委員会がつくった意見書、あるいは1%クラブが発表したようなものの中には、多少そういう「市民」とか「市民社会」とかいった言葉を使ったことがあったと思うんです。そんなに抵抗があったっていうわけではないと思いますね、経団連の中では。

坪郷 それで、社会貢献推進活動とか、1%クラブでも活動は始められて、その後にNPO法の制定にいろんな動きが出てくるんですが、経団連として最初にNPO法という法制化が必要だというふうに考えられたのは、どれぐらいの時点なのか?あるいは何か会議の中で、法制定が必要と考えられた時点があるんでしょうか?

安斎 私の印象では、経団連が最初からイニシアティブを取って「NPO法案がぜひ必要だ」という形で出てきたわけではなくて、世の中がそういう関心が高まってきてるところに、経団連としてもバックアップするような立場で、経団連なりになんかお役に立てるんじゃないか、というようなそういうポジションだったように思いますね。

坪郷 そうすると、阪神淡路大震災のボランティアとかそういう流れの中で、NPO法制定が必要だという流れが出てきたので、経団連としてもその流れから見るとやはり推進すべきだと?

安斎 そうですね。やっぱり企業活動をやってくうえでも、健全な社会、市民社会みたいなことが基盤にないと、長い目で見たら発展が保障されないんじゃないか、ということはあったと思うんですね。阪神淡路大震災の時は、経団連1%クラブが主に前面に出て、企業からずいぶん義援金とか社員のボランティアを募って、経団連が音頭を取って、それでずいぶん現地に行ってもらったりとか、そういう運動はしましたね。そういうことが市民活動というかね、そういう感じで皆さんにご理解いただけたんじゃないかと。

三原 シーズに2008年9月から2011年5月まで勤めていました。私の勤める前のお話を興味深くお伺いすることができてよかったです。

林 林と申します。今、たまたまシーズの代表をしてますが、私自身はまちづくり・都市計画のほうで、アメリカの衰退地域の再生に取り組むNPOだとか、そういう事例を80年代の末からずっと独自に調べたりしていて、94年ぐらいには山岡さんともいろいろな所にご一緒しました。だから、時代としては、いろんな領域の人が海外の状況を非常に敏感に受け止めて、それを日本で考えるとか、そういう共通の関心事があったのかなと思うんですが。企業の方が、日本の市場が世界に広がるという役割を担うなかで、社会的なものの考え方のベースに、社会貢献とかNPOとかいろんなことが海外から影響を受けたんじゃないかなという印象があるんですが、その辺はどうなんでしょうか?

安斎 そうですね。特に経団連の会員企業というのは、比較的大手の企業が多いので、いろんな国に出て行ってますから。私の感じるのは、特にアメリカで活動していれば、日本企業としても、やっぱりアメリカの企業はいわゆるフィランソロピー、社会貢献的なことに非常に経営トップが中心になってそういう活動を普段やっているという印象を当然受けている。それがまた日本へ帰ってきて、日本でもやっぱり地域社会に根付くためには国内でも、地域への貢献をしていかなくてはいけないという、そういう認識につながっていったんじゃないかと思いますね。

原田 東京大学の大学院で社会学を勉強している原田と申します。質問ですけれども、経団連がNPO法に積極的になったのは、背景として行政改革みたいなものがあったというような話を伺ったことがあるんですが、そういったことを意識されたりはしたんでしょうか?

安斎 経団連は行政改革自体にもかなり熱心に取り組んできた経済団体ですけれども、どちらかっていうと行政改革の推進の方はですね、特に経済活動を進めていく上で、いろんな規制が多くてそれが自由な企業活動を妨げているという意識で、「こんな規制がありますよ」という事例をいっぱい集めて、それを踏まえて時々の政府に物申してきたのが経団連の主な行政改革に関する関わり方ですね。それで、社会貢献の推進とかNPOというのは、ちょっとまた視点が違ってですね、やっぱり企業が活動をしていくうえでの大前提としての、地域社会とか広く社会全般にできるだけ目を向けた活動をしていかないと、企業活動そのものにも長い目で見るとダメージが出てくると。ひいては利益もそういうことではなかなか上がってこないんじゃないかという、そっちの方の意識で進めた活動ですので、私はあまり直接のリンクはないんじゃないかっていう気がしてるんですけれど。

辻 たまたま今日、シーズの資料をお持ちしました。94年の11月に、経団連から社会党や自民党に対して、公益法人に関する規制緩和という要望が出てるんですね。それは何かというと、当時の公益法人に対するいろいろな規制を緩和をしろということで、民間公益法人制度を作れみたいなことを提言されていたのがありました。ですから、今の行革に絡めて言えば、地域社会を大事にしていくというつながりと言いますか、すでに94年の11月の段階でそういうものが出てたっていうのが、シーズの資料にあったものですから。

安斎 経団連は、「社団法人 経済団体連合会」という公益法人になるんですけれども、公益法人協会ともある意味では経団連の社会貢献推進委員会はゆるいつながりというか、連携みたいなことはありましたね。ですから、公益法人の健全な発展っていう見地からも、それがまた社会貢献の推進にもつながるし、NPO、NGOの活動の活性化につながるということで、そういうつながりでとらえていたというふうには言えると思うんですね。

