NPO法制定以前の市民団体の動きについて、渡辺元氏にインタビューを実施した。渡辺氏は、トヨタ財団のプログラム・オフィサーとして助成プログラム(主として研究および市民活動)の開発・運営等を担当する一方、日本ネットワーカーズ会議などの活動で中心的役割を果たした。トヨタ財団プログラム部長兼事務局次長を経て、現在は同財団プログラム・アドバイザー。2007—2011年度まで立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任教授。
インタビューは、2012年12月13日に日本NPOセンター会議室で実施した(聞き手:山岡義典・辻利夫・原田峻、記録:辻利夫・原田峻)。 *肩書きは当時
- 日時:2012年12月13日(木)15:30~17:00
- 場所:日本NPOセンター会議室
- 協力者:渡辺 元(トヨタ財団プログラム・アドバイザー)
- インタビュー担当:山岡 義典・辻 利夫・原田 峻
インタビュー本編
山岡 今日は渡辺元さんに日本ネットワーカーズ会議の話を中心にうかがいます。日本ネットワーカーズ会議は1989年開催が第1回ですけど、NPO法の制定過程ということでいうと、1992年 開催の第2回が基本的には立法をターゲットにした大きな会議だったので、これを中心にしたいと思います。その前史として、ネットワーキング研究会があって、それが日本ネットワーカーズ会議として展開するので、前史の話を若干していただきたい。その後で第2回のフォーラムを中心にして、いろいろなメンバーが出たり入ったりしているので、その辺の事実関係をはっきりさせておきたい。それから、その後のメンバーたちの動きなどもうかがいたい。
渡辺さんに事実関係をできるだけ思い出して、伝えていただけたらと思いますので、まず前史というか、第1回のフォーラム以前のネットワーク会議の成り立ちと目標と、どういうことをやってきたか、どうしてそれが第2回の会議につながっていったかというところを話してください。
渡辺 だいぶ前のことになるので忘れている部分も多く、その関係で話が前後したりするかも知れませんが、そこはご容赦ください。今、山岡さんからお話しがあったように、特にNPO法との関連で言えば、そのきっかけのようなことになったのは、92年に私たちが開催した第2回「日本ネットワーカーズ・フォーラム」でした。その元になったのが、「ネットワーキング研究会」です。『ネットワーキング』という本が日本で出版されたのは84年だと思います。著者は、アメリカのボストンでネットワーキング研究所を主宰していたジェシカ・リップナックとジェフリー・スタンプスというご夫妻です。この本は、社会的なインパクトという点で、一人ひとりでは弱い個人あるいは一つひとつでは弱い団体が、社会的課題を共有し、緩やかに連携しながらその解決に向けて取り組んでいくという、思想であり哲学を基本にして書かれていたわけです。
それに触発されて研究会を始めたのが、元・「日本青年奉仕協会(JYVA)」に関わっていた人たちで、中心となったのは、奈良の「たんぽぽの家」理事長の播磨靖夫さんです。初めの頃は自主的に行っていたのですが、その後、私も出入りするようになったことをきっかけに、トヨタ財団として非公募・計画型の助成をすることになった。84、85、87年度の3回だったと記憶しています。助成当初の研究会代表者は、先の『ネットワーキング』の監修者にもなっている正村公宏さん(専修大学・教授)でした。
研究会の趣旨は、アメリカから直輸入された「ネットワーキング」をそのまま日本に当てはめるのではなく、それを参考にしながら「日本型のネットワーキングのあり方」をさまざまな角度から探ることを目的に、関係するキーパーソンを招いて話を聞き議論をしました。やがて私も深く関わるようになるにしたがい、その成果を世に問うようなことをやろうと思いました。そして、財団の出張でアメリカ行った際にリップナック・スタンプス夫妻にお会いして来日講演をお願いしたところ、その場でご快諾いただきました。それで、ご夫妻を招聘しての第1回目を1989年の11月に東京と大阪で『ネットワーキングが拓く新しい世界』をテーマに開催しました。
フォーラムを行って分かったことは、アメリカの場合は「個人」という概念がはっきりしており、その個人が参加する社会的受け皿、今で言うNPOのようなものですが、そうした組織やそれらから成る民間非営利のセクターが非常にしっかりしている。しっかりしているがゆえに、その反面、ややもすると個別的になるため、ネットワークすることで社会的な共通課題の解決に向けてガバナンスしていくというのが『ネットワーキング』の本質だということです。
翻って日本の場合、ネットワーク以前に、そのベースとなる個人の動向や団体の状況は、アメリカ社会におけるそれらと比べると極めて弱い。そこで、社会的な問題意識を持った人たちを、参加・動員していくための仕組みが必要だろうという話しになった。そして議論が進むうちに、「NPO」が焦点として浮かび上がってきたということです。その時に大きな役割を発揮したのが、研究会メンバーで神奈川県庁職員の久住剛さんと鈴木健一さんだったと思います。その2人からの指摘を皮切りに「NPOのことを勉強していこう」ということになり、研究会ではそれからしばらくはNPOに関する議論等を行っていくことになりました。
