「市民活動を支える制度をつくる会=シーズ」設立前後のNPO法をめぐる市民団体の動きに関して、林和孝氏にインタビューを実施した。林氏は生活クラブ生協・東京の職員として消費者運動や生活者ネットワークなどに関わり、1993年の東京ランポ立ち上げおよび1994年のシーズ結成で中心的役割を果たした。

なお、インタビューは2011年11月16日にまちぽっと事務所で実施した(聞き手:辻利夫・成元哲・原田峻、記録:辻利夫・原田峻)。 *肩書きは当時

  • 日時:2011年11月16日(水)17:00~18:30
  • 場所:まちぽっと事務所
  • 協力者:林 和孝(東京ランポ元理事、地域生活研究所事務局長)
  • インタビュー担当:辻 利夫・成 元哲・原田 峻

(補注)今回、ホームページに公開することになったので、再度事実関係について点検したうえで、表現を改め一部省略した個所がある(2017年7月 林和孝)。

 

インタビュー本編

辻 林さんは当時、生活クラブ生協・東京が取り組んでいた食とか水とか環境などで消費者の安全を求める市民運動、生活者ネットワークなどの市民の政治参加に中心的に関わっていて、1993年の東京ランポ設立の筋書を書いた人です。そうした背景で市民活動を強めていくことが必要であるということから、市民活動を促進する法制度をつくる研究と立法活動を東京ランポの柱の1つにしたわけです。今日は、生協を含めた当時の市民活動と立法運動の関連、東京ランポとシーズでの法案作成などについてうかがいます。

林 最初にNPO的な考え方を紹介したのは、林雄二郎さんと山岡義典さんの『日本の財団』(中公新書)という本だと思いますね。これは1984年に出ていて、第三セクターについてうまく整理した本です。当時は知らなかったけれど、あとから読んで、このあたりが市民セクターについて日本で最初に述べた本だったかと思いました。林雄二郎さんは、シーズの立ち上げのときに講演に来てくれましたよね。

NPO法みたいなものをつくろうという流れはいくつかありました。私たちの動きとしては、「市民活動支援・東京ランポ」という組織を、生活クラブ生協・東京の一室に構えたのが1993年の1月。辻さんが担当ということで入ってもらった。そこでNPO法の研究会を立ち上げたわけです。ランポという名前自体がNPOを組み込んでいるわけですね。これは辻さんが考えた。

辻 ランポはLA―NPOで、LAはローカルアクションの頭文字。団体名に当時はほとんど知られていなかったNPOを組み込もうと思って、あれこれ考えランポが浮かんだ。当然、江戸川乱歩を意識していました。市民活動センターとかいうのがありきたりでいやだったことと、よく分からないけど一度聞いたら耳に残る名前にしようと思ったんですね。なんですかと聞かれたら、NPOと立法運動について説明するという思惑ですね。

林 その前の動きとしては、公益法人協会で雨宮孝子さんたちが公益法人法をつくるという動きがありました。民法のなかに公益法人が組み込まれているけど、それを抜き出して公益法人法をつくる。今の一般社団・財団法・公益認定法の原型みたいなものを作っていました。私の周辺の市民活動では、1980年代の終わりごろから、林泰義さんが中心になった世田谷のまちづくり系の人たちのグループが、まちづくり条例に関連して、アメリカに調査に行って報告をしている。これがアメリカのNPO制度について日本に紹介した最初のほうじゃないかな、と思います。

 世田谷区が神戸に続いてまちづくり条例をつくったのが1982年で、90年代に入るとその改正が課題になっていたんですね。

林 世田谷区の職員や林泰義さんが視察に行った報告が『地域開発』という雑誌に載ったのを見たのが89年ですね(同年7月号)。90年10月に、生活クラブ生協に、林さんに来ていただいてワークショップをやったんです。そのときに世田谷のまちづくりとアメリカのNPOについて話してもらいました。僕なんかは、雑誌を読み、林さんの話を聞いて、アメリカには「そういう面白い制度があるのか」と思いました。

こうしたアメリカのNPOを紹介する流れは、90年代になってたくさん出てきた。アメリカのまちづくりについては、大野輝之さんという都庁の職員とハベ・レイコさんの2人の共著で、92年に『都市開発を考える』(岩波新書)という本が出ていました。また、第一総研の山岸秀雄氏がスタディツアーを請け負っていて、市民団体の人が何人かアメリカに行っています。そこでアメリカの草の根の活動を見てきているんです。僕自身も生活クラブの調査で、90年に、アメリカに行って社会的責任投資の団体をいくつか回ったんです。そこで非営利組織というものがあるのに気がついた。例えば、社会的責任投資の情報提供・コンサルタントをやっているNPOとか。

もうひとつが、カリフォルニアの大学を出た柏木宏さん、岡部一明さんたちがサンフランシスコやオークランドにJPRN(日本太平洋資料ネットワーク)という団体をつくって、日本に働きかけようとしていました。彼らは、日本の事務所を須田春海さんの市民運動全国センターに置かせてもらっていた。JPRNの情報が、アメリカのNPOについて最もまとまったものを提供してくれていましたね。柏木さんと話をして、トレーシ―・コナーズ編『NPOハンドブック』とかを入手したりして、NPOの知識をいろいろと得たということですね。また、岡部さんは、92年に「もうひとつの公共=NPO制度とは」という紹介論文を『技術と人間』(同年9月号)に寄稿しています。

これとは別に全国的な連絡組織として、ネットワーカーズ会議の流れが先行してありました。あとは自由人権協会で寄附税制の検討をやっていて、そこに首を突っ込んでいたのが松原明さんです。東京ランポの研究会は松原さん、広岡守穂さん(中央大学教授)、寺田良一さん(都留文科大学教授)とかがメンバーでした。雨宮さん、柏木さんにはゲストとして来てもらいました。整理すると、公益法人協会の雨宮さんたちの取り組み、世田谷のまちづくりの林泰義さんたちの動き、ネットワーカーズ会議、JPRN、あとはランポにつながる生活クラブの流れがあったということになりますね。