権 筑波大学の大学院生の権と申します。韓国からの留学生です。96年から98年の間に、NPO法の制定過程の中に経団連が自民党側を説得するうえでの役割はどれぐらいだったのでしょうか。先ほど参議院議員の村上さんを説得するためにはどういうふうに突破すればいいのか、そういう話があったとおっしゃったと思うんですが、もしもっと詳しい話があれば紹介していただければと思います。どっちかというと市民団体よりは経団連の方が自民党と近かったんじゃないかと思うんですが。

安斎 経団連が発足したのは戦後間もなくで、政党としては自民党にいわゆる政治献金という形でかなりの額のお金を出していた時代が長くあって、お金を出すだけじゃなくってものも言っていこうということで。特に自民党政権に対しては、経済界の立場からいろんな分野の提言なり意見書っていうことでずっと物申してきた。経団連の総会になると必ず時の首相や大蔵大臣、通産大臣、経済閣僚が来てですね、演説して行くんですけれど、持ちつ持たれつみたいなところで、できるだけ経済界の立場を、活動しやすいようなことで意見を述べていこうということで、そういう立場があったわけですよね。

ですから、NPO法ができる前後も、経団連としては、自民党がまだ政権を取っていましたので、やっぱり自民党に働きかけるのは一つの有力な方法でした。野党を全然無視したわけではないんですけども、いろんな党の議員で、それぞれの立場から熱心にNPO法の成立を進めたのも事実なので。その辺をシーズあたりが的確につかまえて、与野党問わず意見を言ってきたのは、非常にすぐれた点だったと思っておりますし、経団連もそういう立場をサポートしました。自民党だけに働きかければいいということでは必ずしもなくて、たまたま村上さんという方がキーパーソンな時があったわけなんで、そこへものを言うには経団連もちょっと1%クラブの会長さんぐらいに乗りこんで行っていただいた方が有効であろうということでやったんですね。1%クラブみたいなものは、韓国にもあるんですか?

権 社会貢献のための、ありますね。

安斎 そうですか。全経連[6]っていう団体がありますね、経団連みたいな。田中康文くんもある時期、経団連から派遣されて、全経連に行っていました。向こうからも韓国の方が来て、何人か若い人が人事交流をしていたんですね。ですから、経団連のやってることは結構、そういうことを通じて伝わっていたんで、韓国でも多分、そういう動きを参考にして推進されているのかな、という気は私も見ていましたけど。

渡部 早稲田大学助手の渡部と申します。さきほどのお話で、経団連では女性がNPO法に制定に関して活躍したというお話だったんですけども、その背景というか、理由というか、お分かりでしたら、教えていただきたいと思うんですが。

安斎 NPO法みたいな法律ができて、税制の問題も含めて、寄付だとかいうことを含めても、少し社会全体が活力ある形で成長して、企業も社員も含めて意識は高まっていくことが、結局長い目で見ると、企業活動にとってプラスじゃないかという立場が根底にあるので。NPO法も成立を推進しようということにつながってくるし、それから普段の社会貢献活動も、ボランティア活動なんかも含めて、特に阪神・淡路大震災以降、そういう意識が企業にも高まりました。

経団連に集まって来られる企業の社会貢献担当の方々を拝見していますと、責任を持たされてやっておられる方が結構、女性の方が大手の企業でもだいぶいらっしゃったんで、これはいいことだなと思いました。経団連の常設委員会は40も50もあるけど、委員長はみんな企業経営者の社長さんとか、会長さん。主に会長さんなんかにお願いするんですけど、女性の委員長なんかほとんどいなくて。でも、私が社会貢献やってる頃、坂本(春生)さんという、西友などにいらした、元通産省のお役人だった方にある委員会の委員長[7]をお願いしたことがありますね。非常に限られていたんですね。もっと増やさなきゃいけないんじゃないですかね。

長島 長島と申します。法政大学の兼任講師をやっております。さきほどからNPO法の成立に向けて経団連の中でポジティブな捉え方をしているというお話を伺っているんですけど、一方で、市民活動促進法ないしNPO法が出来た場合、企業活動とかなり対立する部分ができてきてしまうんじゃないかと考えている人達も結構いたのではないのかな、と思ったりするんですけど。その辺の関係は、どうなっているんでしょうか?