ところで、「日本ネットワーカーズ会議」というのは組織名ですが、第1回のフォーラムの時点では、組織名もフォーラム名も同じ名称で「第1回日本ネットワーカーズ会議」としました。第2回目の際には、フォーラム自体は「日本ネットワーカーズ・フォーラム」とし、主催としては「日本ネットワーカーズ会議」ということにしました。第2回のフォーラムは、研究会の過程で知り合ったデボラ・マクグロフリンさんのアレンジにより、アメリカのNPO、それもリベラル派NPOのリーダー格にあったロバート・ボズウェル、リチャード・スミス、クレイグ・ケネディという3人のキーパーソンを招いて、92年の10月31日と11月1日に川崎市のKSPで開催、その後、名古屋と大阪でも開催し、最後は経団連でも社会貢献活動に関係する企業人の参加を得て行いました。報告書の表紙からわかるように、「NPO」という言葉を広く社会に表したのは、おそらく、この第2回フォーラムが初めてかも知れません。
「ネットワーキングを形に!」を主題に、副題として「個人と社会の新しいあり方を考える」というコンセプトを打ち出せたのは、当時、立教大学法学部教授で研究会代表だった栗原彬さんの示唆が大きかったです。一方、90年代のこのあたりからは企業の社会貢献活動などが活発化しはじめ、経団連を中心にこれを本格的に広げていこうとする動きも出てきます。そこで、フォーラムでは、企業の社会貢献活動も視野に入れつつ、「ネットワーキングを形に」していくために、民間非営利活動を社会に定着させていく仕組みづくりに向けた議論を展開していきました。
報告書最後の「フォーラムを振り返って」という箇所で、法制度の必要性も含み、いくつかの留意点について私が言及しています。フォーラムから抽出した考察として、(報告書の)126ページに「ネットワーキングを社会的にインパクトあるものとしていくための方策として、1)日本におけるNPO創出の可能性、2)市民活動のためのマネージメント、3)市民活動と企業とのパートナーシップのあり方」ということを書いています。そういう中で、「市民活動を支援するための機能と組織及び制度の検討」ということなどを提起しています。
その背景の一つとして、フォーラムの中ではアメリカのNPO制度に関する話もあったわけですが、当時それに詳しかった「日本太平洋資料ネットワーク」(米国)の柏木宏さん(現在、大阪市立大学教授)などの協力も得ることで、制度の必要性について種々発信ができたということです。企業の社会貢献活動を視野に入れた点や、NPOを社会に定着してくための法制度の必要性など、NPOをキーワードに発信していった点は、当時としては画期的な試みであり、先駆的な意味を持っていたと思っています。報告書の125ページでも「認知と支援のための法制度の創設」と書かれていますが、これは久住氏によるものだったと思います。
このフォーラムに参加した佐野(章二)さん、当時は地域調査計画研究所を主宰されており、今は「ビッグイシュー」の代表者ですが、大変感銘を受けられたようでした。そして、市民活動を定着していくための仕組みの一つとしても法制度の必要性を感じられ、その後、日本ネットワーカーズ会議とは別にNIRA(総合研究開発機構)からの受託で、「市民公益活動の基盤整備に関する調査研究」という取り組みに着手しました。またその成果を踏まえ、更に第2弾として「市民公益活動の基盤整備に関する法と制度の検討」にも取り組むことになりました。その時の中心者は奈良まちづくりセンター・代表の木原勝彬さん、研究座長としては山岡さん、事務局長的な存在として佐野さんの3人でした。私も幹事としてメンバーの一人に入りました。確かその時のオブザーバーとして、後のシーズ代表の松原(明)さんや議員となった市村(浩一郎)さんも参加しており、更に途中から市民活動情報センター代表の今瀬(政司)さんも加わっていました。そういう意味では、当時の「市民公益活動の基盤整備の調査研究」では、その後に活躍する主要な人たちを巻き込んでいったということになるでしょうか。
92年のNPOを核に据えたネットワーカーズ・フォーラムのインパクトは、その後いろいろなところに伝わり、94年だったと思いますが、「チャリティー法に関する国際会議」がイギリスで開催された際、なぜか日本ネットワーカーズ会議に声がかかりました。それで急遽、久住さんが調整役となってデレゲーションを編成し、訪英して日本の状況を報告することになりました。山岡さんを団長に、佐野さん、雨森(孝悦)さんなど、10人ぐらいで行きましたかね。イギリス現地では、跡田(直澄)さんも本間(正明)さんの代わりで合流しましたが、本間さんや跡田さんは、その後「日本NPO学会」の設立に向けて尽力されましたね。
山岡 都賀(潔子)さんが通訳でした。この国際会議は1994年9月16-17日にロンドン郊外で開催されて、内容については私が「民間公益活動の展望と課題」と題して『月刊福祉』(1994.12)に紹介しています。
渡辺 そうでした。都賀さんは通訳のみならず、現地コーディネーターとしての貢献も大きかったです。さて、チャリティー法の対象はイングランドとウェールズで、スコットランドは入っていませんが、要するに国際化・グローバル化の流れの中で、「英国内のみで議論していたのでは、時代状況・国際状況に鑑みて、もはや不十分なのではないか」といった考えが背景にあったようです。そのような高い見識を持った人たちが、他の海外の状況、アメリカのみでなく、アジアの動向も含め、開いた議論を幅広く行いたいという趣旨だったように思います。そんなことで日本ネットワーカーズ会議にも突然声がかかって来たようですが、正直、驚きましたね。それで急遽デレゲーションを組んで、行くことにしたわけです。
そして、(英国では)日本の状況はおそらく初めて聞く参加者がほとんどだろうから、「日本の非営利活動等に関する概要など、全体状況を簡潔に伝える資料を作成する必要があるだろう」ということで、この『Current situation and issues concerning public-interest activities in Japan』、『日本における公益活動の現状と課題』という、これも都賀さんにだいぶ協力してもらいましたが、英文で40~50ページぐらいの冊子をカバーまで付けて作成しました。会場に行ってみたところ、他国の種々の資料がありましたが、日本ネットワーカーズ会議の資料が一番立派だったと記憶しています(笑)。実際、持っていった冊子は全部なくなりました。考えてみれば、日本の状況が体系的に整理され、簡潔に理解できるような英語で発信された資料等は、恐らく、あの頃はまだ無かったですから、他国の関係者が欲しがるのは当然だったかもしれませんね。
