NPO法制定過程における新党さきがけの動きについて、高見氏にインタビューを実施した。高見氏は、国際協力推進協会勤務などを経て、1994年から1996年まで新党さきがけ政策調査会に勤務し、NPO法制定に関与した。2010年から2014年には宇陀市議会議員を務めた。

インタビューは、2012年11月1日に保養センター美榛苑で実施した(聞き手・記録:辻利夫・原田峻)。 *肩書きは当時

  • 日時:2012年11月1日(木)16:30~18:30
  • 場所:保養センター美榛苑(奈良県宇陀市)
  • 協力者:高見 省次(元・新党さきがけ政策調査室スタッフ、現・宇陀市議会議員)
  • インタビュー担当:辻 利夫・原田 峻

 

インタビュー本編

辻 高見さんは、新党さきがけの政調のスタッフとして、NPO法の立法に深く関わっていらしたので、今日は立法過程における政党、議員の動きなどについてうかがいます。

高見 これが出てきたので(NPO法制定のプロセスをまとめた高見さんの草稿『市民立法の最前線』※、以下注参照)、参考になるかも知れないと思って持ってきました。それとこの原稿の参考にした堂本さんの当時の活動日誌風の記録もありましたので、持っていっていただいたらいいのですが。年表も一応作っています。年表もいろんな方が作っておられると思いますけれど、私の場合は(議会の)中にいて、その視点で作っているところが大事なんですね。いわゆる政治的にいろんな出来事が起こってきて、それが(NPO法の立法に)結構関係あるんですよ。例えば介護保険の話とか、優生保護法の話をしていたりとか、いろいろあるんです。それと絡んでいるところがいっぱいありましてね。そういうところで一応、政治的な出来事と市民団体の動き、私のわかる範囲なのでもっといっぱいあると思いますが、さきがけと与党3党と行政、新進党というところを軸にまとめています。一応、これは成立までいったかな、成立までまとめています。

注)NPO法が制定された1998年に、堂本さん、高見さん、秘書の山本さんにより、立法の経緯をまとめて出版する企画を立て、この草稿はそのときに書かれたという。出版企画は未完に終わった。

辻 草稿のタイトルが『市民立法の最前線』ですか。このNPO法制定記録プロジェクトは、市民と議員が一緒になってつくった立法というのは、多分それまでないだろうから、きちっと記録に残さないといけないという話から始まっています。草稿で高見さんがこのように議員立法のプロセスをお書きになって、議員立法って市民立法なんだということで、さきがけのスタンスが表れていると感じます。

高見 やはり議員立法でやったことはよかったと思いますよ。それはいろんな意味でね。

辻 ただ、この高見さんの見解は、市民が主役というふうに出ていますから。さきがけはかなりこういうことを共有していたと思いますが、当時の自民党や社会党にはとても通用しないですね。そう思って見ていました。

高見 確か一番最初の時点では「市民」という言葉すら自民党さんは嫌がっていたなあという記憶があるんです。でも、今はもうそんなことないですね。いろんな意味で、やはりアプローチの仕方がよかったんだと思います。要は、(それまでの市民団体は)デモ行進してどうだこうだというのが多かったと思うんです。でもそうではなくて、いろんな議員に働きかける、意見交換をしながら、やはり具体的に要請活動をされていって、かなりそれも粘り強くされましたよね。そういう中で信頼関係をどう維持していくかというところが大事なところで、それで結局成立したわけですよね。

辻 高見さんは、さきがけにくる前に財団にいらしたそうですが、どちらの財団ですか。

高見 APICといいまして、Association for Promotion of International Cooperation、国際協力推進協会という財団でした。外務省の経済協力局の外郭団体で、そこも特増法人だったんです。だから、そういうことも私なりに仕事上で勉強もしました。それで国際協力の場合、NGOの方とはといろいろ付き合いがあったんですよ。うちの専務理事がODAとNGOをつなぐみたいな部分でね。ODA白書を出していた団体なんです。事業もいろいろやっていて、10月6日が国際協力の日で、国際協力フェスティバルとか日比谷公園でNGOの方にも参加していただいて開催していたんですよ。岩崎(駿介)さんたちとも、前から存じ上げていたんです。NGOの人からは逆に私は批判されてました、政府寄りやから、外務省の手先やという感じで。