安斎 確かにありますね。青木さんにも随分議論に参加していただいたんですけども。企業の社会貢献フォーラムみたいなものを毎年やって、そこで泊りがけで社会貢献担当の方々とも議論しました。90年代の初め頃、それぞれの企業でどうやって社内の理解を得るかということも、一つの大きな問題になったんですね。何よりも企業だから利益追求が第一ではないかと。だから景気が悪くなると、社会貢献の方にそれまで使ってたお金を削られてしまうとか、そういうことではよろしくないと。長い目でちゃんと根付かせなきゃいけないとか、大体、担当者が集まると、そういう雰囲気にはなるんですね。だから、経団連でも、そういう企業の担当の人の意見なんかを集約しますと、できるだけ長期に、景気の低迷になっても息切れしないで続いていくような活動でなければいけないという意識が段々に出てきたので。そういう人が、企業トップに働きかけてくれるわけです、それぞれの会社で。

一方で、経団連では企業倫理の問題が出てきまして、企業でいろんな事件が起きたり、総会屋とかヤクザとの関係とか、不祥事みたいなものが時々あるじゃないですか。そうすると、経団連として企業倫理をちゃんと確立しなきゃいけないというので、社会貢献とはまたちょっと別の切り口なんですけども、企業行動憲章なんていうのを作ったわけです。企業はこういう考えで普段、活動しなきゃいけませんと。ですから、社会貢献の問題もあるけれども、企業そのものも、いろいろ日頃の活動、行動にはちゃんと倫理観をもって臨まないといけないっていう議論も、経団連の中で、何回も議論して、企業行動憲章っていうのを作ったんですね。そういう面もありますね。

(ここから、青木氏が途中参加)

山岡 青木さんも1990年から経団連社会貢献委員会、あるいは明治生命本体の社会貢献部長でしたかね、はじめから?

青木 部長じゃなくて、室長という、なんかちょっと訳のわからない役職なんです。

山岡 室長でしたか。そのころからの若干の歩みと、特に、具体的には97年の秋以降が一番経済界としては活発だったと思うんですけども。その辺の、青木さんとNPOへの関わりをお話いただいたらと思います。

青木 安斎さんが直にお話しされていただいたんで、それを引き継ぐ形で、私の方から。経団連が直接的に政治的に動いて政治家に影響力を及ぼしたということがNPO法が成立した一つの大きな要因になっていると思います。それは、シーズの代表でNPO法の政治的な折衝を一生懸命やられた松原さんが、法律が成立した後で私と話をしたときに、「青木さん、経済界の支援がなければNPO法は成立しませんでした」と、はっきり私に言ってくれました。今、安斎さんがお話したような、特に、参議院の梃子でも動かない村上さんをピンポイントで攻め立てたというようなところに大きな要因があったと思います。

それから、日産の社会貢献を担当していた島田(京子)さんとか、三井住友海上の山ノ川(実夏)さんとか、社会貢献は女性が結構重要な役割を果たしたということを言われましたけども、私の見るところ、社会貢献という新しい概念を企業のなかに導入するにあたって、各企業はそれなりに、その職務にふさわしい有為な人材を提供したということがあると思います。私自身が有為な人材であると、別にそんなことを言うつもりはないんですけど。いろんな社会貢献の第一世代を担った方々を見ると、それぞれ哲学とか考え方とか頑固さみたいなのを持っていて、なんか企業は変わんなきゃいかんという意識。

そこを経団連がうまく組織をして、社会貢献推進委員会と任意団体の1%クラブというものを作って、2本柱で進めたということですね。社会貢献推進委員会というのは、各会社の部長とか役員クラスの人で構成され、実務的なものはその下に専門部会という執行機関がありまして、そこが具体的なことを議論したり、いろんなレポートをまとめたり、各企業に経団連の考えていることを伝えたり、あるいは企業のやっていることを経団連に伝える役割を担っていました。この実務者たちが私たちでした。

ですから、私たち各企業の社会貢献担当者というのは、経団連が推進した社会貢献の裾野を支えた、いわば企業の草の根グループみたいな役割を果たしていたということがいえるかと思います。私たちは職務上NPOやボランティア団体の人たちと日常的にお付き合いをしていた。私たちには比較的、市民社会とかNPOとかいう言葉は抵抗なく入ってきました。NPO法が成立した大きな理由の一つはそういうところにあると思います。

安斎さんの下で課長をしていた田代(正美)さんは非常に社会貢献というものに対して信念というか、なんとかして市民社会を日本に実現しなきゃいけないという、強い思いを持っていたというふうに思います。私も同じ考えでした。安斎さんの指導の下で、田代さんは、かなり自由に、私たちと情報を交換したり、民間非営利組織の実務者や山岡さんのような唱導者と私たち企業の社会貢献担当者を結びつけていった。経団連は1994年にアメリカとイギリスそれから北欧の社会貢献を1ヵ月ぐらいかけて調査するミッションを送りましたが、このミッションをオーガナイズしたのは彼でした。私たちは、米欧の企業の社会貢献の技法を学ぶとともに、市民社会セクターが社会的に大きな役割をはたしていることを学ぶことができました。

田代さんは、いずれNPO法を制定する動きが具体的に高まって来るから、経団連の社会貢献推進委員会も、それに対応するために、専門部会を再編しなければならない、現在あるボランティア部会と自主プログラム部会を3つに分けて、NPO法対応の部会を作ろうと思う。その部会にどういう名称をあたえたらいいのだろうか、という相談を私は受けました。私は「社会貢献基盤整備専門部会」はどうかと提案しました。彼は「基盤整備か。よしそうしよう」と賛同し、これがこの部会の名称になりました。「基盤整備」という言葉は山岡さんが執筆者の一人となった「市民活動基盤整備に関する調査研究」(NIRA研究報告書、1994年)の中の「市民活動基盤整備」が念頭にあったからです。

