• 日時:2011年12月19日
  • 場所:シーズ事務所
  • 協力者:松原 明(シーズ事務局長)  *肩書きは当時
  • インタビュー担当:辻 利夫・権妍李(筑波大大学院生)

 

インタビュー本編

辻 今回はNPO法制度に議員がどのように関わったのか、とくに2001年3月に制定された認定NPO法人制度をつくるときのNPO議員連盟の動きについてうかがいたいと思います。参考までに、当時の動きを時系列で整理した年表をもってきました。

松原 立法過程で大きく影響するのは、何党ができた、何党が潰れた、誰が分裂して選挙があったかという政局にからんだことで、それによって法制度の議論も大きく変わる。だから年表を作るときは、NPO法人制度の動きと政党や議連の動き、それから選挙を含めた政局、国政の動き、もう1つは一般的な社会の動きの3つの項目を必ず作っていただきたい。オウム真理教が大きく影響するときもあるし、暴力団事件が社会的問題になって法制度の議論に影響されるので、社会の動きと、政局の動きとNPO法の動きを3列にしてもらうと、いろいろなものがよりよく見えてくると思います。

とにかく、政局はものすごく影響しますね。例えば、議員連盟の中でも、加藤紘一さんのいわゆる“加藤の乱”(2000年10月)があったし、加藤さんは秘書給料の問題でも一回失脚しています。辻元清美さんも秘書給料の問題で失脚している。関係している議員が選挙で代わってしまうともろにロビーに響くんですね。

辻 辻元さんの秘書給与の流用問題は2002年ですか。

松原 2002年かな。2001年に認定NPO制度ができて、その翌年は認定制度の大改正とNPO法の第1回の改正をということで、NPO法案まで作って、その法案をNPO議連が中心になって議員立法でいこうというときなんですよ。加藤さんが“加藤の乱”で失脚して、辻元さんが失脚し、議連を額賀福志郎さんが引き継いで、額賀(福志郎)さんが苦労して議連をまとめてくれて、改正NPO法を通してくれたんですね。

辻 順番でいくと議員連盟結成から支援税制創設、NPO法改正ですね。NPO議員連盟はどのように関わるのですか。

松原 複数のアクターがいろいろと動いている。1998年3月にNPO法ができて、その年の12月に施行される。問題は附則にある3年以内の見直しで、これは決まったわけではなくて、議員に約束ごとを守らせるかどうか。これを守らせるために複数の手を打つのですが、アクターとして一番力が大きいのが財務省なんですね。このときの改正の一番大きなポイントは寄付税制をどうするか、つまり実質的には税制でした。財務省の下に今はなくなっていますけど、政府税制調査会、つまり政府税調があって、学者や財界人がメンバーとなっています。

辻 加藤寛とか石弘光といった学者が座長を務めていましたね。

松原 政府税調の対抗版として、自民党には自民税調がある。自民税調は1990年代後半から小泉さんの2004年ぐらいまでが最も力のあった絶頂期で、自民税調のドンと言われたのが山中貞則です。

辻 自民税調のメンバーは10数人いますが、その当時、実質的に力をもっていたのは最高顧問の山中貞則を頭とする5、6人でインナーと呼ばれていましたね。

松原 当時のインナーは津島雄二、野田毅、柳澤伯夫、相澤英之、宮下創平、林義郎といった顔ぶれで、2000年頃は林さんが会長、宮下さんが事務局長だったですね。こと税に関しては、山中貞則には首相でも思うようにならない。宮沢喜一も頭が上がらないし、財務省も頭が上がらない。なぜ山中貞則がドンと言われたかというと2つある。1つは、彼は税一筋で議員やってきた。税というのは、いろいろな利権団体の取り合いなんです。このさまざまな利権団体を長年、ずっと調整してきたので、この税をいじったら、この税の利権団体が文句をいうとか、この条文はかつてこの利権団体からこういう要望があったけど、これを変えたらお前どうするんだ、というようなことを全部、財務省の役人よりも詳しく知っているんですよ。だから財務省も頭が上がらない。もう1つは、山中貞則は党税調のドンとして消費税法案をつくって導入を推し進め、そのために総選挙(1990年)で落選する。次の選挙で当選して税調に戻り、消費税率を5%に上げるのに貢献した。財務省からすると、消費税の生みの親で最大の功労者で、しかも選挙にも落ちても信念を曲げない山中貞則には全く頭が上がらないんですよ。消費税を導入した時の首相の竹下登も亡くなって、自民税調は山中貞則の一人舞台になってしまったわけです。