辻 ネットワーカーズ会議が92年の秋に川崎でアメリカから人を呼んで大きな会議をやったときに、神奈川県の職員で後に岸本幸子さんたちと組んでパブリックリソースセンターを作った久住剛さんたちのグループとか生活クラブの神奈川の人たちがスタッフで動いていたように思いますが、あれは生活クラブ・神奈川理事長の横田克巳さんとか、アリスセンターも関わっていたのかな。生活クラブ・神奈川と東京は、これについて連絡があったんですか。

 それはなかったですね。東京は独自にやっていたので。このころ生活クラブ・東京では、郵貯のボランティア貯金のような草の根市民基金助成を立ち上げようとしていました。それを93年5月の総代会に提案したら否決されたので、僕は資料を作って生活クラブの支部をぐるぐる回っていたことを思い出します。

草の根市民基金は、92年に、寺田良一さん、聖学院大学の柴田武男さんなどにも参加してもらって検討委員会を設置して、東京およびアジアのNPOに助成する制度を設計しました。寺田さんはさきほどの山岸さんが企画したツアーに参加し、アメリカのNPOを調査してきていて、ランポのNPO研究会のメンバーにもなってもらったわけですね。「草の根」という名称は彼の発案によるもので、そのツアーの名称でもあったと思います。

 今の「新しい公共」の根っこは90年前後なんですね。主なものはアメリカから来ているんですか。

 情報はアメリカから来ましたけど、必ずしもアメリカにならって意図的に動いたというわけではないと思います。アメリカの制度を参考にしながらも、僕らで独自の発想をしたと思いますけれども。たとえば、市民活動に焦点をあわせた法人法は、日本独自のものと言えるでしょう。

ランポはその後、日英交流でイギリスの制度も勉強しました。アメリカはやっぱり特殊な国で、イギリスの方がどちらかといえば参考になることが多いかなとも思いますね。イギリスで面白いのは、ロッタリー・ファンド、宝くじです。日本では宝くじの益金が地方自治体に行っているけれど、イギリスでは自治体よりもNPO(ボランタリー・セクター)に行くという仕組みですね。

そういう中で、ランポの研究会で法案をつくって、それを94年初めに『月刊自治研』に発表しました[1]。これが最初の市民活動推進法案要綱ですね。これと前後して、ニッセイとか住信とかのシンクタンクから報告書が出ましたが、その中ではNIRAのレポートの影響力が特に大きいですね。これを受けて4月にランポが中心になって開催したシンポジウムに山岡さんに来ていただいた。このシンポジウムにはかなり幅広い人が来ましたね。

辻 その前に、林さんが『朝日新聞』の「論壇」で市民活動促進法案とシンポジウムを開くことを書いたのが利いたんですよね。それで問い合わせがかなり入りました。思っていた以上に注目されているのだと、ちょっと驚きました。

 その後、シンポジウムに集まった人びとによって、94年の秋にシーズを設立しました。最初シーズを作ったときは、辻さんたちの情報公開法の立法運動が10年やってもできていなかったから、「シーズはNPO法が10年でできなければやめよう」と言っていたんです。そこに阪神・淡路大震災が起きて、にわかにボランティアや市民の公益活動に対する関心が高まったわけですね。

僕は松原さん、弁護士の浅野晋さんと3人でシーズの市民活動促進法案づくりに関わりました。地震の後で、シーズの中心メンバーが次々に神戸に行ってしまう中で、シーズの事務所で3人で細々と作業をしていた思い出があります。また、浅野さんが、市民がつくる法律には他法の準用というやり方はやめようと言っていたことも思い出しますね。準用ができないと条文はやたら長くなりますが、元の法律を参照するという厄介なことをする必要はなくなります。

95年の1月の衆議院予算委員会で自民党の加藤紘一政調会長がNPO支援制度についての質問をして、五十嵐広三官房長官がボランティア支援立法を検討すると答弁しました。そこで2月のはじめころだったと思いますが、社会党衆議院議員であった五島正規氏の秘書がたまたたま知り合いだったので、五島氏の紹介で、松原さんを連れて官房長官に会いにいきました。それがシーズのロビイングのはじまりの時期ではなかったかと思います。

そのあとは、その流れでロビイングに付き合いました。主にさきがけとか社会党ですね。社会党は政調会の事務局長が話しやすかった。松原さんのほうが、さきがけの方にタッチして、堂本暁子さんとか五十嵐文彦さんを中心にロビーしていた。当時、さきがけの政調会長が旧知の菅直人さんだったので、彼にも会いに行きましたね。

 シーズの資料で、94年の12月から参議院法制局を呼んでテーマ別に勉強会を開いていたのが出てきたんですが、法制局関係は和田征さんとか橘幸信さんとか、林さんの紹介ではなかったですか。

 参議院法制局のことは、たぶん僕が関与したんだろうとは思いますが、記憶がぼやけています。国会の法制局は議員立法の補佐をするので、議員からの発注がないと動けません。だれに頼んだのかも、よく覚えていませんね。衆議院法制局の橘さんはその後の議員立法にかかわっていきます。

河村たかし氏が新進党として作った法律案があって、それについて批判をしたら「これは衆議院法制局が作った」と言うので、河村たかし氏と一緒に法制局に行ってドンパチやりました。同席したメンバーが、それで何の不都合があるのですかと、法制局に問いただしていたことが強く印象に残っていますね。そこに橘さんもいました。その会合が終わって、河村さんたちと赤坂で食事をしましたが、そこでも彼と論争になりました。

政治の流れでは、93年6月に日本新党が都議会議員選挙で「非営利法人基本条例」を提案するんです。これは実を言うと、その直前に日本新党が立ち上がっていて、たまたま辻さんの知り合いの安藤博さん(情報公開法を求める市民運動運営委員)が中心にいた。安藤博さんは元朝日新聞の記者で、後輩の記者が細川護煕氏だったのですね。あのときは都議選が控えていて、生活者ネットと日本新党とで「政策協議をしませんか」ということになって、僕がNPOの話をしたんですね。そのときに日本新党の政策スタッフにいたのが市村浩一郎さんです。彼はアメリカでNPOのことを勉強してきたというので、都議選でNPOの制度化を出しましょうという。法人制度は条例ではできないのでだめですけど、ただ、NPOについて最初に政治面でとりあげたのが日本新党です。もちろん、生活者ネットもNPOの制度化を主張していました。そのときは新党ブームにあやかって、日本新党と生活者ネットは共通政策があるという売り出し方をしようと思ったんですけど、それは見事に失敗しました。生活者ネットの中に日本新党との連携に反対する人たちがいましたので。

原田 条例では法人ができないと分かった上で、あえて打ち出したんでしょうか?