こうして社会貢献基盤整備専門部会というのができまして、私がその議長といいますか、チェアマンになりました、94年ですけど。この専門部会は、NPO法制定に向けた動きなどをウオッチしながら、自分たちも法案の内容などを勉強して、そして企業サイドとして、どう支援していったらいいのかということを一生懸命模索しました。

田代さんは、一橋大学の法学部ですから、法律に詳しい。さきがけの堂本さんと一緒に、NPO法の試案を作ったりしていたわけです。かなり踏み込んだことをしましてね。たしか、毎年12月になると、御殿場にある経団連のゲストハウスで社会貢献のフォーラムがあるんですけど、96年かな、その年のフォーラムに堂本さんも呼んで、NPO法というのは何で、どう支援したらいいのか、ということを議論した記憶があるんです[8]。だから、かなり経団連は、NPO法そのものの条文の勉強とか、それと同時に、これがこれからの社会でどういう意義を持っているのかということも勉強していたわけです。

これは安斎さんがお配りになった資料[9]だと思うんですけど、経団連が「魅力ある日本の創造」というのを発表しました。このなかにNPOの基盤整備が必要であると言ってます。この部分は、私たちの基盤整備専門部会で検討をして、その議論の結果が「魅力ある日本の創造」のなかに挿入されたわけです。

この当時、私自身、田代さんとは非常に意気投合していました。山岡さんとの間もそうなんですけど、社会貢献に関わる人間というのは、お互いに通ずるものがあります。ある時、田代さんが「我々はNPO法を実現しようとしているが、この法が成立して10年たった時に、果たして我々のやったことは良かったのかどうか。歴史はどう判断するんでしょうね」と私に語りかけてきたことがあります。

次に、私の働いていた企業(明治安田生命保険)でどんなことをやったかお話ししましょう。会社では、ボランティア講座というのを年に2、3回やっていました。これは職員のボランティア・マインドを啓発するための勉強会・セミナーのようなものでしたが、時には市民意識を高めるようなテーマを選ぶこともありました。企業が政治家を呼ぶのは異例中なことはあったのですが、止むにやまれない気持ちから、「じゃあ、堂本さんを呼んで、フォーラムをやろうじゃないか」と決断しました。たしか、1996年の2月か3月[10]。山岡さんにも参加してもらって、雨宮(孝子)先生にも参加してもらった。

ちょうどそのころ、衆議院は、どうやら与党プロジェクトの案でまとまるという見通しが立ってきた頃ではないかと思います。ところが、新進党が応じようとしなかった。私がやろういうことを決めまして、堂本さんに参加を求めて、メンバーを揃えたところが、新進党の河村議員から電話がありましてね。「青木さん、俺も仲間に入れろよ」と強引に言ってきたんです。彼は僕の大学の後輩なんですけど、非常にアクの強い、ああ言えばこう言うっていうタイプの人ですから。だけど、彼の理屈も当っているんですよね。「与党だけの意見では片手落ちだ、野党の意見も入れなきゃ駄目じゃないか」と言うんで、やむを得ず彼を入れようということにして。おそらく、政治家がフォーラム参加のために明治安田生命を訪れたのはこれが初めてだったと思います。

私は突然専務に呼ばれました。「困るじゃないか、君。政治家なんか呼んだら困るよ」って言うんです。会社の中には、私が社会貢献でかなり突っ走っていましたので、「あいつは何をするか分からない」というような心配する気持ちもありまして、専務に多分ご注進に及んだ連中がいたんだと思うんですね。それで、専務も見咎めまして、非常に寛大な人で理解のある人ではあったんですけど、「青木君、困るよ」って言われたから、「じゃあ、今日やめましょうか」と言ったら、彼も「うーん。そこまでは言わんけどね」と不承不承ながら容認してくれました。政治家を招いたからと言って、物議を醸すようなテーマではありませんからね。しかし、企業にとって、政治とは距離置くのが賢明なやり方ですから、何もそこまでやらなくてもと思う人たちがいたことは事実ですね。この時、NHKが取材にはいっていたんです。NHKサイドでは、会場が明治安田生命ですから、このフォーラムの報道の中で会社名を紹介したいと言ってくれましたが、広報部長は「名前は伏せくてれ」の一点張りでした。保守的な会社の典型でしょう。それで6時頃からこのフォーラムをやったという記憶があります。後で聞いた話ですが、経団連の田代さんは、私のことを心配していたようです。