98年の段階では、NPO法人制度は作れたけど、優遇税制については自民税調と財務省は頑として受け入れなかった。NPO法の附則で3年以内に見直しするとした事項には2つあって、1つは税、もう1つは法人制度ですが、実質的に一番大きなポイントが寄付税制をどうするか、認定NPO法人制度が作れるか否かでした。98年のNPO法制定後の政局は、7月の参院選の前に自社さ連立が解消し、与党3党税調はなくなる。自民党は参院選で惨敗して小沢一郎の自由党と連立して99年1月に小渕内閣ができる。10月に公明党が加わって自自公連立政権となる。このころは与党税調が上手く機能しなくて、その後も十分機能しなかった。基本的には98年以降は自民党税調の一人舞台なんですよ。

NPOの寄付税制をつくるには、自民税調の山中貞則にウンといわせないといけない。これを落とすことが最大の課題で、それには超党派で取り組まないといけないというのが加藤紘一さんと辻元清美さんと山崎拓さんとの共通見解だったんですね。そのために二重の仕掛けをしようというのが加藤紘一さんの戦略で、1つは自民党の政調の中に、自民税調に対応するものとしてNPOの特別委員会を作らせる。もう1つが寄付税制とNPO法改正を議員立法でやるための超党派の議員連盟をつくる。ただし、共産党は除くんですね。ここがNPO税制の1つのきもです。

加藤さんがもう1つチャレンジしようと思ったことは、税法改正を議員立法でやろうとしたことです。NPO法は議員立法でとてもうまくいった。税法改正も超党派で、議員立法でできないかと。それは加藤さんとしても面白いというので、議員立法のための枠組みのためとして、議員連盟を作ろうとなって、1999年8月に議員連盟ができた。ただし、自民党税調には、税制改正の時にOKを言ってくれないと 議員立法はできないから、99年の11月に自民党税調を落とすために自民党政調の中にNPO特別委員会を設けたという意味で二重構成なんですよ。

NPO特別委員会は愛知和男さんが会長になった。政調の事務局長は簡単にいえば、自民税調に要望をあげなくてはいけないんですよ。NPO特別委員会からも政調のもとで、税調に要望をあげるわけです。加藤さんは1995年の時に政調会長で、その後は盟友の山崎拓さんが政調会長で加藤さんは幹事長になっている。議員連盟ができる99年の政調会長は山崎さんの後で加藤派の池田行彦さん。98年から2000年の加藤の乱までは、加藤さんは宏池会の会長になっていて絶頂期だったんです。そういうときですから、加藤さんにしてみれば政調の中にNPO特別委員会をつくるのは簡単だったんですよ。

当時の加藤さんは次期首相候補と呼ばれて、絶頂期にあったのです。加藤さんは、各党との手練手管がよくわかっている人でした。 政治とは面白いもので、表では喧嘩しているけれど、結構裏では仲良くやっているんですよ。驚いたのは、新進党が1996年の住専国会で審議拒否して完全に国会を止めたなかで、新進党の中堅議員と自民党の議員が議員会館で仲良くお話している。表と裏の顔があって、加藤紘一さんは結構顔が広い人で、 鳩山由紀夫さんとも仲がいい。苦手にしている議員は苦手にしているけど。自民党の各会派、だから当時の竹下さんとか、田中派を継いだ経世会とはすごく仲がよかったんです。当時宏池会は、宮沢喜一さんが握っていたんですが。加藤さんは宮沢喜一さんを追い落として、宏池会の実権をにぎるということで、宏池会が割れたんですね。

加藤さんとしては、宏池会と経世会の連合を作って自民党の各派閥を抑えて、自分が首相になろうという野望をもっている。彼は経世会を取りこめる自信もあったんですよ。自分が首相になるという前提をもって、NPO特別委員会と議員連盟で議員立法をやろうとしたんです。自分が首相になるときのためには、社民党ともちゃんとパイプ作りをしておかないといけないと考えて、辻元さんはその当時は社民党の次のホープなんで、辻元さんを抱き込み、他の政党の政治家を抱き込めると思って99年に議連を作ったんです。その時は一番上に加藤さんがトップで、次は鳩山さんです。鳩山さんはその議連の時の挨拶でお世辞に、ついにここで加藤政権が樹立されたようなもんですねと、お話しされたんです。税制だけを考えたら、本当は自民党内の調整で実質的に決まってしまって、議連を作る必要はなかったんです。NPO議連を作ったのは議員立法が面白いからやろうと、それからできれば加藤さんがいろんな与野党との調整する場を持ちたかったということです。