会議自体は、他国の非営利活動やセクターに関する状況や制度に関する報告が種々盛りだくさんにあって、よく理解できないことも多かったのですが、一番の収穫としては、世界中の非営利セクターにおいてリーダーシップを発揮している素晴らしい人々と出会えたことでした。そこでつながった人の何人かには、その後、日本ネットワーカーズ会議が開催した国際会議等のために、日本に来ていただいたりもしました。要するに、チャリティ法の国際会議に参加したことによって、国際的なつながりが広がっていったということですね。
その後95年に私が中心になって、『JNC調査報告書 非営利団体と社会的基盤』という報告書を出すことになります。何故こうした調査を行ったかというと、いわゆるインフラストラクチャーという、(英題で)Designing non-profit support infrastructureと書いてありますが、先にお話ししたNIRAの第2次研究、つまり「市民公益活動の基盤整備に関する法と制度の研究」を進めている時でしたかね?「阪神・淡路大震災」が起きたのは。
山岡 第1回の会議を94年の12月に開いて、翌年の1月に震災が起こって、これは悠長な研究ばっかりやっちゃおれないな、もうほんとに法律を作る前提で研究を進めようっていうことになった。
渡辺 確か、そうでしたよね。実際、(報告書の)第1版が出たのは95年6月、第2版は95年10月に出ている。そして、NIRAの研究を踏まえた流れは法制度化の方向に向かいました。一方、震災以降、時の国会でも「ボランティア支援立法」の動きが起こりましたが、それに疑問を持った多くの関係者が関心をもつ国会議員等も巻き込みながら、市民活動を広く促進していくためのNPO法をつくろうという運動を起していった。その辺の経緯は、別に譲りますが、「法律はいずれにしてもできていくだろう」という想定のもと、法律ができれば、それに関連して、必ずその対象を推進していくための動きが別途出てくるだろうと考えたわけです。そこで、「市民立法として“民”が主体となって法の制定を実現するのであれば、推進機関に相当するものも“民”が主体となって取り組むべきだ」という考えのもとで、先ずは、「そのための基盤作りに関する調査をやろう」ということで、そのターゲットをアメリカに求めたわけです。
そして、第2回日本ネットワーカーズ・フォーラムのときから協力してもらっていたデボラ・マクグロフリンさんに米国側のカウンターパートになっていただき、現地での調査対象などのアレンジやコーディネーションなどを行ってもらいました。その中の一つに、Independent Sectorという米国を代表するinfrastructure organization(NPOの基盤的組織)がありましたが、これがその後、「日本NPOセンター」創設に向けた基本的なモデルになっていったということです。
もう一つ、日本NPOセンターの方向性を決める際の元となった「infrastructure organization」という言葉と概念が本当に正しいのかという疑問がありました。類似する概念として「intermediary」という言葉があったのですが、「intermediaryとは何か違うな」ということで種々調べたところ、intermediaryは金と人の「仲介」なんですね。これに対して、「infrastructure organization」 とは、NPOのための出会いの場だったり情報の拠点だったり、ある種のプラットフォームのような概念なんですね。ですから私どもとしては、「そういうものを作っていく必要があるよね」ということで、「NPOを推進するための、いわば支援機関にあたるような組織は、infrastructure organizationという概念に沿った考え方で取り組んでいく必要があるだろう」と思ったわけです。ただ、そうしたことを確証を持って打ち出すことができないでいるなかで、当時日本国際交流センターにいらした嘉村弘さんが、それに打ってつけの報告書があるというアドバイスをくれました。Union Instituteというところから出ていた「社会に影響を及ぼす700のinfrastructure organization」というタイトルだったと思うのですが、それを見て「ああ、これだ!」と思ったわけです。それで推進機関は、infrastructure organizationという考え方で進めていくべきだろうということにしました。
訪米報告は『日本NPOセンター設立に関わる訪米調査報告書』として1997年3月に同センターから出ますが、その後、NPO法ができたら予想通り、官民いろいろ錯綜して支援組織的なものが各地に設立されていきました。それに伴ってこの報告書がずいぶん売れましたね。NIRAの報告書も相当売れましたが、この報告書は、確か6刷(以上?)増刷しましたが、ほとんど売り切れたと記憶しています。
山岡 もとに戻るけど、JNCの調査報告も支援組織の基本図書と思うけど、バージョンで名前が変わってるんだよね。
渡辺 そうですね。第1版はここに副題で書いてある通り、『ボランタリー活動推進のための仕組みづくりに関する調査研究報告書』(車両競技公益資金記念財団からの委託。95年6月発行)。そして第2版を増刷するのが同年10月でしたが、この時に『非営利団体と社会的基盤』というタイトルに変更しました。これについては、日本ネットワーカーズ会議メンバーの1人だった槇ひさ恵さんから、内容からみて、調査研究報告書というだけではインパクトが無いので「社会的基盤」とするのが良いだろうという指摘があり、これを受けて、そうしたわけです。いずれにせよ、この報告書は、NPO支援組織の基本モデルのような内容となっているということです。