 都議選のあとに衆議院選挙が控えていたから、衆院選の政策も含めてあえて打ち出したということだったと思いますよ。

原田 林さんがシーズを離れたのは95年くらいですか。

 離れたのではありません。シーズの法律案を作った後は、シーズの運営委員にはランポからは辻さんが出ているのでお任せすることにした。シーズの会合には、そのあともときどき顔を出していたと思いますし、松原さんとはよく会っていました。僕は生協のスタッフだから、NPOには側面支援というスタンスになっていきます。シーズの財政維持のために、連合東京や東京都生協連に賛助会費のお願いに行ったこともあります。そのあと、97年に石毛鍈子さんが衆議院議員になって、彼女を推した関係から生協を休職して彼女の政策秘書になったので、さらにこちらの立場が変わっちゃったのです。法律ができるときに国会の審議する側にいたものですから。もちろん立法運動のバックアップはしましたが。

原田 林さんはそもそも、どこに着目して立法運動を始めたんですか。

林 日本の市民運動は代表者の自宅が事務局になっていたりして、制度的に活動基盤が弱いのですね。アメリカに行って、NPOを訪問すると、ときにはビルに広い事務所を構えていて、博士号を持っている職員がいたりする。日本でも、しっかりした財政的・人的基盤をもった市民活動をつくって、それを持続的な営みにしていきたいなと思いました。法人格や寄附税制をきっかけとして、その基盤をつくりたいと思ったわけです。当時いろいろな活動を一緒にやっていた市民運動全国センターの須田春海さんとは、すこし考え方が違いましたが。須田さんは法人格で分けなくていいんじゃないかという考え。消費者団体の中にも、法人格を取ることに警戒心が強い部分がありましたね。「良い市民団体/悪い市民団体」と仕分けされるんじゃないかと。われわれはとにかく、市民活動のインフラを整備すべきだということで走ったわけです。

原田 お話をうかがっていると、シーズは前史がまちづくりや生協が中心で、立ちあがってからはNGOが中心になるんですが、そこでコンフリクトはなかったのですか。

辻 シーズを立ち上げる前に準備会を設け、月2回ぐらいのペースでいろいろな団体や市民が集まってけっこう密度の濃い議論をしましたから、シーズが目指す法案の内容やゴールが一致していたので、シーズに参加した団体ではとくにコンフリクトはなかったですね。そのあとも、新進党などの動きなどに対しシーズの中ではぶれていないんですよ。

林 参加したグループの間ではコンフリクトはまったくなかったですね。田中尚輝氏のグループや、山岸氏のグループなどとは違いがありましたけれども。山岸さんは制度の創設よりもマネジメントの支援をすべきだって言っていましたね。

原田 山岸さんはシーズに反対だったんですか。

辻 反対ではないけれど、一線を画していましたね。彼はマネジメントやNPOを普及するほうをしばらくやるんだと。彼がNPOサポートセンターを設立するというときに、僕と松原さんも呼びかけられて行って、会場の中で「一緒に立法活動をやりましょう」という発言をしたら、「自分たちはまだやらないので、そっちでやってね」という話だったんです。須田さんもシーズに入りましたが、ロビイングなどでは一歩距離を置いていましたね。シーズの松原さんの発言力が強かったのも、シャプラニールやJVC、NGOのネットワーク組織のJANICといった主要なNGOから福祉系、生協系の団体、まちづくりの団体まで幅広くまとめていたことと、東京や神奈川の生活者ネット、生活クラブの運動で自治体議会で決議を上げていくとか、シーズはそういうローカルなところでも強かったということもひとつはあったと思いますね。

原田 シーズは、法人格と寄付と情報公開の三本柱で一致していたのですか。

辻 そこは一致していました。情報公開は政府ではなく市民が監督するという理念ですね。ぼくらは情報公開の運動をやっていましたから、このアイディアはランポの研究会で出したんです。

林 役所の統制ではなく、市民のコントロールによるということですね。

原田 最初のシーズはいろんな団体の集合体で、その後、松原さんの存在感が増していっている印象を受けるんですが、専門性が強まってきているのですか。

林 シーズはさまざまな団体が入って、幅広さはずっと続いたけれど、もともと立法のための組織だから専門的にならざるを得ませんね。法律を作るとなると専門的になって、特化されてくるわけです。しかし、松原さんは啓発的なセミナーをしょっちゅう開催していて、われわれの政策の普及に努めていました。そこに多くの新しい参加者があった。法人化や寄附税制に対する市民団体のニーズがあって、僕らの提案はそれにうまく噛みあったんだと思うんですね。そしてそこに、松原さんのエネルギッシュな活動があったということでしょうね。

98年にNPO法ができるとこれで目標が達成されたという感じになったので、シーズは松原事務所のようになっていったとは言えますね。ただ、その後の取得しやすい認定NPO制度や寄附の税額控除の実現は、だれよりも松原さんの執念のたまもので、彼の功績です。

シーズはさっきも言ったように、あくまで時限的なプロジェクトで、松原さんが「寄付税制ができていないから」というので引っぱっていったわけですけども、多くの人は、「NPO法ができればいいんじゃないですか」というのはありましたね。