それから、今日これを持ってきたんですけど、『NPOは地域を変える』という本[11]があってですね。ニューヨークのサウスブロンクスのCDC、Community Development Corporationという米国のNPOなんですけど、それが荒廃したサウスブロンクスを再生させたという話。1996年にアメリカを訪問したときに、この現場を見て、私は感動しやすいもんですから、もう言葉が詰まるくらい感動しましてね。それで、Mid-Bronx DesperadoesというこのNPOの親分のラルフ・ポーターという人と、それから、それを財政面で支えたエミー・ブルスロフという、Bankers Trustの社会貢献部長ですけど、その2人を日本に呼びまして、山岡さんを司会にしてもらって、東京と、それから大阪でシンポジウムを開いたということがあります[12]。これが、1997年の9月か、10月か。もうちょっと早くやってますか。

山岡 さきほど言った96年の秋というのは、日本NPOセンター設立のためのミッションで、経済団体のミッションと市民団体のミッションが現地で合流するという形で。それで、サウスブロンクスは、両方一緒に訪問する。山本正さんの日本国際交流センターの現地事務所がありまして、そのコーディネートで行ったんですね。勝又(英子)さんも一緒にですね。それで、「NPOっていうのはすごいもんだ」ということで、2人をお呼びになって。林(泰義)さんもどこかで?

青木 ええ、林さんは東京の会議の時のパネリストの1人で参加していただいたということですけど。これはアメリカの活動なんですけど、実は日本にNPOを根付かせなきゃいけないという思いがあって開いたフォーラムです。ちょうどそのときが、NPO法が最後の陣痛の苦しみ、本当に苦しんでいた時期だったんですよ。そういう時期でございました。そのとき、新進党というのはもう国会の議論に参加しない、ボイコットするというスタンスね。それで、与党3党の合意はできたんですけど、それ以上、その法案が先へ進まない。「新進党は何をやってる」と、だから、みんなで抗議のファックスとか電話を入れようじゃないかということ、あれ、どこが言い出したんですか?日本NPOセンターも言ったんじゃないんですか?

山岡 日本NPOセンターは、特には言わなかった。河村さんとは、しょっちゅう来て、しょっちゅう喧嘩してたけど。

青木 とにかくね、そういう情報を得たんですよ。それで、この宛先に抗議のファックスなり電話を入れましょうと、小沢一郎とか河村たかしって名前があったわけですよ。私は、社内でまず署名を集めまして、それから、私の義理の兄も名古屋にいるんですけど、頼んで20名、だから60名ぐらい署名集めて、それをファックスで小沢一郎と河村たかしとか、要するに、当時の新進党に送りました。企業人でそこまでやった人がいるかどうか分からないけれども、やろうと思っている気持ちを持っている人は大勢いたというふうに思いますね。それくらい、1997年の9月、10月、11月というのはかなり切迫感がありましたね。ひょっとすると、NPO法は流れちゃうんじゃないかという危機感があって、そういうことをした記憶があります。それから、国会議員への請願活動ってやりましたよね?

山岡 ええ、これは何度かやってます。シーズ、それから市民活動連絡会みたいなのがありましたんで。シーズとNPOセンターが中心になって、それで連絡会でやりました。

青木 そうですよね。全国からNPO関係者が集まりましたね。私も最後の段階ですけど、議員さんの部屋を一つ一つ回って、「よろしくお願いします」と議員宿舎を回った記憶があります。私自身の、あるいは私の勤めてる会社の社会貢献の活動は、そういう状況だったんです。幸いにも、NPO法が全会一致で通ったのが、1998年の3月ですよね。

山岡 そうです、3月19日。参議院でだいぶ中身が変わりますんで、それでもう一度衆議院に行くわけですよね。前の年(1997年)の6月6日に、衆議院を市民活動促進法で通過している。参議院で変わりますから、参議院で変わったら、もう一度衆議院でということで、衆議院に戻って、3月19日に成立したという経緯があります。

青木 それで、法律が成立して、本当に良かったというのが実感でしたね。松原さんからは「経済界が押さなかったら、成立しなかったな」というのを、本当、実感を持って聞きました。それから、和田(龍幸)専務理事とどこかの席でお会いしたときに、こんな話を伺いました。専務が云うには、村上議員と話をした時に、議員から、「NPO、市民活動なんていうのは、政府に楯突くもんだから駄目だ」と言われたそうです。そこで和田さんは、「いや、そうじゃない、ボランティア活動というのは社会を元気にしてくれるんですよ」と言って、村上さんを説得したということです。そんなことを懐かしく思い出しますね。ざっとした話ですけど、以上です。何かご質問があれば。

山岡 さきほどちょっと安斎さんがおっしゃった、1994年に公益法人の規制緩和というのは、青木さんがかなりリードして言っておられたことだよね。

安斎 青木さんは気骨のある方で、企業を引っ張っていった。経団連では田代さんも行動的で、こういう力が結集したと思います。

青木 そうですね。田代さんが実動部隊というかリーダーで、山岡さんとか松原さんたちと常日頃接触していました。日本に市民社会をつくるということに関しては、行財政改革というよりは規制緩和ですね。それでもっと行政に縛られない自由な市民活動をやらなければならないのではないか。それは企業も同じなんですね。企業も規制緩和を求めていましたから、その文脈で、公益法人制度も変えていかなければならない。がんじがらめの法律だったですよね、二重規制で。完全に官が行政が、市民公益というのをコントロールしているという状況を何とか変えていかなければならないということで。そういう論陣を経団連もはりましたし、私もいろんなところで、シンポジウムで話をしたり、論文に書いて発表したり、ということはありました。