一方、われわれ市民団体側としては、自民党のNPO特別委員会だけに話せるということは、やはりやりにくいということもあるので、超党派で議連を作ってもらって、ここと話をしながら政党なり市民団体に持って行った方がやりやすいと。自民党は議連をつくるときの原則は全部派閥均衡で議連のメンバーを作ることと共産党を除く。共産党を入れると、議連自体が成り立たなくなるんですね。こういうのはどこで決まるかというと、飲み屋で決まる。

 2001年の優遇税制ができる時、議員立法でできなかったのは加藤の乱のせいですか。

松原 まさにそうです。その前に当時の税制改正の仕組みをお話ししますと、自民党税調で全て決めることが大前提で、政府側と自民党側で、一種のチャンバラ劇をやるんです。やるための舞台が完全にできあがっていて、政府側は担当省庁、例えば、福祉問題は厚生労働省、NPOなら経済企画庁、内閣府。自民党の方は担当の部会、厚生労働部会とか省庁に対応したいろいろな部会があって、各部会が団体から要望をうけて、税に関しては税調に、予算に関しては政調に出す。同じように政府も各業界団体の担当団体の要望を受けて、財務省に予算案と税の要望をだす。このデッドラインは必ず8月末で決まっているんです。8月末に決めるため、表では見えないんですが、実は8月中旬にこの4者の間で、すり合わせが行われるんです。このぐらいの要望だったら出してもまあ、検討するよ。この要望はちょっとだめだねとか。この調整が大体8月20日まで行われるんです。

だからその大枠について8月の上旬に決まってしまうんですね。2000年のときは、6月頃にNPO特別委員会で税制などについて要望を受け付けて、8月までの間に調整が行われ、8月中旬には認定NPO法人制度はOKということが財務省と自民税調の調整で基本的に決まっていた。当時の加藤さんは自信満々ですから、絶対にできるという前提の下に議連のキャンペーンを全国各地で始めていて、議員立法でつくることにチャレンジする。税制を議員立法でする例があるのか調べていて、前例がないわけではないと分かったので動いたわけですね。

まず議連から提言を出させて、NPO特別委員会で話を進めて、当時の財務省には加藤さんの調整が効いて、そのときの主税局長と加藤さんはツーカーの仲で、NPO税制にOKが出て、税調のドンの山中貞則さんも基本的にはOKだったんでしょう。8月中旬に国税庁からも、国税庁が認定するのであればOKという返事があって、自民党の政調もそうしたら超党派の議連でやりますかという感じで議連で議員立法に向け動いていたんですね。8月には、基本的な大枠、例えばPST(パブリックサポートテスト)を入れるとか、PB(パブリックベネフィット:寄付金の7割支出基準・事業費の8割支出基準)で行くとか、国税庁の認定などが決まったというわけですね。NPO特別委員会から要望もほぼそろえて、後は自民税調と10月下旬に交渉に入って、そこで細かい要件は詰めましょうということになっていたわけです。自民税調でOKを出して、党の税制改正大綱に載せて、その後で、議連で大綱案をまとめ議員立法にもっていくというシナリオでした。今回(2011年6月)の認定NPO法人制度の税制改正も民主党の大綱に乗っかって、最初は政府提案にするはずだったのを議員立法に持っていったということで、そういう前例が2000年の税制改正で出てきたんですね。

万事、順調に行くと思っていたなかで、2000年の10月に加藤の乱が起こったんです。加藤の乱が起こるやいなや、自民党が真っ二つに割れて、政調は機能がストップして、財務省は頭がフリーズして、税制改正は宙に浮いて、加藤の乱が決着するまで何も動かないという状況が続いた。われわれ市民団体側はもうあせって、要望書を持って自民党をぐるっと回って、大キャンペーンを繰り広げたんですよ。特に加藤の乱が敗れてから、正確には2000年11月20日の深夜、あの徹夜国会があって加藤さんが敗れて、翌日の21日にNPO議員連盟地方フォーラムin 東京の大イベントがあったのです。