 シーズの内部でもその議論はありました。立法過程で河村たかしさんのグループが税制を前面に立てきてゴリゴリと押してきてシーズと対決し、そこは宿題にして先延ばししてNPO法を成立させたという経緯があった。そのため、シーズとしてはそこは意地でもやらないといけないということと、やはりシーズの立法の3つの原則の1つが優遇税制で、市民活動の基盤整備には寄付税制が不可欠ということで存続を決めました。

林 河村たかし氏の案は、農協の中央会みたいな指導機関を作って、そこが認めたら税制を優遇するというものですね。

辻 地域を基盤にして中央会があってというもので、彼らの発想は、税制優遇の根拠は地域貢献でやろうという組み立てをしたんです。

林 われわれはそういうのはナンセンスだと思いました。中央会というのは、農協にしろ、中小企業等協同組合にしても、官僚統制の肩代わりです。市村さんなどもその発想でした。われわれはそれはなくていいよということですね。それ以来、松原さん・シーズと新進党の河村たかし・市村さんと対立していくわけです。

辻 市村さんはいまだにNPO法を認めていませんからね。

 彼はNPO法はやめて、公益法人制度に組み込むべきだという主張ですよね。それは長い目で見ればそういう方向もありますけれども。ただし、今の公益認定法のできはよくない。たとえば「収支相償」という概念がある。営利法人は営利を出さなければいけないけれど、非営利法人は収支がトントンでなければならないという。そんなにうまく行くわけがないじゃないですか、そんな基準を持ってくることがおかしい。「収支相償」は営利法人を規定するにはいいけれど、非営利法人に「収支相償」を持ってきてはいけない。ここでは営利と非営利は非対称なんですよ。公益認定基準は、そういういろんな問題があります。あとは一般社団法人のほうは小さい団体にとってガバナンスが重たいとか、という問題があります。そういう問題が改善されれば、NPOを社団・財団法人に統合するというのもあるけれど、今のところは統合しないほうがいいですね。

辻 今日はどうもありがとうございました。

(了)

 

利夫さんインタビュー

林氏のインタビューに先立って、東京ランポの研究会、シーズ立ち上げ等の事情を、成 元哲・原田 峻が、当プロジェクトの事務局である辻に事前のヒアリングを行った。このヒアリングの参考として次頁以下に掲載する。 *肩書きは当時

  • 日時:2011年10月13日(木)15:30~18:00
  • 場所:JICA地球ひろば
  • 協力者:辻 利夫(まちぽっと事務局長、シーズ理事)
  • インタビュー担当:成 元哲・原田 峻

 

インタビュー本編

 環境gooというホームページで、シーズについての詳しい記述[2]を見つけたんですが。私が知っている限り、一番詳しいですね。私たちは、こういうものを学問的に記述したいと思っています。

 中心になるのは93年、94年だろうと思って、この年の手帳で目に付いたものをメモにとってきました。シーズが結成される前の準備会の動きが中心です。当時、私のところの東京ランポが準備会の事務局をやっていて、私が議事録を作っていましたが、議事録が散逸してあまり記録が残っていないと思います。私と松原さんの出会いは、93年2月15日の情報公開法の研究会だったんです。私は、情報公開法を求める市民運動をやっていて、まだ情報公開法ができていない頃です。このときに、松原さんがひょっこり現れたんですよ。「見たことがない奴がいるな」と思って、終わったあとで一杯飲みながら話をした。「僕は、東京ランポという市民団体を立ち上げたばかりで、何をやるかという1つがNPO法なんだ」と言ったんです。東京ランポが正式にできるのは93年4月なんですけど、私は1月から転職して、準備をしていたんですね。そしたら彼が、「大阪にいたんだけど、市民活動法をつくるために東京に来た」と言うので、「まったく奇遇だね」と意気投合した。

松原さんは91年までは大阪で広告代理店に勤めていて、あわせて東チモールのNGOやっていましたから。なぜ市民活動法案を作ろうと思い立ったのかは彼に聞くといいですけど、早かったですよね。NGOの活動の中から出てきたんだと思います。それで彼は東京に出てきて、関連のところを回っていたようです。その中で情報公開法の研究会を知って現れたみたいです。当時、情報公開の事務所が、原後法律事務所の分室を使っていたんですが、原後さんの息子がA Seed Japanに関わっていたので、どうもその関係で知ったんじゃないかと思うんですけどね。情報公開の研究会には、自由人権協会などの弁護士さんたちが集まっていたんです。

それで、93年の3月1日に、ランポで市民活動促進法試案の研究会の第1回があって、松原さんが1回目から来た。市民活動促進法をつくろうという発想は、生活クラブ生協の組織部にいた林和孝さんですね。生活クラブって政治志向なんですよ。生活者ネットワークをつくって、自治体の議員になるという運動をやっていた。林和孝さんの考え方は、日本に市民活動を盛んにしたい、そのための基盤を作りたいというもので、1990年に生活クラブでアメリカに調査に行っているんですよ。そのあと帰ってきて、92年の秋、東京に市民活動のシンクタンク的なものを作りたいという話になり、生活クラブがスポンサーになって東京ランポができる。その活動の1つが市民活動促進法をつくることで、もう1つが東京都の臨海副都心開発への見直しを求める「臨海部市民アクション」の事務局をやるということですね。臨海部市民アクションは、ランポが事務局になって、代替案を作る検討委員会を設け、東大の大西隆さんや東洋大の内田雄造さんなどに入ってもらいました。ランポの運営委員のメンバーは、奥津茂樹、三木由紀子の情報公開関係と、臨海部市民アクションの人たちと生活クラブの人たちに、須田春海さん、須田さんの後継に当たる菅原敏夫さん。そのあたりを運営委員にして、東京ランポは4月に正式発足したんですが、2月頃から市民活動促進の研究会と臨海部市民アクションと、ランポのオリジナルのセミナーを始めていたんですね。