山岡 安斎さん、いま青木さんのを聞かれて何か。

安斎 だいぶ詳しくなったね。私はだいぶうろ覚えのところがあったのですけど、いま少しビビッドに青木さんに補足していただいた感じです。青木さんはとにかく気骨のある方で、企業の人たちを引っ張っていただいた。われわれとしても非常に心強く、動きに関心を持っていました。本当にみんなの力がそういう形で結集して。経団連では田代という社会貢献課長も非常に積極的に動いて、企業の人と一緒にやってくれたので、こういう力が結集したのかなという感じでございます。

山岡 青木さんへの質問がありましたら、辻さんから。

辻 僕の記憶では、95年くらいに経団連のなかに税制法人化検討会みたいなのができるという話があったんですね。へえ、経団連も始めたんだ、というのをちょっとうろ覚えで記憶しているのですが、さきほどの基盤整備専門部会のことですか。

青木 ちょっと分からないですけど。市民公益活動に関する税制というのは、他の委員会とは別に作られていませんから。そうじゃなくて、いわゆる国の消費税とか、一般の所得税を含めて税制を変えるという委員会ですと、ちょっと別の話になりますから。そういうものだとするとちょっと私は分かりませんけど。NPOとか公益法人に関する税制の検討会というのはなかったと思います。

辻 税制法人化検討会みたいなことを経団連が作ったんだという話が、シーズの運営委員会のなかで出たんですよ。95年の秋くらいのことだと思うんですよね。いま伺っていて、公益法人関係なのかなと、公益法人を規制緩和に絡めて、というふうにちょっと思ったことと、青木さんが作られた基盤整備専門部会で法人化の制度について検討されたというのと重なっているのかなという。こちらのほうも、よくはっきりしていないんですけど。

青木 税制に関しては、NPO法は切り離しましたよね。ですから、税制については、検討はとくに具体的にはしておりません。

安斎 経団連に税制委員会というのが昔からあるので、税制委員会のいろんな意見書を年々出してきましたけど。この頃は、寄付税制の改善みたいなことは、経団連としてもいつも言ってたと思いますね。マクロな形ですけど。

坪郷 今日の話で、青木さんは経団連での活動と明治安田生命での活動とを両方やられていたようにお聞きしました。経団連の社会貢献委員会や1%クラブの関係のメンバーで、経団連としても活動をやり、企業としても独自のフォーラムなどのNPO法制化に向けての活動をやるというように、両方やった方は青木さん以外にもおられたのか?あるいは、企業のなかでの活動はどの程度行われたのでしょうか?もしいくつか事例があれば。

青木 私の知る限りで、NPO法が成立するのをサポートするとか、NPO法に関連する社会貢献活動をしたというのは、知らないですね。私どもの会社でやったのは、私が突っ走ってやったわけです。会社のなかではみんなはらはらしていた。田代君も私がそれやると知ったら、「青木さん、会社クビになるぞ」というわけです。それは少しオーバーな話ですけど。彼からは少し慎重にやれよと言われていた。まあとにかくやろうということでやりました。

安斎 アサヒビールの加藤種男さんという人は、経団連でもいろんなことをやっていただき、会社のほうでもかなり活発に。とくにメセナ、企業の文化活動の推進を、社員を導入して、いろんな知恵出してやっている方です。一方でまた、横浜市の芸術文化関係の専務理事かなんかも。企業に身を置いて、かつ経団連を含めた少し横のほうに活動を積極的にやっている方も何人かいますね。

林 さきほどのサウス・ブロンクスの話は、僕も80年代の終わりくらいから調べていたんです。我々はまちづくりをやっているので、とくにCDC(Community Development Corporation)みたいなのが具体化するということについて。あの本(『NPOは地域を変える』)をお出しになって、具体的に事業体をつくるのをサポートしようという活動をやられたのでしょうか?

青木 「ふるさとの会」[13]という組織がありますよね。「ふるさとの会」は本家本元のミッド・ブロンクス・デスペラードス(Mid Bronx Desperados)[14]を超えたと思います。収入でいうと、現在10億円規模の仕事をしていますよね。私の記憶では、ミッド・ブロンクス・デスペラードスは、1997年当時5億円くらいだったですよね。はるかに日本の「ふるさとの会」のほうが大きくなっているんじゃないですか。

「ふるさとの会」はホームレス支援なんです。企業はホームレスを嫌うんですよ。暗いですからね。(代表の)水田(恵)さんは浅草のアサヒビールに行ったらしいんですけど、ビールとホームレスは合わないんですよ。明治安田生命としても、ホームレスの支援に会社として力を入れることはできなかったので、会社のなかでいくつか私の裁量でできる寄付がありましたから、水田さんのところに若干のお金を継続して提供しました。あとは、地域通貨をあそこでやろうじゃないかという話が持ち上がりまして、私がその研究会を1年くらいやっとことがありますが、それはうまくいかないで終わりました。