辻 その集会中に加藤さんが入ってきたんだな。よくぞ来てくれたと感動した覚えがあります。

松原 あのときは、前日に大阪市で議員連盟のイベントに出ていて、終わってテレビみて、加藤事務所に電話して、加藤さんは明日来られますかと聞いたら、行きますと。11月20日、21日で加藤の乱が終わった。

辻 整理すると、加藤の乱で議連が動かなくなって、議員立法は頓挫し、政府提案として2001年3月に税制関連の税制一括法が成立して、10月施行で認定NPO法人制度が誕生したというわけです。NPO議員連盟はシーズが実質的に事務局ですか。

松原 NPO議員連盟の実質的事務局は、自民党の政調(田中耕一さん)でした。

 

辻 話はさかのぼって、98年3月にNPO法ができたときに、旧新進党が最後に矛をおさめたのは附則にNPO制度の見直しを書いて、見直しには税制も入っていることを附帯決議で確認したということですね。それで、その税制を動かす原動力がなにかいるねっという話でNPO議連をつくった。

松原 市民団体側はそれに対応させてNPO/NGOに関する税・法人制度改革連絡会をつくったわけです。連絡会は99年の6月8日で、議連と表裏一体にさせてつくったんです。

権 NPO議員連盟はどのような議員を誘うんですか。議連に入る手続きはどうするのですか。

松原 まず、このNPO法改正の場合だけでいうと、自民党の内部政治と、加藤さんの次の政権構想を考えて、誰を配置するかを考えたんですね。人事が一番大事なんですけど、このNPO議員連盟でも、加藤さんは俺は首相になるぞと、首相になるために、なおかつ議連で自民党の全会派を議連に入れたかったんです。だから、基本的に加藤さんは自分の派閥、加藤派の主要人物に声をかけてその人に入ってもらった。それから、各派閥で主要な人に入ってもらった。その次に、各党を担当する議員を作ってもらって、それらの議員で呼びかけ人団体を作る。そこから各党の議連を担当する議員を通して全議員にファクスを流して入りますかと誘って、入ると回答すれば、議連のメンバーになるというだけで、簡単なんですよ。ただこの時は、そうはいいながら、加藤さん中心のNPO議連なので、今後の事、つまり加藤政権のことを考えて、人事は、トップに加藤紘一さん、民主党は第2政党でしたから鳩山由紀夫さん、それから、社民党は辻元さん、公明党は富田さん、自由党は山本さんと各党と自民党の各派閥から世話人になってもらって、その世話人からNPO議連への参加を各党に呼び掛けて入る人は入るというかたちでした。

権 NPO議員連盟の議員の当選回数などを調べてみたんですが、リベラル派の議員が多かったですね。

松原 NPOは新しい概念で、どちらかといえばリベラル。加藤、鳩山、辻元さんあたりが呼び掛けているからね。山崎拓さんもいますけど、これはYKK(山崎・加藤・小泉)ラインです。NPO議連はYKKでなおかつリベラルということです。

権 民主党の議員だとしても、前は新党さきがけとか、日本新党とかの所属で、93年自民党が分裂するときに出てきた、結構、改革派の議員が多かったらしいですね。

松原 ボスにもよりけりで、小沢一郎さんはまったく関心がなかった、今もそうです。NPOに関心があるかどうか、あとは個人的な地盤というか、自分の選挙地盤でNPOをいれるかどうか、後援会にNPOを入れるかどうかで、結構変わってくる。小渕優子さんはお父さんの小渕首相が結構熱心だったとかで関心をもっている。経世会を継いで小渕さんが生きていたら、加藤さんに継承してくれるだろうと思ったが、うまく行かなかった。当時、森喜朗さんの主導で5人組があったわけじゃないですか。加藤さんはあれに反旗を翻したわけでしょう。彼の思惑としては経世会がこっちについてくれるだろうと思ったが、こっちについてくれなかったですね。基本はそういう人間関係で決まってくるので、あんまりリベラル、ノンリベラルとか言ってもしょうがない。ただ、要は新しいもの好きな人が集まった、それぐらいですね。

権 95年~98年のNPO法を作るときに関わった議員が、議連に全部入ったのですか。

松原 95~98年のNPO法の時は、新進党対自社さの大バトルがあったわけで、敗れた新進党側で快く思わなかった人は入らなかったです。最後は全会一致でできましたけど、河村たかしさんを始めとしてしぶしぶ折れた人たちが多数いて、その人たちは入らなかった。