このメモを見ると、93年1月にTOES JAPAN会議[3]というのがあるんですよ。何かと言うと、この年の7月に赤坂で東京サミット[4]があったので、それに対する、もうひとつのサミットということで、世界各国のNGOがサミットに焦点をあわせて、アジェンダを出して先進国の首脳にロビイングをかける。そのTOESの面倒をみる事務局を、須田さんや、地球の友とかJVCとか、環境系の団体が集まって、受け入れ組織を作ろうということになった。その事務局をランポがやることになったのです。TOESを通して、ランポとNGOとの付き合いが生じていたんですね。松原さんも東チモールだし、研究会にNGOの人を呼ぼうということで、アムネスティとかに声をかけた。シーズでNGOが主流を占めたのは、そういう経緯があるんですね。

研究会には、アジア太平洋資料ネットワーク(JPRN )の柏木宏さんが最初からいましたね。あとは中央大の広岡守穂さんとか、都留文科大の寺田良一さんとか、学者だとその辺かな。林さんの人脈で呼んでいました。最初は5、6人で始めて、そこに松原さんが来た。彼は既にアイディアを溜めていましたから、1回目の研究会のときに今のパワポ・スタイルのレジュメを作ってきたんですよ。A4の横書き。広告代理店では既にそういうプレゼンをしていたらしいんですけど、「すごいやつが来た」と新鮮だったという記憶がありましたね。

研究会の1つの目的が市民活動促進法試案を作ることで、案が固まってきたのが93年の12月くらいかな。そのときから、準則主義、情報公開、優遇税制という三本柱で行くことにした。市民活動促進法は準則主義でいきたいという原則を立てて、所轄官庁の許認可を外すかわりに、市民活動なんだから市民がチェックするということにした。都道府県で情報の閲覧ができるという形で公開して、市民がチェックし監督としようという情報公開の発想は、当時の周りにはなかったと思いますね。あとは、アメリカのNPO法を参考に作るというだけでは浸透しないだろうから、市民団体が法人格を取るメリットを出さないといけないねという話になった。当時、郵政省が第三種郵便を締め付けるということをやっていて、柏木さんがアメリカのNPOの資料を出してきて、NPOにはダイレクトメールの優遇があると。郵便料金の改定にあわせて、郵便料金優遇を取ろうということで攻めていったんですよ。その関係で、日本消費者連盟とかにアプローチしたんですね。それまで消費者団体とか主婦連とかは、市民活動促進法について知らなかったんですよ。生協関係も消費者団体仲間なんです。消費者団体連合会や地域婦人団体連絡会といったところと、僕が情報公開の市民運動をやっていたときに付き合いがあったので、その辺を引っ張り込むと裾野が広がるぞと。そこで運動を全国展開しようという目論見だったんですね。

試案の条文のスタイルを作ったのは、林さんですね。彼は、生活クラブの前に社会党参議院の和田静夫議員の秘書、今でいう政策秘書みたいなことをやっていたんですよ。政策や法案づくりに強くて、彼が親しかった参議院法制局のスタッフを通して橘(幸信)さんを紹介してもらったと思う。そうした法律的なプロの人脈もあって、試案と言っても精度が高いものを作れたのは、その辺ですね。

試案ができたので発表しようということで、シンポジウムを開きましょうと。そのときにNIRAが報告書を作ったので、山岡さんに声をかけたんですね。94年の4月23日に新宿の全労済の会議室で開催しました。こういう制度を考えるというのがポピュラーに登場したのは、初めてだと思うんですね。それ以前は、どちらかと言うと専門家が集まってやっていたので。

92年秋にネットワーカーズ会議があって、分科会の一つで法人制度が必要だというテーマは入っていたんですけど、それ自体をテーマにしたシンポジウムは初めてだったでしょうね。「100人くればいいね」と言っていたのが、200人来た。多くの人が関心を持っているんだと気付きましたね。パネリストには日消連がいて、JANICがいて。あとで参加者名簿を見ると、さまざまな分野の市民団体、研究者、自治体職員、助成団体などいろいろな人が来ていたんですね。

このときに、林さんがランポ案の三本柱を出しました。他のパネリストは、山岡さんたちがNIRAの研究報告をした。石村耕治さんは自由人権協会の税制プロジェクトにいた人で、NPO税制の第一人者ですね。あとは、JPRNの柏木さん。富山洋子さんが日消連。(伊藤道雄さんの)JANICはNGOをまとめていました。矢花(公平)さんは弁護士で市民フォーラム2001で活動していた。市民フォーラムの代表が岩崎駿介さんですね。山岡さんは当時、長谷工の研究所にいたんですね。山岡さんは木原(勝彬)さんのところの『地域創造』という雑誌で、山岡・木原・佐野(章二)の3人が座談会をしていて、公益法人に変わる制度がいると言っている、それが91年です。その話をネットワーカーズ会議に盛り込んでいたんですね。松原さんも関西にいたので、そういう動きは知っていたと思うんですよ。

山岡さんたちがNIRAの報告書を作ったのは、実態を調査するということで、そっちから手をつけていったんですけど、僕らのほうは、いつまでも研究でいるよりも運動に持って行ったほうがいいということで始めたわけですね。そこにNGOの若手・中堅の人たちが来ていたので、早く制度をつくろうとなって、その急先鋒がアムネスティの片野光庸さんでした。アムネスティは法人を取ろうとして、片野さんがその担当で、えらい苦労していた。外務省と法務省の境界でたらい回しにされて、この時点ですでに3年間くらい役人相手にいろいろやっていて、恨みつらみが骨髄に達しているんですね。その辺の人たちがランポの研究会に集まっていた。僕らのところは、制度作りの運動でいこうというスタンスでした。シンポジウムを企画した時点で、これをきっかけに運動をやろうという話になっていて、制度を作るための立法運動体をつくることを集会決議という形でアピールして、拍手でやりましょうということになったのです。それで準備会を始めたのです。その準備会の事務局をランポで引き受けた。5月10日に新宿モノリスで準備会の打ち合わせをやって、6月7日が第1回の準備会です。このときに、「市民活動を支える制度を作る会」という仮称を付けたんですね。

 シンポジウムのパネリストについて、もう少し詳しく教えてもらえますか。一人だけ外人(シャロン・ビハール)が混ざっていますけど、誰が連れてきたんですか?