林 CDCの事業規模は80年代には相当な規模になっていたが、とくに90年代前半にものすごく成長したんですね。毎年行ったのですが、行くたびにものすごく大きなプロジェクトへと発展していって。日本版でいうと、年間何十億という事業やもっと大きい事業をやったりするCDCがものすごく増えた。その後、2000年代に、リーマンショックなんかいろんな問題起こしたCDCがあることもご存知の通りだと思うのですが。その辺の事業力をつけるためのサポートのシステムは、政府のほうの助成もあるけど、同時に民間のお金の回り具合と。それから、政府が投資税額控除みたいなのをうまく使って投資が集まりやすくすることだとか。かなり社会的にストラクチャーをよく考えて発展させていくというのが、たいへんわれわれにとっては刺激的だったんですね。NPO教書って本でかなり詳しく紹介してますけどね。ああいうことが、どういうふうにしたら、もう少し行動的に、世の中で動くようになるかっていうのが。だんだんだんだん、「ふるさとの会」なんかもういろいろ支援されたり、いろんな形で山岡さんがずっと高橋先生とご一緒にサポートされたのが、日本のストラクチャー、広がってきて。あれは、日本でいうと福祉とまちの事業が一体化したときに、福祉のほうのお金がひとつの軸になるというタイプですよね。アメリカは住宅をそうとう軸にして展開したんですけどね。

山岡 NPO法を95年に政府が作ろうとしたときは、「ボランティア支援立法」という呼び方をされたんですね。どちらかというと、ボランティア団体に法人格を与えるということだった。僕にしろ松原さんにしろ、いやそうではない、それもあるかもしれないけど、市民が事業をできる法人格が必要なのは事業体になっていく必要があるからなんだと。かなり事業体を意識したんですね。それで、政府の「ボランティア支援立法」ではだめだと。というわけで、議員立法に95年11月から切り替えて、議員さんたちに本気になってがんばってもらったと。そういう意味で、NPOというのはボランティア団体の延長上ではなくて、社会を変えていく事業体としての意味が大きいと。そういうこともあって、本格的な事業体としてのNPOのイメージを日本のなかで出す、そういう効果はこの時期にあった。97年11月って書いてあったね。大変な時期だったね。サウスブロンクスに僕が行ってから1年ちょっと経ってからですよね。NPO法の危機の真っ最中にこのシンポジウムが行われたと。事業体としてのNPOというものをイメージするうえでは非常に良かった気がしますね。

原田 今日は基本的にNPO法制定のお話だったので、本筋からそれてしまうかもしれませんが、後日談として、経団連は認定制度や今年の改正に表立って関わってないように思います。賛成の立場を表明するとかはありましたか?

青木 私の知る限りはないです。

山岡 その後の改正についてはほとんど関わってないですね。連絡会と議員連盟との対話のなかでやっていますから、ほとんど企業は関わっていないです。ただ、僕らの市民活動連絡会の集会のときには、企業の社会貢献担当者は、かなり参加されてますよね。組織的には動いてはないけれども、NPO法の改正の動きなどに非常に関心を持って参加していただいています。

青木 グローバリゼーションに伴って、CSRが国際的に企業のとるべき社会的責任の潮流となってきた。CSRとは、世界的企業の行動倫理そのものなんです。マネジメントとしてのCSR。結局、社会貢献からCSRへという方向になっちゃいました。コンプライアンス(法令遵守)の観点から、つまり企業はリスクマネジメントとしてCSRを捉えたりするようにもなってきた。経営環境も厳しくなって、事業再構築という名目でリストラに走るようになった。雇用の維持か社会貢献かという切羽詰まった状況になってきたわけです。今日、社会貢献自体かなり苦しい状況にあります。ただし逆にいうと、経団連が後押しするから、市民社会が強くなるというのは、本末転倒なんですね。両者の関係は良好であるべきであることは当然なんですが、市民社会が自らが強くなって自力でやったほうがいい。企業はそのサポートをすればいいんです。

権 97年にNPO法制定が危機になったときに、議員宿舎を回ったという話を聞いて、すごく感心しました。そこまで経団連側でやっていたのだなと。

青木 それは経団連ではなくて、一企業人としてです。明治安田生命の人間としてでもなく。一市民としてやったということです。

辻 質問のひとつは、さっきの村上さんのことです。社会貢献推進委員会は、組織としては、経団連本体が承知したうえでないと普通は動けないじゃないですか。あの時期、フットワーク軽く動かないといけないので、いちいち経団連本体にお伺いをたてることはできなかったと思います。社会貢献推進委員会が独自に動くという暗黙の前提があったのでしょうか?