河村さんはNPO法でかなり懲りたらしい。シーズの会員になってくれたけど、それ以後、NPOには手を出さなくなりました。

辻 旧新進党系が割れて、小沢派、河村系は入ってこなかったですね。

松原 新進党が分裂したときは、諸党が乱立して、しばらく、離反集合が続いたので、それにもよるんですよ。加藤さんが失脚したり、辻元さんが辞職したりもしたので、事務的にも議連が完全にストップした時があるので、声かけられなかったということもあって、あんまりその辺は組織的ではない。加藤、辻元が抜けて議連はガタガタのまま片肺飛行で続けてきたというのが実情ですね。NPO議員連盟は加藤さんが権力を握るときは有効ですが、加藤さんが権力を失った時は形だけのもので、特に税に関してはなんの有効性もない。超党派なので税制はできなくても、議員立法でNPO法改正ぐらいはできるんで、 2003年にNPO法改正をしましたが、その後はこれは有名無実になった。 むしろ2002年から民主党政権ができるまでは、シーズはずっと,自民党のNPO特別委員会にシフトして、そこを舞台に自民税調とも戦い、財務省との戦いを繰り返してきた。2002年から2008年の改正までの、一番大きな政党側のアクターは、自民党のNPO特別委員会です。自民党税調、財務省は野党の意見なんか全然聞きませんからね。

権 NPO特別委員会には、どのような議員が入っていますか。

松原 ここもころころ変わるんですけれど、特別委員会の委員長もずっと大体、加藤さんがやってきて、加藤さんが抜けて次が額賀さん、鴨下一郎さんがやってくれて、その後、三原朝彦さんが委員長になった。 三原さんがこの前の民主党政権交代で落ちて、特別委員会からいなくなる。自民党には、運動面の組織として、NPONGO関係団体局というのもありましたが、陳情処理だけで、政策に関係しない。ここに行っても政策に繋がらない。やはり政調が勝負なんです。

辻 政調、税調でほぼ決めて、最終的には総務会で、全員一致で決める。

松原 一応政調を通して、総務会。ただし、税に関しては、税調がすべて。このような複雑な調整過程があって、これを全部理解しないと、NPO法のロビーのことは分からない。議員連盟は、NPO法の改正のためにあるので、法人法だけを受け持って、税法はやれないんですよ。税法は自民党税調でやらなければ効果はない。今回は民主党政権に交代し、その後いろんな理由があって、去年12月にいきなり議連が復活して、今年大改正を成し遂げたんです。それにもいろんな背景があるので、今の議連と前の議連はかなり連続性はあるが、別のものと考えてください。今、民主党も同じことをやっているから、どこの国でも政治プロセスは同じで、やっぱり物事を決める段取りに必要なことは調整過程。自民党は長年ずっと与党やっていたので、こういう調整過程がしっかりしていたというか、こちらがしっかりできなかったというか。その壁に認定NPO法人制度が、特に加藤の乱の失敗でうまく乗り越えられなかったといえる。

辻 整理すると、NPO法を作るときは、94年に与党3党プロジェクトがあって、法律ができるまでは与党3党協議、ライバルは新進党。NPO法ができたあとは、一旦与党3党は崩れて行く。その後、税制改正とNPO法改正を議員立法でやるために議員連盟をつくり、税制対策として自民党税調に対し自民党政調にNPO特別委員会を設けて、2001年3月に認定NPO法人制度を導入し、NPO法の一部改正をしたけれど、加藤紘一さんが失脚して議員立法はできなかったということですか。議員連盟も実体としてそれで終わったことになりますか。

松原 終わったというよりは、休眠状態になったということですね。形だけは残って、その後何回かイベントはしていました。議連が休眠状態になってからは、シーズは自民党のNPO特別委員会をターゲットにした。

 

市民活動による税制度改革

辻 シーズはNPO法制定後、寄付税制の改正に取り組んで認定NPO法人制度が2001年3月に税制改正一括法で導入されたわけです。市民運動が税制改正の政治過程に関わって一定の成果をあげたとういうことは、今までなかったことではないかと思います。松原さんがアメリカのパブリックサポートテスト(PST)の日本版を考え、それで加藤紘一さんが動いて財務省を説得し、いろいろと仕掛けをつくって自民党税調に働きかけ寄付税制の導入を税制改正大綱に盛り込んだということで、自民党税調がすべてを決めるというパターンに少しは風穴をあけたのではないかと思いましたが、そこはどうですか。