 シャロン・ビハールを連れてきたのは、全米野生生物連盟のリチャード・フォレスト氏ですね。フォレストは、地球の友・日本の事務局に来ていたんですよ。地球の友が、TOESの事務局にいたんです。その付き合いで僕がフォレストと知り合って、「こういうシンポジウムをやるんだけど、誰かいないか?」と聞いて、ビハールを紹介してもらったんです。その後も、フォレストとはシーズでずっと付き合っていました。シンポジウムの中心は、松原さん・林さん・僕がランポで、柏木さんも研究会で一緒でした。矢花さんはもとはJVCなんですけど、「熱帯雨林保護法律家リーグ」として出ていました。

「呼びかけ人」の名前を見ると、いろんな人がいますね。ランディ・ヘルトンは地球の友。アースデイの斉藤容子さんの名前もありますね。全米野生生物連盟の斉藤友世さんは、リチャード・フォレストを紹介してくれた人です。石毛鍈子さんは生活クラブ系の「アビリティクラブ・たすけあい」の理事長です。TOESの関係でいた人も何人かいて、重なっていますよね。情報公開関係は奥津(茂樹)君とか僕とか。呼びかけ人は、われわれに接点があった人たちなので、NGO系と生協系が多いですね。

 こうした流れが、シーズに合流するんですね。事務局長はなんで松原さんがなったんですか?

 元もと、松原さんにしようという話でした。他の人は自分の団体を持っていますけど、彼だけはなかったから(*東チモール関連のNGOをやっていたが、専従ではなかった)。情熱と能力と若さがあるから、満場一致でした。ただ、シンポジウムの時点ではまだ決まっていなくて、具体化するのは9月かな。このころは、松原さんと週に2回くらい会って、準備会の合間に打ち合わせをしていた。この間にも、ランポの研究会は結構やっていたんです。ここに出ているように、準備会の会場は神楽坂のジャパンエコロジーセンターを使っていて、高見祐一さんに無償で提供してもらっていました。彼は、「日本リサイクル運動市民の会」をつくり、その後らでぃっしゅぼーやを作った。当時は、さきがけに入って議員になっていましたね。NPO関係では有力な人だったんです。さきがけのNPS研究会は、94年にできているんですけど。この資料(NPS研究会報告書)の講師のメンバーを見ると、「日本リサイクル運動市民の会」の徳江(倫明)さんが入っていますね。徳江さんが入っているということは、「日本リサイクル運動市民の会」がNPS関係で既に動いていたんですよ、その代表が高見さんですから。

 徳江さんは水俣の関係ですよね?

 そうです。水俣に柳田耕一さんがいて、実は柳田さんがTOESにいたんです。そういう関係で、ジャパンエコロジーセンターを借りることができました。場所の話を続けると、千代田区中小企業センターは、JANICが予約を取ってくれたんですね。それで、94年7月29日に、市村君と松原君と僕の3人で会った。当時、市村君は日本新党にいたのかな。このへんからシーズを名乗り始めたんですね。「市民活動~」は長いよね、Citizen’sだからC’sで、シーズにしようとアイディアを出したのは笹川平和財団の高田幸四郎君です。彼は、笹川平和財団としてではなく、個人的に準備会に入っていたんですね。彼はネットワーカーズ会議に関係していて、山岡さん、渡辺(元)さん、佐野さん、木原さんたちと財団関係で横の連携があって、制度を作らなきゃということでランポに来たんです。9月には「シーズプロジェクト」を立ち上げて、法案検討会を始めています。その頃松原さんと一緒に、八王子のPAN(芸能文化振興会議)の事務所まで高比良さんにも会いに行きました。一緒にやりましょうと言いに行ったんです。

 94年にいろいろ動きがあったんですね。

 運動ですから、ともかく底辺を広げなきゃいけないというのがあるので。少々の違いはあれ、一緒にやれるところは一緒にやりましょう、という流れでしたね。このとき、堀田力さんとも会っていると思うんですよ。田中尚輝氏もいたと思うな。準備会を月に2回ペースで開いて、立法運動体をどういう組織にするかということと、シーズが出す制度の議論と、立法の戦術と、大きく3つかな。ランポで作った試案をもとにして、どういう制度にしていったらいいか、いろんな意見が出ましたよね。情報公開でいいのかとか、悪用されるじゃないかとか、今も言われるような議論があった。JANICは、一定の条件を付けて認めないという自主基準を付けようと言って、僕らは「それでは東証の一部上場・二部上場と同じじゃないか」「株式会社だって悪用しようと思えばいくらでもできるし、開かれている以上は仕方ないんだ」といった議論をしましたね。JANICは外務省からODAに関連したお金がNGOに出ているので、外務省からそういうNGOの信頼性のようなことを言われているんでしょうね。伊藤さんはどちらかと言うと外務省の意向を配慮するところがあって、アムネスティやJVCは反政府的なところがあるので、同じJANICの中でもいろいろとあるんですね。

原田 この準備会のなかで抜けた人とかはいなかったんですか?

 シーズは、正会員は団体会員に限っていたんですよ。団体が入らないので個人で来ざるを得なかった人はいたけど、抜けた団体はなかったと思います。

成 最初の24団体というのは、呼びかけ人と重なっているんですか?

辻 重なっていますね。最初のニュースレターに出ていると思うんですけど。主要メンバーで大きな団体は、JVC、曹洞宗ボランティア、シャプラニール、アムネスティ、それをまとめているJANICかな?あとは、A Seed Japanは半年くらい遅れて入ってきたかな。10月には、JVCの谷山さんと松原さんと3人で打ち合わせとありますね。

 事務所ができたのが10月頃ですか?