辻 JANICの伊藤道雄さんもご存知でしたか。

高見 ええ。そういう方々とお付き合いがあったから、やはり法人格の有無というものの意味もある程度わかりましたし、税制のこともAPICは特増法人だったから(寄付を)もらっていましたので、やっぱり関係あったんですね。そういうこともあったので、私は1994年10月から新党さきがけに入って、たまたまその時期にNPS研究会が立ち上がった。まだスタッフもはっきりしない状況だったんです、さきがけもできたばっかりでしたし。ただ誰がやるのかという話で、「私、そういうことをやってきたから、やります」と言って、それでやらせていただいた。そのときはまだ堂本先生は来られていないから、研究会の報告書は確か、自分がたたき台は作ったという記憶はあります。

NPS研は、鳩山(由紀夫)さん、簗瀬(進)さんをはじめ、5人ぐらいいらっしゃって、慶応の金子(郁容)先生などに来ていただいたり、何回かヒアリングというか勉強して、それで一応方向性を出したところで、ちょうど1月に堂本さんがさきがけに入られて、「堂本さんが部会長がいいね」という話になった。そこで(秘書の)山本美和さんもおられて、私は引き続きやるということで3人で、もちろん「3人で」と言うと怒られますけれど、かなりいろいろ、積極的にさきがけの中では動いたと思います。

辻 その部会というのは、NPS研究会のあとにつくったNGO支援検討部会ですね。このあとすぐに与党3党のNPOプロジェクトを立ち上げたでしょう。堂本さんが(今回のインタビューで)いろいろとおっしゃっていたのが、「私はNPOプロジェクトは嫌だ、NPOという言葉は使いたくないと抵抗した。だから、さきがけでつくったのはNGO支援検討部会で、NGOにしたんだ」と。ちょうどこの時期にレスター・サラモンが日本に来て加藤紘一さんたちと会って、そのNPOという言葉を吹き込んだと、堂本さんはおっしゃっていますけど、覚えていますか。

高見 何となく覚えてますけれど、抵抗って、どこまで抵抗されたか。確かにNPOはまだ根づいてなかった時期ですね。

辻 だから、このときよく与党3党で「NPOプロジェクト」と付けたなという気もしてたんですよ。

高見 NGOとつけたのは、堂本先生はそうやって、国際協力とかNGOのつながりがあるから。あと、「ボランティアっていうのも嫌やね」という話をしていましてね。だからさきがけもブックレットを作りましたけど、タイトルは「市民活動法人法」です。NPOという言葉はあまり使ってないと思うんですよ。それは堂本さんなりのこだわりはあったんでしょうね。だけど、非営利という括りの意味ですから、結局いろいろ検討していた民法との兼ね合いにどうしてもなってくる。その中で非営利活動をどう定義しているか。民法34条・33条は非営利活動の定義ですから、だからまあNPOということで、落ち着いたと思うんですけどね。はっきり覚えてはいませんけれど、確かに根づいていなかったなあ、というのは覚えてますね。

辻 うちの東京ランポは93年に設立したんですけど、その「ランポ」ってLocal Action NPOなんです。LANPOで、やっぱりNPOって言葉を普及させようというのがあって、団体名に付けてやったんですよね。

高見 じゃあ、普及したわけやから、よかった(笑)。

辻 でも法案名は「市民活動促進法」でずっとやってましたからね。

高見 結局 特定非営利活動になりましたが。そういうのも、いろいろ思い通りにはいきませんでしたね。最初は民法改正とか、いろいろ言ってたんですよ。でも「それは大変だ」という話になって、それで民法34条の特別法という話で、それがいろいろあるんですよね。そのうちの一つでやるというところからいろいろ議論して。それも堂本さんがおっしゃっていましたが、「なんか、ちまちました法律になってしまうのではないか」みたいなところがある。私たちは行政改革とNPO法を車の両輪として、民の力が伸び伸びと活動していただくための法律と思っていましたが、「なんか棲み分けして、なんかしないといけないとか、いろいろ細かい」という話で。そこからは法制局だからもう、通らないとか。