青木 大枠はやっぱり理事会です。理事会が了承しなければなりません。ことNPO法や社会貢献に関しては、これやったらお前もう許さないぞというものじゃない。いいことやるわけですから。NPO法をなぜ企業が支援するのかというのは、よくわからない部分もあるけど、あのときのムードとしてはやらなきゃだめだ、押していこうよという、そういう合意があったと思うんですよね。だから若原さんみたいな方が、国会で証言しましたよね、参考人として。

山岡 僕も一緒に出ました。山本正さんや福島瑞穂さんも含めて、並んでやったりとか。

青木 ああいうことを企業のトップの人がやるなんてなかなか考えられないことでしょ。そこまで熱気があった。若原さんには本当にそういう気持ちのある方でした。

山岡 ロビイングは1%クラブなんですよ。若原さんは1%クラブの会長ですよね。社会貢献推進委員会は椎名さんです。椎名さんは、IBMがかなり固かったから政治的な動きは控えていた。IBMの事務局のほうもかなり慎重だった面もあって、椎名さんがそんなに動いたことはないです。その辺の使い分けがどうなっているか分からないけど。

青木 1%クラブはいわゆる任意団体ですから、経団連の組織ではないですよね。自由に動けた。世間から見ても、経団連の社会貢献推進委員会から来ているとなると、機関決定を経ているのか、という話になる。1%クラブはそれができる。俺がやるといえば、もう結構です。若原さんはそのマインドがありましたから。

辻 この間の編纂委員会のときに、当時の豊田章一郎会長を山本さんと田代さんで説得に行ったという話をされました。豊田会長はそれまで市民活動法案等々についてそれほど理解があったわけではないということでしょうか?

青木 NPO法かどうかは分からないですよ。経団連が社会貢献についてどういう立場を取りうるかということについて、山本さんと田代さんが直談判に行ったらしいですよ。田代さんから聞いた話ですけど。「会長、それ間違っています」とまで言ったらしいんですよ。どういう内容なのかは知らないですけど。会長にそういうことを言うのはなかなか大変ですよね。企業でいえばクビ覚悟ですよね。

辻 やっぱり、経団連としても、政治的な具体的な取り組みをすることに、いままでのやり方からだいぶずれたということに、抵抗はあったということですか。

青木 その辺は分かりません。会長は象徴ですから。親分がどういう考えを持っているのかというのは、社会的にはものすごく重要なことですよね。田代さんが黒子になって、会長にこういうこと言ってくださいとか、経団連自体としてはこういう考えを持ってますからこういう方向で行きましょう、とかやるわけですよ。田代さんは急先鋒ですから、ラジカルですよね。豊田さんもまだよく勉強されてないなかで戸惑ったのではないですか。最初の段階ではうまく歯車が合わなかったのではないですか。よく分かりません。

辻 参議院の土壇場、一番大変なところでは、経団連としては、豊田会長以下、その動きをある程度支援してもいいよという話にはなったのでしょうか。

青木 ここにありますけど[15]、「魅力ある日本の創造」は機関決定ですから。これはもう憲法ですから。これが通っていれば、豊田会長もこの考えに基づいて行動されていたと思います。

安斎 「魅力ある日本の創造」は豊田さん自身が非常に熱心に力を入れていたものです。経団連としてのやや長期のビジョンですね。会長が代わって、これに類するものを数年後に出しましたけど。その辺で言えば、豊田さんもこの時点ではだいぶ理解が進んでいたんじゃないですかね。

山岡 ちょうど予定の時間になりましたので、今日はどうもありがとうございました。

 

[本文注]

[1] 配布資料:1%クラブ世話人会へのご来席のお願い

[2] 経団連事務局内の役職?

[3] 発足時の名称は、「企業の社会貢献活動(フィランスロピー)推進委員会」。

[4] 配布資料:1%クラブ世話人会ブリーフィング 「市民活動法案(NPO法案)」の社会的意義について

[5] 豊田章一郎,1996,『「魅力ある日本」の創造』東洋経済新報社.

[6] 全国経済人連合会。

[7] 女性の社会進出に関する部会長?

[8] 日本経団連社会貢献推進委員会「NPOとともに築く市民社会」1996年2月8日・9日?

[9] 経団連・社会本部「「市民活動促進法案」(いわゆる「NPO法案」)について」1997年9月24日.

[10] 明治生命・日本青年奉仕協会「新しい市民活動の法制度の動向と市民団体の役割」1996年2月7日?

[11] 日本青年奉仕協会・明治生命共編,1999,『NPOは地域を変える―ニューヨーク・ブロンクスの奇跡を中心に―』はる書房.

[12] 東京会場「コミュニティ再生の条件を考える―NPOを生かすシステム・生かさぬシステム―」コーディネーター林泰義、パネリスト白川すみ子、水田惠、ラルフ・ポーター、エミー・L・ブルスロフ。大阪会場「日本においてNPOは可能か―新たなニーズの担い手の条件を考える―」コーディネーター平山洋介、パネリスト宮西悠司、山田裕子、ラルフ・ポーター、エミー・L・ブルスロフ。1997年11月。

[13] ホームレスの自立支援団体。1990年設立、1999年にNPO法人格取得。

[14] ブロンクスにあるCDCのひとつ。ヒスパニック系?

[15] 当日配布資料:「市民活動促進法案」(いわゆる「NPO法案」)について、1997年9月24日、経団連・社会本部