松原 基本的には、そこは、なにも変わっていませんね。構造的に自民党税調は変わらなかった。ただ自民党税調に新しいルートを作ろうとは努力はしたんですけどね。辻さんも覚えていると思うけど、96年当時、東京都の税担当者に市民活動が税制を変えた歴史はないと言われたじゃないですか。税制を変えたかということでは、認定NPO法人制度ができて変えたとはいえますよね。ただ、税制を決める仕組みは変わらなかった。

NPO税制以前に、もし市民活動が税制を変えられなかったとすれば、要は今まで市民団体にとって、政治システムの理解とその利用の仕方について理解が不足していたからだと思いますね。 シーズが非常に特殊だったのは、自民党の流儀をきちんと学んで熟知して、その流儀にちゃんと乗っかって、その力を利用したというか、その力にしっかりと対応し、手配していたということですね。そういう点で見れば、自民党の税調が変わったというより、市民団体が変わったんじゃないですか。

辻 シーズが変えたということですね。

松原 市民団体の運動の仕方として、非常に新しいものではないでしょうかね。なおかつ、政治、政局ということをメカニズムとして捉えて、多様なパワーがある中で、2人ぐらいとか、3人ぐらいの小さい力がドライブして大きくなっていく、広がっていく方法があるということを作りだしたことは、やっぱりシーズの1つの運動方式だと思います。このあたり、辻さんは長い間、いろいろと市民運動をやってきてどう思いますか。

辻 NPO法をつくる過程で、各政党、市民団体から法案や試案、提案がいろいろと出されて、政党同士、市民団体同士、政党と市民団体とで、それぞれに法案の内容、立法化の手法や進め方などをめぐって議論をして、しかも東京だけでなく、関西や名古屋や仙台や広島などと全国各地域でも議論が広がっていった。シーズも新進党の河村たかしさんたちとは激しい論争をしたし、関西などの新進党案を支持する市民団体ともかなり議論をした。これをオープンにやったことで、それまで知られていなかったNPO法の必要性ということが市民団体に浸透していったと思う。それまでの多くの市民運動では東京で大体意見を決めて、そこに大体同じような意見の人たちが集まってセンター的なものを立ち上げて、全国に流し請願などでもう一回中央に持ってきて、社会党を中心にして運動を展開するというスタイル。共産党系はもっと中央主導ですね。シーズでは、シーズの法案で請願を集めるというのではなく、意識的に各地で議論を起こす、オープンに議論する場をつくる、そこから一致できる政策を確認しロビーイングに結集していくという立法運動にしたところがよかったと思いましたね。

松原 国会議員は、やはり地方から選ばれてくるわけですから、各地で議員が超党派で参加する議論の場を作っていったということですね。右、左ではない、それは東西冷戦が終わった後の状況だったからこそ、できたのかもしれません。その状況をしっかり活かせるかどうかというところでは、活かせたんだろうと思います。

辻 国会議員の地元の地方議会からNPO法を求める決議をあげていくとかといったこともしましたね。

松原 地方の市民団体にフォーラムのようなイベントを組んでもらって、その地域の国会議員を呼んで議論するということをやりましたね。たとえば宮城県では当時の自民党と民主党のNPO担当議員、愛知和男さんと岡崎とみ子さんがいたので、共産党なども含めて超党派ムードでイベントを行う。地元中心でどこかの党に偏らずに全党派に向けて運動を展開していった。

辻 それまでの立法運動でも各党の議員さんを呼んでシンポジウムをやることは珍しくないのですが、大体、東京でやるわけですよ。NPO法では、地方の市民団体がいくつか集まって主催して、地元の全党派の国会議員を呼んでやるというのは、今まであまりなかったんですね。あってもせいぜい大阪ですし、自民党の議員が出てくることはほぼなかった。NPO法では大阪、名古屋、仙台、広島、熊本、札幌で、超党派でしたからね。