ただ、報告書に関して若干忸怩たる思いがするのは、やはり、みんな自分たちに都合の良いところだけを取り上げて利用しているわけですね。よく読んでもらえばわかると思いますが、NIRAの報告書とも対比させながら、「全国レベルの場合はこう、ローカルな場合はこう」というように、注意深く分けて記載したつもりですが、実際は、全国レベルの内容だけに注目して利用されていったというきらいがある。こうした点は、報告書作りに当たっては今後十分な注意を要することだと実感しましたね。いずれにしても、この報告書はかなりのインパクトを与えたと思います。それまで「ボランティア」という言葉や概念はもちろんありましたが、「ボランタリー」という言葉はほとんど用いられてなかったので、山崎(美貴子)先生などは「まさに私たちが言いたかったのはこういうことだった」と評価してくれました。
翌年の96年になると、その時点ではNPO法の議論が活発化していましたので、先の米国調査やチャリティー法の国際会議などでのネットワークを活用し、欧米の動向を注入することでNPO法の議論の推進に側面支援というか、寄与していこうという意図も含めて、「市民活動の法制度に関する国際フォーラム」をメンバーの久住さんが中心になって開催しました。これ(『市民活動の法制度に関する国際フォーラム報告書』)がその報告書で同年3月に出しています。フォーラム自体はさほど大きなインパクトを与えたわけではなかったと思いますが、この時に国際的な関係者として、アンドリュー・フィリップスというチャリティー法の国際会議で座長をされていたチャリティーコミッションのコミッショナーだった方で、その後貴族院議員になられたイギリスのチャリティー界の大御所を招いた。さらにアメリカからは、国際会議で出会ったカーラ・サイモン女史を招き、関係強化ができたのは大きかったです。
山岡 カーラさんは、世界中のNPO法を調べていてデータベースを持っていたんだよね。
渡辺 カーラさんと会って初めて知ったことは、non-profit ではなく、not- for-profitという言い方でしたね。確か、その時に久住さんたちは横浜市の支援を受けて、イギリスのチャリティー法に関する簡単な冊子を作っているんですよ。そうしたことを経て、今度は最後になりますが、同じく96年3月に『調査報告書 NPOスタッフ研修に関する調査研究』という報告書を久住さん、槇さん、鈴木さんなどが中心となって出しました。これはNPOフェローシップのためのベースになる調査研究だったわけですが、その後に国際交流基金日米センター(CGP)にその成果を持ち込んで、「NPOフェローシップ」の事業が立ち上がったということです。これはつまり、日本ネットワーカーズ会議は正式な組織体じゃないので、窓口業務が発生するようなことには対応できない。そこでCGPに相談を持ち込んだところ、紆余曲折を経て実現にこぎつけたわけです。そして、CGPによるNPOフェローシップは、その後10年ぐらい続きましたね。
山岡 10年続いたかな。「10年100人」を目標に始めたんだけど、80いくつで終わったんだね。
渡辺 結構いろんな人が行っている。最初は岸本(幸子)さんで、黒田かをりさん、シーズの鈴木歩さんもいきましたね、後半は。それからヒューマン・ライツ・ウォッチの土井香苗さん、ぱれっとの谷口(奈保子)さんなどもいました。
山岡 ボランタリーネイバーズの三島(知斗世)さん、ETIC.の井上(英之)さんも行ったよね。
渡辺 このNPOフェローシップでは、現在NPOのリーダーとして活躍している若い人たちの何人かがフェローで行ってますね。ともあれ、実施側のCGPはNPOの支援機関ではないので、フェローシップの対象とすべきところやフェローの具体的な受け入れ先はわからない。そこで、日本ネットワーカーズ会議のこれまでのネットワーク等を通して調べたところ、NPOのinfrastructure organizationを対象とすることを前提としたとき、主として東海岸の団体をターゲットとするのが適当だろうとなった。因みに、あの当時、西海岸の個別NPOを対象に、今田(克司)さんたちがJUCCEというNPOを立ち上げて、短期のフェローシップを実施してましたね。
山岡 柏木(宏)さんのところから今田さんが分かれて、そうした活動をしていた。
渡辺 それで棲み分けの意味も含めて、こちらのフェローシップは東海岸を中心とすることになった。
山岡 CGPの事務所も東海岸にしかなかった。やっぱり相当、現地の組織がきちんとコントロールできる範囲内でやらないと、フェローシップは、いろいろ問題を起こすこともあるということで。
渡辺 ということで、主に個別の団体というよりは、infrastructure organizationへのフェローシップとしたわけです。尤もプログラムの後半では、個別NPOに行った人もいましたが。このフェローシッププログラムでは、日本に帰国してから、NPOのinfrastructure organizationを立ち上げ、そのリーダーになっていくことを期待して実施しました。山岡さんや私も委員で入りました。
山岡 最初は僕が委員長やっていた。途中で降りたけど。
渡辺 以上のように、日本ネットワーカーズ会議としては、NPO法制度のきっかけ作りや、支援組織のきっかけ作り、そしてNPOフェローのきっかけ作りという、NPO推進のための種々のベースづくりをいろいろな形で行ってきたということです。
原田 日本ネットワーカーズ会議は、今も続いているんですか?