最初の頃は、法制局に対してもさきがけはかなり、何というか警戒していましたね。思い通りに法律作りを手伝ってくれないみたいな感じがあったんですよ。だから、さきがけの「市民活動法人法案」も法制局に頼らずに作ったんです。これは確か井口(博)さんという弁護士さんがいらっしゃって、京都の方と思いますけれど。その方にほとんど丸投げしたのではないかな。それを整えて、最初の堂本試案を作るときは、やはり枝野(幸男)さんで、枝野さんにはNGO支援部会に入っていただいていて、弁護士さんですから、動きの軽いと言ったら怒られますけど、動いていただきました。それで具体的な文言というか、法律的な文章ですので、お願いした記憶がありますね。

辻 95年に与党3党プロジェクトが立ち上がって、あの時の最大の争点は議員立法を断固貫くということだったと思うんですよ。例の坂本(導聡)さんという経企庁の国民生活局長が18省庁まとめて何とかボランティアを対象にした閣法でいきたいといろいろと動いていたと思いますが、そのあたりで「与党3党として議員立法でいくぞ」と当初から方向としては合意されていたのですか。

高見 それはまず、NPSの研究会でも、どこかに入っていたと思います。「超党派の議連とかで作ってやっていったらどうか」みたいなことがあったと思うんですね。「これはやっぱり議員主導でやっていこう」という感じだったと思うんです。堂本さんも当然そうでしたから。最初は確か、自民党の加藤(紘一)政調会長かな、やはり震災が起きたのでボランティアということがかなり注目されていて、(与党で)とにかく発足しようということになったんですね。(18省庁)連絡会議(ボランティア問題に関する関係省庁連絡会議)も同じ時期に発足して、でも「議員立法でいきましょう」って最初からなっていたのと違うかな。ここ(「市民立法の最前線」)には出てませんがね。1月に(与党三党の)事務局会議で、17日が阪神大震災。震災起こったから1月は越してしまったのかな。2月に(18省庁)ボランティア問題連絡会議発足と。(与党三党プロジェクトは)2月の時点で始めていますね。だから事務局は1月に集まったけれど、震災がその後起こって、止まって、その間にどういう議員が参加するというようなところで、(連絡会議が)出てきた。

※「市民立法の最前線」で、与党プロジェクトチームの発足について、高見さんは以下のように書いている。

「NPS研究会の結果を踏まえ、新党さきがけの簗瀬議員は与党三党で協議を開始しようとしていた。当時自民党政務調査会長だった加藤紘一議員に働きかけを行っていた。加藤政調会長もこの問題に関心が高く、プロジェクトチームを作って三党で取り組んでいくことに合意した。プロジェクトチームをどのように開始していくか相談する自社さ事務局スタッフ会合が、平成7年1月12日14:00PMから参議院第1面談室で行われた。さきがけからは私が出席したが、自民党からは政務調査会だけでなく政策研究所のスタッフも含め5~6人が来ていた。その中で、NGOを実践したことのあるものはほとんどいなかったのであろう。自民党は社会部会が担当するとのことであった。この時点では、全政党の中でもっとも検討が進んでいたのはNPS研究会を行っていたさきがけである。各党ともNPS研究会報告書を参考にしたいとのことだったので、私はその経験と論点について簡単に説明したが、この問題については、政界はかなり遅れていることを実感した。議員による会合を開催しようということになり、日程の調整を始めた。ところが5日後に大事件が勃発したのである。」

辻 堂本さんの「活動記録」では、この辺がそうですね、「ボランティア(支援)に変えられる」ことは何としても避けねばならない、とか。

高見 というようなことは私たちは考えていたんですが、まあ向こう(自民党)はどういう議員が出てくるかいうところで。そこで(政府に)ボランティア問題の連絡会議ができて、これどうなるんだろうかと、まあ、心配してました、この頃。