松原 シーズの場合はイデオロギーを捨てましたから、超党派を対象にした一点突破方式だったので、非常にシンプルな運動スタイルです。僕も昔の市民運動のあり方はよく知っているんで、昔も一点突破、全面展開とか言ってましたが、一点突破した後は自分たちのイデオロギーを全面的に展開して運動していくことでした。シーズは本当に一点だけに絞ったから、イデオロギーを捨てて、靖国参拝賛成から原発反対まで、右翼も左翼もみなさんウェルカム、右翼にも宗教団体にもお願いをしてきました。

権 それまでの市民運動はイデオロギーで分かれていたんですか。

辻 僕は1960年代後半の新左翼系の学生運動から入って市民運動ということをやってきたから、その辺は大体分かりますが、市民運動は大体、政権党の自民党には反対で、反対の革新系でも社会党系とか共産党系があるわけですね。僕は1980年に情報公開法をつくる市民運動を始めたのですが、これはある意味では一点突破型です。自分たちが作ろうとする情報公開法は自分たちの利害だけで終わるものではないんですよ。それはある意味では政治構造を変える、政治のインフラ的なところを変える政策だから、NPO法もそうなんだけど、右とか左といったイデオロギーをこえるところがある。社会党だけに利益だとか、自民党だけに有利といったことではなかった。もっとも、情報公開制度やNPO法が左翼の考えだといわれればそれまでですけどね。ともかく国会で法律を通すためには多数党を中心に各党に働きかけないとできない。ただ、それまでの市民運動では自分たちの主張は自民党の保守と右翼みたいな議員には通じないよと最初からはずしていて、話が通じる革新系の社会党に行こうということだったんですね。もっとも、革新政党も建前と本音があって、社会党の基盤である労組や社会主義協会派、共産党もレーニン主義の民主集中の前衛党組織ですから、情報公開には本音では消極的でしたけどね。

松原 シーズの新しいところは最初から自民党に切り込んだところですね。95年以前に自民党政調に行って、ともかくよろしくお願いしますといって頭を下げてきましたから。

辻 情報公開の運動では、松原さんが言ったように、自民党の政治システムのやり方を研究して、それを利用しようというようなことは全然考えなかった。そこがすごい。ただ、それが可能だったのは自民党一党支配の構造が細川政権の誕生によって大きく変わったということはあります。

松原 政治の力学を勉強して、熟知して取り組んだということと、もう1つ、多くの市民団体とシーズの違いはロビーのやり方です。うちはボトムアップ型なんですよ。よく議員さんから言われることは、多くの市民団体、NPOは肩書きのある、えらい議員のところばかりに話しにいく。知り合いが大臣になると、喜んでそこへいって要望する。そうすると通るだろうと思っている。そうではないんだと言いました。政治決定システムは積み上げ型が基本なので、利害調整なのです。大臣になったから、すぐに通せると思う人がいっぱいいるがそうではないと。自分の知り合いが大臣になると、喜んでそこへいくというスタイルはかえって嫌われるだけ、権力者のところばかりにすりよって、底が見えてしまうといいます。シーズはずっと積み上げ型でやってきた。民主党政権になっても、基本では自民党の加藤紘一さんを大事にしてきたし、自民党政権時代でも、野党も大事にしてきました。民主党政権で以前からの知り合いが大臣になっていますが、喜んで行くことはしない。NPOは権力者のところだけに行ってもしょうがない。人事はそのときどきですぐに変わるじゃないですか。その時の組織、担当者も変わる。知り合いが大臣になると要望に行くというのは、多くの議員の反発を招くんですよ。いまだに多くの団体ではそれを続けている。あれはマイナスなんです。

シーズは、多くの人たちにNPOというプラットフォームを提供します。靖国神社賛成の人も役に立ちます。靖国神社を守る会の東条英機のお孫さんの娘さんはNPO法人を作っています。それもウェルカムです。靖国神社反対の人たちもウェルカムです。しかし、靖国神社をめぐってこの人たちを共通にするようなプラットフォームはできません。プラットフォームは言論の多様性、民主主義を守るための場であって、民主主義は反対の人がいるから大事なんです。

辻 市民運動はそうだと思います。情報公開もそうなんですけど、右翼の人だって利用しています。

松原 だからみんなが利用してくれる、一番基盤のプラットフォームを作ることがシーズの仕事なのですよ。民主主義ってほら、議会制民主主義をつくるっていうことを考えていただくと、議会制民主主義っていうのは、1つのプラットフォームじゃないですか。そこには共産党もあれば、自民党もあればね、公明党もあるわけですよ。そういうのをみんな利用するわけですよ。そういうプラットフォームが民主主義の中で大事であって、全党派を1つにするような政党を作ったら、それは大政翼賛会です。