渡辺 形だけは残っていますが、一定の役割を果たしたことや、なによりもメンバーそれぞれ自体が各方面で活躍しはじめるに伴って相当多忙になってきたことなどがあって、今は具体的に機能はしていません。そもそも、いわゆる組織ではなく、意志を持った個人の集まりとしての結社ですからね。
辻 当初3年間のトヨタ財団助成の研究会は、正村さんが代表で、その後正村さんは外れていくわけですか?
渡辺 正村さんには第1回のフォーラムには当然参加してもらいました。確かフォーラムの後しばらくして、「僕はもういいよね」という感じで、同じくフォーラムに参加してもらった栗原さんにスイッチしたと記憶していますが。ひょっとすると、正村さんの指向性とはちょっと違ったからかも知れませんが、その辺は定かではないです。ただ、あまり違和感なく交代したという印象でした。そしてその後は、播磨靖夫さんと栗原彬さんが日本ネットワーカーズ会議の「顔」となりましたが、ほかにも、現在「NPOのひろば」でコラムを連載中の小松光一さんや元朝日新聞の論説委員で、その後「AERA」の編集長もされた西村秀俊さん、日本YMCA同盟の吉永宏さんなど、「その世界」の重鎮の方々にも熱心に参加いただき、当時はまだ若かった(笑)私や久住剛さん、鈴木健一さん、鈴木実さん(現、ナイスハート基金事務局長)、槇ひさ恵さん、都賀潔子さん、湯瀬秀行さん(現、助成財団センター事務局長代理)などがだいたい常に集まっていたメンバーですかね。
山岡 鈴木健一さんは日本ネットワーカーズ会議にずっと入っていたでしょう。
渡辺 ずっと入っていましたよ。ただ、都合により、途中ちょっと関わりが弱くなった時期もありましたが。
山岡 じゃあ、久住・鈴木が神奈川県庁のグループですか。
渡辺 そうです。神奈川県庁の二人は、当初から日本ネットワーカーズ会議の強力メンバーでした。
山岡 生協や神奈川の生活クラブの人は入ってなかったの。
渡辺 入ってないですね。株式会社の社会調査研究所に当時いた犬塚(裕雅)さんもメンバーでした。
辻 川崎で開催したとき、事務局の下の方というか、実働部隊で神奈川の生活クラブの人がいませんでしたか。
渡辺 いわゆる「コア・メンバー」としてはいませんでしたが、調査やフォーラムの際などにボランティア的に関わってくれた可能性はありますが、私はよく覚えていません。なにせ、フォーラムは、第1回も第2回もずいぶん大規模にやりましたからね。たぶんいらしたとしても、資料作成や開催当日のロジを手伝ってくれたり、ということでしょう。特に第2回目は、久住・鈴木ラインで神奈川で行い、会場とした「KSP」をはじめ全体をアレンジしたのは久住・鈴木が中心でしたから、彼らの方で声をかけた可能性はありますね。
辻 僕らも、当時まったく何もわかんなくて、「そういう会議があるぞ」と言われて行ったんですけど。そのとき、生活クラブの神奈川の連中は結構いたなという印象はあったんですね。
渡辺 ああ、そうですか。たぶんそういう趣旨に共鳴して、ボランティアでもいいから参加したいというのは、あったかも知れませんね。
辻 ちょうどアリスセンターができてもう3年ぐらいになっているときですよね。
渡辺 そういえば、ここには具体的にアリスセンターの人は出てきませんが、実際はかなり協力してもらったはずです。久住・鈴木さんともアリスセンターには設立当初から関わっていましたから、そういう点からいったかも知れませんね。川崎(あや)さんとか土屋(真美子)さんラインで。
原田 久住さんと鈴木さんは、神奈川県庁の職員ですか。
渡辺 今でもそうですよ。
原田 何かのきっかけがあって県庁の人と民間の人が一緒にやってたんですか?
渡辺 直接のきっかけは「ネットワーキング研究会」から始まりますが、その前にトヨタ財団の研究助成で出会っていたことが伏線としてありますね。当時、研究助成の対象の一つに「地域ビジョン研究会(通称、地ビ研)」というグループがありました。そこでは、自治体職員を中心とした意気軒昂な若者たちが、自治体改革も視野に入れつつ、特に行政と市民のありようから、地域社会のありようを考えていこうという趣旨の研究計画を応募してきて、助成対象になったわけです。実はその発展形態として、後の「自治体学会」にもつながっていくわけですが、その研究の際に山岡さんと僕が、何度か彼らと会う機会がありました。そうした出会いがあって、「ネットワーキング研究会」が始まったときに、先に参加していた彼らと具体的な接点をもったということです。そして久住・鈴木さんたちは日本ネットワーカーズ会議で活躍する一方、地ビ研の方では自治体学会づくりに向けて活動してりもしていましたね。あの時は神奈川県はまだ長洲県政だったと思います。当時、神奈川の「自総研」(神奈川県自治総合研究センター)は若手の職員を主体に勢いがあり、それを長洲(一二)知事はうまく活用してましたよね。
山岡 長洲さんが中心になって、自治体学会を作るわけ。それの事務局を久住がやって、それの自治体有志の基礎的な勉強会というか、ネットワーク作りにトヨタ財団の助成で地ビ研が活動した。
辻 そこから自治体の職員とつながったということはあるんですか。
山岡 他の自治体の職員は日本ネットワーカーズ会議にはいなかったよね。