辻 第1回与党プロジェクトチームが2月15日ですね。推測としては、さきがけが先行していたので、たぶん方針案的なものはさきがけがリードして出したのではないかなって気がしましたね。

高見 (活動記録から)「自民党の熊代議員は『今勉強中で、党内で加藤幹事長が熱心だ』と述べた。」「私はNGOからのヒアリング(省庁より先に)を行い、外国の法律も検討すべきである。法案は議員だけで作るべきものではなく、NGOなどの合意を得た上で立法すべきだ」。ああ、これは堂本さんがおっしゃったんですよ。「役所に作らせるべきでなく、議員立法でやるべきとのコンセンサスはすでに党内で1月にはできていた。」、まあ、(議員立法については)党内ではできていた。「しかし、自民党が市民団体を目の敵にしているのではないか、NGOについてきちんとした認識があるかどうか不安だったので、実態調査をしてからと主張していた。この頃シーズも2年かけて法律を作るという考えを持っていた。」と、堂本さんは書いておられますが、本当ですか?わかりませんけど。

辻 そうですね。シーズを立ち上げたころ(1994年11月5日設立)の議論では、「法律は今世紀中にできればいいね、2000年ぐらいでできたらいいね」と考えていました。立法趣旨が不十分で、もっと法人格の必要性を市民団体から声をあげていかないと、立法事実で弱いということで、運動方針として1万団体署名をやることにしていましたから。大震災後は、政府の動きを見て議員立法で早く作ろうと変わったと思います。

高見 ゆっくり作ると言っていたのが、震災でえらい急に動き出したなっていう感覚はありましたね。経企庁が動き出しているし、それで警戒したんです。ただ実質的に始まった第2回プロジェクトのときは、まずヒアリングですね。(「活動覚書」を見ながら)岩崎さん、松原さん、山岡さん、山岸さん、大阪から早瀬さんにヒアリングで終りましたね。で、次がこのあたり、3月。今度は経企庁の坂本さんからヒアリングしていますね。そうすると、もう自民党がやっぱり経企庁の案も念頭にはしていたんでしょうな。まあヒアリングをしたということはそういうことですね。このときの議論で、五島(正規)先生が「NGO支援の制度を18省庁が検討しようしているのはおかしい」、堂本さんが「非政府のことをなぜ政府内で検討しようとするのか。議員が市民の意を受けてやるべきこと」とだいぶおっしゃっているわけですね。自民党はまだあまり考えは出しておられないですね。

辻 まだプロジェクトチームとして、議員立法は固まっていなかったんですね。

高見 全然固まってないですね。4回目のプロジェクトは4月、またヒアリング(日本国際交流センターの山本正さん)ですから。堂本さんがヒアリングについて(活動記録に)これだけ書いているのは、推測では書いていないから、資料に基づいてたぶんまとめられたと思うので。

辻 この後、座長が熊代議員から五島議員に交代とある。

高見 座長は順番ですね。2か月交代で責任座長が変わるルールでした。

辻 5月の第6回では税制をテーマに主税局の課長にヒアリングして、第7回プロジェクトからようやく各党の考え方を議論にのせていますね。

高見 私の資料に、当時の各党の素案がありました。これ、「ボランティア基本法」って、誰のかわかりません。これ経企庁かな?