 そうですね。事務所は飯田橋に見つけました。最初は柏木さんのJPRN東京事務所とシェアしたんですね。彼は、その前は須田さんのところにいたんですが、サンフランシスコかオークランドでJPRNというNPOを岡部一明さんと一緒にやっていた。日本からアメリカに視察に行くときの代理店みたいなことをやっていて、その東京事務所的なものを柏木さんが一人でやっていたんです。平河町の市民運動全国センターの事務所の2階の踊り場のところに柏木さんの机があって、その奥に須田さんたちがいた。郵便料金の運動をやっていたときは、柏木さんも入って平河町で打ち合わせをしていました。

原田 運営委員会の資料に、会議に出ていた方が載っていますね。

 そうです。アジア財団の黒田かをりさんは、この頃から個人で来ていたんですね。

 正会員団体の市民外交センターというのは?

辻 これは、今は恵泉女学園大学の上村英明さん、中央大学の広岡守穂さんたちの団体です。運営委員の菅原敏夫さん(ネイバーフッドジャパン)も、東京ランポの理事なんですよ。根本悦子さんはこの頃は「まともな食べ物」という団体で、スリランカでNGOをやっている方ですね。今もシーズの理事をやっていますけど。SVCは曹洞宗ボランティアですね。浅野晋さんは弁護士でアルコール問題市民協会です。この浅野さんと林・松原という3人が、法律の骨格を作っていくんですね。松原さんは、「林和孝さんと浅野さんに出会ったことが良かった」と言ってますね。彼は知識はあるけど、法制度のことは詳しくないから、法案をどういうふうに作っていくかを林さん・浅野さんに教えてもらっていた。彼らは、シーズとしての法案のオリジナリティをどこに持っていくか考えることができたので。そこが、山岡さんたちとは違ったところだと思いますね。「ロビーは松原・辻でやって、法は雨宮と林・浅野」という話をしていたんですね。雨宮さんは実際は入らなかったんですけど。

原田 林和孝さんのお名前は、途中から見なくなる気がするんですが?

辻 彼は、東京ランポの一員だから、抜けてはいなくて、必要な時に出てきていたんです。シーズに入っている団体は、シーズという肩書として松原さんを出すけど、個々の団体はシーズとしては出てこないんですよ。95年に政府に18省庁連絡会議ができた後で「市民活動の制度に関する連絡会」をつくりますが、今のNPO/NGOに関する税・法人制度連絡会の原型ですよね。連絡会の最初は、シーズと、山岡さんたち「考える会」と、関西の「NPO研究フォーラム」の3つです。関西グループは、大阪大学の本間正明さん、山内直人さん、サントリー財団の出口正之さん、名古屋市立大の跡田直澄さんたち。そのあとに堀田力氏と田中尚輝氏の福祉のグループが入ってくる。シーズに入っている団体は、連絡会には入らない。あくまでシーズを通して、という形で運動に関わっていましたから。シーズの運営委員会で議論したものを結論として、シーズとして表に出てくる時点では見解が一致している。

原田 制度連絡会の人たちがシーズに入ることは?

辻 なかったですね。中心メンバーの山岡さんや渡辺元さんたちは、自分の団体を持っていなかったですから。勤め先はあっても、自分の団体はないんですよ。世古(一穂)さんも「考える会」として来ていました。考える会はNIRAグループですよね。山岡さんは、シーズの顧問になりましたけど。実質的に、制度連絡会は3つのグループでスタートしたのです。そのあとに、堀田グループやPANが入るんですが。

考える会は、特別法という方針ではまとまっていなくて、民法改正という本筋の案もあってNIRAの報告書でも3案を出していたと思います。僕らは特別法の一本です。民法に手を出していたら10年かかってもできないから。関西グループはまた色が違う。でも、連絡会で情報交換をして、「国が作るものはつぶそう」というので一致していたんです。「市民活動促進法を国がつくってはいけない」というのが基本ですよね。そこはシーズの中で議論をして、シーズ単独では戦えないので、連絡会を呼びかけたのです。

原田 武者小路(公秀)先生がシーズの代表というのは?

辻 代表を誰にするかとなって、候補がいろいろ出ていたんですけど。自民党を相手にすると、運動上がりの連中はまずいだろう。社会的信用もあって、NGO業界からも一目置かれている、武者小路さんということになったんです。このころは解放同盟系のNGOと深く関係していたんですね。武者小路さんはお名前だけでもすごいので(笑)。僕と松原さんの二人で自宅を訪ねて口説いたんです。オーケーもらったのは10月ぐらい、シーズ設立のギリギリでした。

武者小路さんが頭で、副代表にJANICの伊藤さんを立てて、もう一人、若くて女性で活きのいいのがということで、福島瑞穂さんを持ってきたんです。女性弁護士で本も出しているので、僕の関係で声をかけた。福島さんは当時、仙谷由人さんの弁護士事務所にいたんですよ。自由人権協会の理事をやっていて、マスコミに持てはやされていたから。法律を作るという運動は固いので、世間受けすることも狙った。僕とか高田さんあたりで、「おじさん連れてくるよりは、女性の法律家がいいよね」って話をしていましたね。

原田 ロビイングのノウハウは誰が知っていたんですか?