渡辺 いなかったですが、第2回のフォーラムの際には川崎市の若い職員の何人かが係わっていたと記憶しています。久住さんラインだったかな? いずれにせよ、ネットワーキング研究会は、自治体の職員というよりも、むしろボランティア活動やその推進に関わっていた人たちが、当初から中心でした。実際、当時日本青年奉仕協会(JYVA)で出していた冊子、『グラスルーツ』の編集長、播磨靖夫さんが中心で、彼のところに出入りしていた関係者から成っていました。そういえば、JYVAの斎藤信夫さんや日本リサイクル運動市民の会の高見裕一さんもいましたね。
山岡 そうか、田尻(佳史)も第2回で日本ネットワーカーズ・フォーラムの企画運営委員に入ってたね。
渡辺 そうそう、確か早瀬昇さん(大阪ボランティア協会)の関係で呼び込んだと思います。因みに名古屋で行った際には、中部リサイクル運動市民の会の萩原(喜之)さんもいました。萩原さんはその後、名古屋の「市民フォーラム21」の常務理事もされたりしましたね。
渡辺 日本ネットワーカーズ・フォーラムでは、相当頑張って資料も作りましたね。『草の根マネージメント』という資料を作成したのは、鈴木健一さんです。これも元になったのは、確か財団の助成で作った報告書だったと思います。ほかに『NPOとは何か』という冊子など、複数の資料を作りましたね。柏木さんも別途、独自で作成した、米国のNPOに関する冊子を持ち込んだりしていました。もうひとつ分科会の資料で、『企業と社会のパートナーシップ』だったかな?確か企業の社会貢献に関したものも作成しました。『NPOとは何か』については、NPOに関する米国の本の中で一番わかりやすそうなもののほんの触りの部分を翻訳したわけですが、その翻訳チームは、神奈川の久住・鈴木のラインで、関心のある女性陣が中心になってボランティア(?)で担当してくれてましたが、主たる監修は都賀さんだったと思います。その後、これらの資料は、確か1冊500円程度で販売しましたかね。報告書本体は2000円で、概要の冊子は500円で、最終的には完売したと記憶しています。当時、この種の資料は他にないため、関心のある人たちは飛びついたんだと思います。同様に、先のNIRAの報告書も6刷までにもなるのはNIRA始まって以来だとNIRAの人も言ってましたね。それだけ関心が高かったということですね。
辻 増刷して完売してしまうというのは、やっぱりすごいですね。ちょうど90年代に入ったでところでしょう。バブルがはじけた頃なんですけど、やっぱり89年の東欧革命とか、ベルリンの壁崩壊とか、その影響があるんですかね。
渡辺 第1回の日本ネットワーカーズ会議を開いたときが、まさに「ベルリンの壁崩壊」の時でしたね。
辻 社会状況が大きく、世界的に動いていたときですよね。
渡辺 第2回のフォーラムの時は、社会変革に関する関心が盛り上がってきましたが、しばらくして94年にクラッシュ、金融バブルの崩壊が起きました。その前だからよかったと言えるかもしれません。
辻 そうですね、だから、ネットワークという言葉に、かなりみんな飛びついたんですよね。
山岡 両方にね。情報系のスマートなネットワークと、こっちの人間的な泥臭いネットワークと。
渡辺 第1回の日本ネットワーカーズ会議でおもしろいエピソードとして、今まさに言っていた、いわゆる通信系のネットワークのイメージを持った、その関連企業の人が来て、「中身が違うじゃないか。金、返せ」って怒りだしたりしてましたね(笑)。趣旨をよく見て来ない方が悪いのですが、受付の人が困っちゃって、メンバーの一人(確か久住さん?)がずいぶん説明して、納得して帰ってもらったということがありましたね。(笑)。
辻 結構テレワークとかああいう情報ネットが流行りました、いっとき。
渡辺 第1回のときは飯田橋の農文協のビルで開催し、350人ぐらい入りました。大阪はYMCAだったと思いますが、両方満杯で、合計700人ぐらいが集まりましたかね。そして、第2回の時には、川崎、名古屋、大阪など、延べで1500か1600名になりましたね。
辻 そういう意味では日本ネットワーカーズ会議は非常にインパクトが大きかった。ほんとにあれだけ人が集まってきて、分科会の中で制度論をやっていましたから、僕らもあれで、法律・制度を作ろうと思ったわけです。あの時、生活クラブ系の東京ランポで制度づくりの研究会を作ったのは、まさに日本ネットワーカーズ会議の影響ですよ。あれを受けて、「もう、これは作った方がいいぞ」「さっさと作ろう」という話になった。基盤整備してNPOの活動を「もう少し広げてから」ではなくて、さっさと作って、一点突破で進めた方が早いんじゃないかなって、動いたわけです。
山岡 僕はあの時参加して思ったのは、企業の人と市民活動家と自治体の人が、3者が一緒に集まった初めての会じゃないかということですね。
渡辺 私の記憶によれば、企業関係者は、市民活動団体やその関係者と接点をもつのは、最初は嫌がってましたが、あの時からなんですね。経団連の田代正美さんも、第2回に参加してもらいましたが、あれから企業の社会貢献活動のパートナーとしてNPOにかなり関心を持つようになりましたね。
山岡 94年の東京ランポのフォーラムの時は、企業の人なんかはあまり来てなかった。だいたいが市民活動系でしたね。
辻 そうですね、250人くらい来ましたけど、市民活動系に自治体が一部とあと生活クラブなど協同組合でした。
原田 いままで出てきた「ボランティア」という言葉、「ネットワーキング」という言葉、「NPO」という言葉で、関わっていた人たちは割と重なっているんですけど、指す対象は微妙にずれているような気がするんです。そこの言葉がボランティアからネットワーキング、ネットワーキングからNPOと、だんだん移っていくときになにか齟齬というようなことはなかったのですか。