辻 これは、公明党系の女性議員、たしか広中和歌子さんだと思ったけど、3月に新進党案として突如として出してきたんです。こちらは「ええっ」という感じでした。廃案になりましたけど。

高見 これは社会党案の初期の頃で、これが自民党案。この頃3党が試案を出し始めて、バババッと揃えたんですよね。「早よ出せ、早よ出せ」言うて、さきがけが先に出した記憶があります。

辻 自民党が熊代試案、さきがけが堂本試案がというかたちで出して、社会党が出して3党が出揃ったのが95年の9月ですね。

高見 そこから、なかなか先に行かなくて。それが年表のこの辺に出ていると思いますね。

※高見作成年表より

9月5日 自民党「市民活動促進法案要綱」(熊代明彦試案)提出

9月26日 社会党「市民活動団体に対する法人格の付与に関する法律案)、さきがけ「市民活動法人法案」(堂本試案)提出

9月27日 関係省庁連絡会議「中間報告案」を提出

11月7日 新進党NPO法案(市民公益活動を行う団体に対する法人格の付与等に関する法律案」国会に提出

11月8日 経企庁「関係省庁連絡会議・中間報告」を官房長官に提出

与党3党、官房長官に「議員立法」を申し入れ

11月10日 経企庁「中間報告」の発表の当面見送りを決定

11月17日 与党プロジェクトチームで新しい3党の合意案(五島調整案)提示

11月20日 社民党五島責任座長、与党政策調整会議宛ての「市民活動促進法案(仮称)に関する論議の中間報告(案)」を提示

自民党、さきがけ修正案を提示

12月5日 五島責任座長、「市民活動促進法案(仮称)の骨子試案」提示

12月8日 自民党が「市民活動促進法要綱(案)」を提示

12月12日 さきがけ、「市民活動促進法案(仮称)の骨子試案」の修正を提示

12月13日 さきがけから熊代、五島両座長に「与党NPOプロジェクト確認事項」を提示

12月14日 与党政策調整会議に「骨子案」ならびに「確認事項」提出。与党政調会議で「市民活動促進法案(仮称)の骨子試案」合意。ただし一部ペンディング(確認事項)

 

辻 12月14日にようやく「市民活動促進法案の骨子試案」で合意とあります。この間に18省庁連絡会議の中間報告案が9月末に提出され、官房長官に提出される。

高見 「中間報告は公開されなかった」と書いている。

辻 そうなんです。結局与党プロジェクトチームでこれをつぶしにかかったんですね、官房長官(野坂浩賢)に掛け合って発表させないということにした。18省庁の中間報告がつぶされたあと、経企庁はこんどは自民党に攻勢をかけるんですよね。

高見 たぶん(96年)1月に村山さんが辞めて橋本政権になったから、95年の11月、12月だったと思いますね。要するに議員立法でやるっていうことで、最初は進めてたんですよね。でも18省庁の中間報告が出てきて、これは雲行き危ないぞと。自民党さんがそれに乗ろうという具体的な動きまで把握していたかどうかわかりませんが、自民党の中でメンバーが代わったのか忘れましたが、衛藤(晟一)先生がかなり出てこられて、熊代さんより衛藤さんの発言が強くなっていったんです。二人とも厚労部会で厚労族っていうことでね。もう経企庁案の方にかなり乗っかっていきました。そこで「どうなるのかな、これ」っていう感じで、懸念が相当ありました。経企庁が「自民党に猛烈な働きかけ」をして、自民党がかなり変質しかけたと、私の論文の中でどこかに書いてあったんですけど(※)。

※「市民立法の最前線」から

「(政府案の中間報告の)問題なのは、法人格付与法案だけでなく公益法人並みの税制優遇措置案が一緒に出されたことである。・・・与党NPOプロジェクトチームは、当初から法人格付与と税制措置付与の要件を切り離し、まずは法人格付与法を制定し、1年後に税制措置法を制定することで合意していた。ところが、この経企庁の税制案が出たため、自民党が色気を出してしまったのである。つまり、平成8年度税制改正大綱にNPO税制を盛り込むことにより、有権者、潜在的支持者にアピールしようと考えたのだ。解散総選挙が年明けの通常国会冒頭、予算編成後などいつあるかわからない状況の中で、政策より選挙対策を優先させてしまったのである。」