辻 それは、林さんと僕。松原さんはその頃は知らなかったから。林さんは政策秘書をやっていたし、僕は情報公開運動をやっていたので。シーズを11月に設立し、12月16日の参議院法制局のレクチャーを、既に始めているんですよ。林さんと親しい和田さんというスタッフに来てもらって、法制局に「こういう法律がなぜ必要なのか」をレクチャーする。テーマを決めて、1回目が国際協力で、JVCの谷山さんとシャプラニールの川口さんを呼んで、東チモールの松原さんと合わせて3人が、法制局の担当者の前で立法趣旨やニーズを説明する。「自分たちがどういう活動をしていて、どういうことに困っているか」といった話をした。

16日のレクチャーの後には、「NPO与党事務局立ち上げ」と書いてあるでしょ?ここで、菅直人さんが出てくる。衆議院でNPO法制化の打ち合わせというのをやっているんですけど、出てきたのは、社会党の政調の河野道夫さんという、須田さんの大の仲良しの人。さきがけの高見祐一の秘書の栂坂さんという今は民主党の政調の人。衆議院法制局の橘さん、自治労執行委員の川端さん、社会党国民運動局の人権問題担当の上田さん、さきがけの政策調査会で高見(省次)さん、あとは菅さん。橘さんは最初からいるんですね。あとは、参議院社会党の峰崎直樹さんに会ったりとか。

12月26日の参議院法制局のレクチャーは、テーマが「福祉」ですね。やわらぎの石川治江さんに来てもらって、浅野さんがアルコール問題市民協会として来た。1月以降は、3回目が「地域、まちづくり」でアリスセンターの川崎あやさんと全国街並み保存連盟の石川忠臣さん。4回目が「環境」でフォーラム市民2001の岩崎さんと、京都・環境市民の杦本さん。5回目が「レビュー」で須田さんと松原さん、というプログラムでしたね。

 この頃からテーマが行き届いていますね。参議院が受けてくれたというのは不思議なんですが。

辻 それは、林さんの人脈ですよ。和田さんといったかな、法制局スタッフの人がいて。須田さんも知り合いだったので。須田さんは、社会党の河野さんと二人で、議員会館で円卓会議をやっていたんですよ。テーマを決めて市民団体が集まって、議員や法制局に来てもらって。そういう付き合いで、法制局の人たちとシンパシーがあった。和田静夫の秘書をしていた林さんもそこに加わっていて、須田・河野・林ラインというのがあって、そういうのが活きていましたね。こういうことは、山岡さんや渡辺さんたちにはできなかったでしょうね。ロビイングや立法運動というところはシーズ。後々は、制度連絡会がシーズを事務局にしてロビイングの主体になっていくんですが。連絡会を通すということは、この運動が全国レベルだということを示すために活用していましたね。関西からはあまり来られなくて、早瀬さんがたまに来ていた。

原田 このころ、東京・大阪以外の地域からは来ていたんですか?

 セミナーをやると来るんですよ。仙台の加藤哲夫さんも来ていたと思います。みやぎNPOセンターができたのは98年くらい?日本NPOセンター、大阪NPOセンターの次は、みやぎだったですよね。あとは、広島の藤田さんもしょっちゅう来ていました。それは、法律が見えてきた97年くらいの頃のことです。それまでは、関東を中心に集まって連絡会を作ったということですね。シーズのスタンスとしては、一致できるところがあったら連絡会を通してロビイングをやる、ということにしていたんですよ。一致できないところではシーズ単独でやるんですが。自民党には、連絡会で名前を揃えていたほうがいいじゃないですか。シーズの説明のときは、加盟団体のリストを出すんです。そういうようなロビイングの仕方ですね。

第三回のシーズ運営委員会資料に、いろいろ書いてありますね。収入目標500万円というのは、当然ですが目標ですよ(笑)。松原君の給料25万円を出せるように。11月から雇っていたんです。それに事務経費もありますし。収入をどうしようっていつも言っていました。他団体の動きとしては、NIRAがあって、山本正さんの日本国際交流センターがあって、経団連がある。1月以降の行動計画として、「1万団体署名活動」とセミナーをやろうというのが出ていますね。この署名活動で、いろんなところに声掛けをして、地方議会から制定の決議を上げていこうというのが目標でした。

震災の直前ですが、交流会をやろうという企画も出ていたんですね。震災のあとは、ニュースレターにいろんなことが出てきますね。立ち上げの頃は事務局ニュースにも載っています。震災前まではこんな感じで、震災が起こってからは、ガラガラと動きが速くなるんですよ。それまでは、こちらのペースでゆっくりやっていた訳ですけど。政党で動き始めたのがさきがけぐらいだったので、議員にアタックしようと始めていたんです。

 浅野さんや林さんや松原さんにインタビューに行きたいですね。

辻 シーズが法案検討委員会を作って、何がオリジナルだったのかを聞いてみるといいと思いますよ。情報公開を入れたこととか。法制局に作らせると既存の法律にはまってしまうから、当時の公益法人と変わらなくなる。法律の枠内で、市民活動の促進の法律としてそれらしくなる、というのが工夫のしどころでしたね。立法運動体は他にもあったとは思うんですけど、常勤の職員を置いて本格的にやるというところは他にはなかったと思います。

須田さんが市民立法機構を作ったときに、シーズの動きは、そのモデル例とされました。情報公開とNPOが、市民立法の成功例と言われているんですね。情報公開法は、78年ころから法制度化の動きがあって、ぼくらと日消連のグループと自由人権協会の3つが核となって立法運動体つくったんです。公害や薬害で情報公開ができなくて揉めていた団体を集めました。運動体ができたのが80年で、法律ができたのは98年です。20年近くかかったわけですね。基本的に作り方がNPO法と同じなんです。ある種のネットワーク型組織で、「情報公開法を求める市民運動」という名前にしたのは、会ではなく市民運動のネットワーク型を意識したのです。シーズのネットワーク型の発想のもとはここなんです。はじめは国の壁があまりにも厚くて、先に自治体で情報公開条例をどんどん作って、外堀を埋める戦略に変えたんですね。最後は、本丸の国だと。クリアリングハウスが10周年になって、本をまとめていますよ。僕も運動の前史みたいなものを書いています。

 今日はどうもありがとうございました。

 

[本文注]

[1] 「市民活動推進法の展望」『月刊自治研』36巻3号。

[2] http://eco.goo.ne.jp/work/NPO/vol14/

[3] TOESとは、1984年から始まった「もう一つの経済サミット(The Other Economic Summit)」のこと。

[4] 第19回先進国首脳会議(東京サミット)