渡辺 あまりないというよりも、例えば播磨さんご自身もそうですが、いわゆるボランティアという当時の通念に対して、ちょっと違う考えをもっていらしたと思うんですね。つまり、一般的に思われている「慈善」的な意味というより、社会変革的な存在として捉えており、同様な考えや指向性をもった人たちが集まっていたので、違和感はあまりなかったですね。むしろ、従来のボランティア概念を超えようと思っていた人たちに、なんとなく共感をもっていましたね、私は。
原田 ああ、なるほど。
辻 そうするとまだ、世田谷ボラ協とかあの辺もまだ入ってきていないんですか。
渡辺 ああ、でも山崎富一さんとか澤畑さんとかね。いずれも、リベラルな人たちですよね。
辻 世田谷ボラ協は社協じゃないですね。
山岡 大阪ボラ協は入っているからね。民間のボランティア協会のネットワークは別にあるから、そこは割合入っている。
渡辺 そうそう、当時「ボランタリー」といったら早瀬さんが誇らしげに、「うちの英語名はOsaka Voluntary Action Center」だと言ってました(笑)。Volunteer Centerではなく、Voluntary Action Centerだと主張していたことが記憶に残っていますが、まさにその通りですね。
辻 ボランタリーという人たちはいわゆる社会変革派にはなるわけですね、ボランティアではなく。
渡辺 そうですね。社会変革という言葉は大げさかも知れませんが、要は、一人一人が自発的、主体的に社会に関わっていこうとする志向性。ですから、政府セクターや企業セクターではない、第3の非営利セクターとしてのボランタリーセクターを広げていこうとすることに思いを共有した人たちが、集まっていました。
山岡 あと、言葉で言うと、トヨタ財団としては「市民活動」という言葉で、市民活動助成というプログラムを渡辺元さんが中心になって動かして、その中でやっていましたからね。この中で市民活動という言葉が、文中に随所に出てくる。これが共通のキーワードですしょうね。
渡辺 出てきますね。
辻 トヨタ財団が市民活動助成を立ち上げたのはいつですか。
山岡 84年が最初でしょう、財団として記録されているのは。5周年記念事業で79年から80年にかけて全国各地でいろいろな事業を展開するのですけども、その頃から僕なんか、恐る恐るというか、こういう言葉を企業財団にいるものが使っていいかなと思いながらも、個人的には「市民活動」を使い始めていた。3年ぐらい経って正式に財団としても「市民活動でいこうよ」っていうんで、84年にプログラムに市民活動の記録の助成として組み込んだ。
渡辺 そう、84年に研究助成の特定課題として始めたわけです。いま、その資料を持ってきていませんが、84、85年度と行い、86年度からは「活動記録助成」として一本立ちさせ、89年度からは、ネットワーキングの発想を取り入れた内容を追加しました。しかし、当時は「ネットワーキング」というのは関係者以外には理解されにくいですから、これを市民活動の交流促進のための助成というような内容にし、これをベースに、その後は徐々に「市民活動」という言葉を強調していくようにしました。
辻 山岡さんが恐る恐る市民活動を使い始めたという背景とは何だったんですか。
山岡 やっぱり市民運動は助成対象にならないわけで、自主的にカンパでやるもんだから。市民活動という、そういう意味じゃ運動じゃないけど持続的な市民の活動は重要。だけども、やっぱり市民という言葉に対する忌避感は、企業にしろ何にしろ、非常にやっぱり「えっ」ていう感じがあるよね。
辻 「市民」への警戒感。
山岡 そうそう。だから「市民」という言葉をトヨタ財団が使うべきかどうかで、かなり迷った。まあ、今は(警戒感が)なくなったけどね。
渡辺 そうですね。今はほとんどないでしょうね。
山岡 それでも企業は今でも、僕らは一緒にやってるけど、やっぱり「市民活動」という言葉を使いたがらないよね。
渡辺 「市民運動」をある種の人たちが嫌がるのはわかりますが、「市民活動」という言葉にもまだ警戒感があるんですね。
山岡 もちろん社会変革を目指すと言ってもいいんだけども、単なる運動じゃなくて持続して新しい社会サービスを創出していく、そのことをもって社会を変えていく、という意味を込めて「市民活動」という言葉の概念化を、僕自身は個人的に言えば3、4年かけてしてきた。それで財団としても、だんだん表へ出していったと。市民活動の記録も最初の叢書として出すときは、「市民の活動」という「の」を入れて市民の活動になったんだけど。やっぱり「市民活動」という言葉はかなり、そういう意味では…。まあ、美濃部都政時代に、市民活動資料室というのが社会教育施設にあったんですけどもね、それを僕らは後で知ったんだ。そういう点でいうと、僕らは他で使っているって知らなかった。あと1950年代に海外を調査して、市民活動の何とかというパンフレットが、国の青少年局かな、使っていたっていうんで。どうも日本でそれが最初に使われた、これが1951、52年だという。だんだん最近になってそういうのがわかってきたけど。僕が使った頃は一般的には誰も使っていなかった。
渡辺 1951、52年だったとすると、当時はちょうど「戦後啓蒙主義」といわれた時代ですね。当時は、戦争に対する反省から、開明的な知識人が声を挙げ始め、それに影響された人々も多かった時代でしたから、ひょっとすると、英語の言葉を日本語化した可能性はあるのではないかと思います。