権 もっと大きな組織と連合体があれば、政治、政府に対してもっと大きな影響力を与えることができると思いますけど。

松原 それはそうじゃないと思います。確かに、連合体は一定程度必要です。例えば、温暖化を阻止するためにもっと巨大なNPOの連合体ができあがれば、それは非常に大事なことで、温暖化を阻止するために、いろんなアドボカシーがもっとできればいいんですが、今の日本の連合体はあまりにも弱い。かといって、じゃあ温暖化を阻止するために原発がいいのか悪いのか、今は答えが出たみたいな感じがありますけど、去年だったら、答えは出ない話です。民主党政権では、NPO・NGO、原発、環境、福祉、教育というさまざまな課題について、内閣府、市民団体がそれをまとめるような会議を作ろうとしたわけですよ。しかし、そうした諸課題を一緒にするような枠組みというのは作れないし、作らない方がいい。多様な意見があった時に、その多様な意見が出しやすい環境は大事だけど、全部をまとめた「連合」のような組織は、市民団体側ではいらない。あまり大きすぎる連合体は、非効率だし、有効でもないと思います。

ただ、一方で、日本の市民団体の問題は、特定のテーマにおいても核となる団体が弱すぎるんですね。右にしても、左にしても。霞が関に対抗して、自分たちで、ちゃんとリサーチして、政策を作って、提言する能力が弱い。だから、特定テーマで核となる団体を強化して、その提言する能力を強化することはよいです。その提言の内容自体が右のものであろう、左のものであろうと、親北朝鮮であろうと、反北朝鮮であろうと、構わないと思いますよ。ただ、それをちゃんと事実とか、きちんとしたデータや調査に基づいた要望とか、そういうものがちゃんと揃えられないといけないと思います。今の市民団体は、あまりにも組織力が弱い。なので、調査もデータを揃えることも、関係者を構造化することもできない。いま霞が関だけが巨大なシンクタンクになっちゃったので、上手く対抗できない状況です。

でも、やっぱり、霞が関も限界に来ていて、もうあそこの調査能力もガタガタなんですよ。そうすると、やはり民間側で多様な能力を発揮していかなければならない。それは、賛成・反対があるものなんですよ。戦いがあって反対があって、意見も違う。その意見を戦わせるプラットフォーム、これは国会だけじゃなくて、市民側にも必要なんですよ。つまり、自分の意見だけでなく、反対する意見を含めて、議論できるプラットフォームが必要なのです。NPOは、反対者と協力して、プラットフォームを作らなければならない。しかし、今の市民側にそのプラットフォームがないんで、うちがやるとしたら、そのプラットフォームを作ることはできるけれど、そこから巨大な総合的な政策提言をすることはできないし、作るものでもないと思います。

もう一つは、組織の継続性が大事です。NPO法ではいろんな政治要求に合わせて、必要な組織を立ち上げて、NPO特別委員会とか、議連とか、その時どきに合わせて立ち上げたり、つぶれたりしながらやっていく。加藤さん、辻元さんがいないときは、額賀さんとかにしっかり働き掛けて特別委員会をしっかり継いでもらう。ともかく市民活動のアドボカシーは継続性が大事ですね。議員ってころころ変わるし、政党も変わるじゃないですか。選挙で落ちたりすると、こういう運動の継続性がなくなるんですよ。シーズは15年以上をやっている。一貫して、どこをどうしていくかというストラティジ―をずっと貫いてきたのはシーズの役割ですよね。それをその時どきの議員さんに役割をふって、ちゃんと改正の方策を提案していく。そうじゃないと一貫した法律ができない。政党のNPO担当者はころころかわる。NPO法制度の一貫性をあらしめるのは、外部のわれわれの役割で、政党に一貫性はない。加藤さん、辻元さんは一貫してやってるけど、議員は選挙で落ちたり、失脚したり、病気だったりするしね。次の選挙で上がってくればいいけど、上がってこれない人もいる。だれかが一貫性を持たなきゃいけないから、このNPO法に関してはシーズでしょうということです。情報公開にしても、温暖化にしても政党や議員でない一貫性を保つどこかが必要で、それが市民団体の役割でしょう。

 ありがとうございました。