山岡 その頃、経済企画庁は国民生活審議会で「社会参加活動」という言葉を使い始めたんです。僕らも、同じような現象を言っているけど、それでおかしくはないんだけども、なんかそれじゃ社会を変えていくというイメージがないんで、社会参加活動は弱いというか、あれじゃだめだよね、うちは使うのよそうよ、となった。ずっと平行してトヨタ財団は市民活動、経企庁は社会参加活動だったけど、ついに経企庁の中にも市民活動室というのができて、あれはびっくりした。法律ができかかっているときで、95年か96年ぐらいかな。市民活動室をポンと作って、市民活動実態調査をやるんですよ。僕が調査委員長やった。だから、経企庁としては社会参加活動を市民活動に切り替えたんです、95年から。我々の勝ちじゃないかという気持ちは持ったけど。それからちょっとして、東京ボランティアセンターが東京ボランティア・市民活動センターになって、市民活動が自治体レベルでは全然、忌避感がなくなってくる。それまでは自治体で市民活動なんて使わなかったですよね。そういう点では自治体でちゃんとした名称に市民活動が入った。美濃部都政のときの市民活動は別ですけど、そういう文脈を抜きにした形で市民活動を自治体は使ったけど、それより先に経企庁が市民活動室を作って、もう、市民活動だっていうので、社会参加活動を全部市民活動に転換しています。そういう言葉の歴史もちょっとある。
渡辺 経企庁の市民活動室も私たちからの影響は大きかったと思います。そもそも政府・行政において「市民」といった場合、○○市に在住・在勤している人々という捉え方でしたからね。今でも基本的にはそうでしょうけど。ですから、例えば神奈川県のサポートセンターを作る際に、委員・座長として私が関わっていたとき、「市民活動では困る。県民活動じゃないと」と言われたりもしました。要するに市民活動としたら、県議会が納得しないということを県の関係者が言うんですね。意味が全然違うので、私は「国民と市民というのは、ある種存在としてはあるが、県民というのはいないんだ」と言って議論した覚えがありますね。
辻 ネットワーキングの中から、法制度化が出てくるというのは、山岡さんあたりは結構、意識的にその中でお話されているじゃないですか。もうだいたい、ネットワーキングということで、NPOの基盤を強めるためにはやっぱり制度化が必要だっていうことで、道筋はだいたい決まって、考えられたわけですか。
渡辺 そうでしょうね。
山岡 僕は別に公益法人の方から、公益法人協会なんかいろんな研究会をやって、トヨタ財団も公益法人ですから。民法における主務官庁制が日本の非営利活動をだめにしているというか、だから何とかして主務官庁制をぶっつぶせじゃないけど、明治から続いたこの主務官庁制による公益法人をどう改革するかっていうのは僕の方のずっとテーマだった。
渡辺 そうですよね。ですから、第2回のフォーラムのときも山岡さんに来てもらい、「民間公益活動の重要性と日本の公益法人の現状」ということで話してもらいました。
山岡 新しい非営利法人、市民活動も支えられるような新しい非営利法人制度を作るべきだというのを90年ぐらいから言ってて、これはそういう公益法人制度の問題というところからスタートしている。
渡辺 山岡さんの文章の最後に、「新たに必要な非営利法人制度」というのがありますね。
山岡 だから、市民活動発で何とかというよりも、現在の日本の公益法人制度を改革するのはどうしたらいいかというところから僕の方は入った。
渡辺 最後に「日本では市民活動の歴史はまだわずかですし、そんな歴史をこれから描かれるものです。それを入れる器もまたこれからの課題です」と。これはNPOのことですよね。そして「すぐに法人化を必要とする団体もまだごくわずかでしょう。しかし今後の急速な発展を考えるとむしろ将来の備えとしてこの非営利法人制度をそろそろ真剣に考えていかねばならないだろうと思っています」と、結んでいる。
山岡 そんなこと言ったかな…(笑)。
渡辺 言ったんですよ(笑)。これはかなり正確にまとめたつもりで、これのときは槇さんが相当頑張ってくれた。要するにこの報告書はかなり先駆的なものになるはずだから、頑張ってまとめようと。売るためにもちゃんと作んないといけないって(笑)。
山岡 非営利の会社法人も提案したんだよね。
渡辺 そうですね。一方で播磨さんは以前から「市民法人」の必要性などを説いたりしてましたね。何となくその世界の人たちは、少なくとも民間のほんとに小さなところが法人化していくにはこの公益法人制度はあまりにも遠い存在で、もっと身近にできるようなものが必要だといった思いがあった。また、ボランティアに対して当時の私などが違和感をもっていた一つは、「好きな人が好きなときに好きなだけやればいい」といったキャッチフレーズがありましたが、例えば命を扱う団体とか、人権を扱う団体は、都合悪くなったら「やーめた」じゃ済まないだろうと。責任を持った活動を持続的に行っていくためには、ボランティアではだめで、それなりの組織化が必要だね、と。そして、そのためには、今の公益法人制度ではあまりにも無理なので、米国のように、思いをもった人たちが、もっと簡単に法人化できるような仕組みが必要だよねって。そうした全体状況の中から、NPOムーブメントが広がっていったわけです。
山岡 それでは、時間がきましたので終わりたいと思います。どうもありがとうございました。