「しかし、税制措置を同時に検討しようというだけならまだ良いが、何と何と法人格付与案も経企庁案を丸飲みしてきたのである。無節操きわまりないとはこのことだ。平成7年12月1日、与党NPO・PTで、自民党はこれまでの考え方をかなぐり捨てて、経企庁案を丸ごと自民党案として提案してきた。税制措置案にいたっては、ほとんどコピーそのままである。我々さきがけは大反対した。しかし、官僚の根回しは、かなり進んでいたようである。」

高見 いろいろと際どいところを行きながら、ほとんど決裂しかかっていたんですよ。自民とさきがけの距離が大きいので、社民党さんのほうは「自さでやってくれ、自さでとにかく決着つけてくれ」と。堂本さんはもう蹴っ飛ばして、もう退席しようとされていたのですが、菅さんが引き止めて、とりあえずその上の政調会長レベルに上げましたね。確かここで代表の武村(正義)さん(当時大蔵大臣)が、出てくるんですよ。「これでいい」と、「これでいけ」というような感じでね。いろんな政権全体の判断の中で「NPO法は合意するように」という指示が堂本さんのところにいきなりくるんですね。それはいわゆるトップの政治判断ですから、蹴飛ばすわけにいかないし。もうこの辺から一応選挙という意識があったと思うんですよね。そういう中で新進党が法案を提出して趣旨説明したりして、全面的にPRをされて、「与党案がないのはどうなのか?」、そんな感じでしたよ。「新進党案が出ているのに、与党案がないというのはだめだ」ということになって、「まとめろ」というのが来たと思います。

でもその中身は、30点か40点です、私の感覚としては。その前の「骨子試案」の中間報告が60点ぐらいいってた、合格以上だったと思うんです。でもここで変質してこうなってしまった。ここで合意するかどうか悩んだんです。松原さん、田代さん、山岡さんかな、とにかく来てもらった。堂本さんと美和さんと私がいて、「こういうふうな状況になってきた。まあ40点やね、どうするか」という話になって、堂本さんはいろいろこれまでやってきましたからね。やってきた中での今の現状で、前進と考えるか、これを、合意したら後悔するというか、使い勝手の悪いものになってしまうのかというその判断でしたけど、堂本さんとしては「これでいく」ということをおっしゃったと思いますね。

私はやっぱり、連立政権でもなんでも、自分の理想といいますか目標というのがあって、それを100として、それを目指すんですが、やっぱり相手のある話ですね。すべて交渉になりますから、目指してもやっぱりどこかで妥協というか、その時にやっぱり自分の力と相手の力との力関係が絶対出てくるんです。さきがけがもっと大きい政党で、対等の力を持っていればもっと頑張れたと思います。でもやはり、マンパワーも含めて、総合力としては圧倒的に弱いですよ。そういう中で蹴飛ばしたらゼロですよね。でも受け入れ協議して、合意したら40点。そういう選択で、これを合意して、たぶん皆さんから怒られるだろうなと、そこがつらいところです。でもまあ、それが責任感ですね。社民党さんは、それはできなかったんです、私の感覚では。だからいつも蹴飛ばされるんですよ。私たちはこのときはやはり前進すべき、という判断でしたね、ゼロよりはいいと。私たちの力がまだ弱いんだから、やはり私たちというのは市民グループの方も含めてです。やはり、40点からまた出発して、力を付けて、それを改善していくということじゃないかということですね。だから、私たちからしたらかなりしんどいところでした。松原さんとかどう思われたか聞いてみたら、がっくりきてる感じでした。

辻 そうですね。僕の記憶では、シーズは「この時はやめたほうがいい」という判断をしたと思いますね。「さすがにこれはだめだ」と。要するに、前に合意した与党3党の骨子試案の中間報告がまあまあ60点というふうになって、それを骨抜きにしたものを認めるわけにはいかないだろうと。ここは妥協しない方がいいという判断を、この時はしたと思います。

※「市民立法の最前線」から

「我々は、税制措置を(法人格付与と)同時に出すことには合意したが、自民党の出した税制措置案、即ち経企庁案の内容そのものに合意したわけではない。にもかかわらず、自民党は経企庁と協力して、この税制措置案を与党の案として税制改正大綱に盛り込もうと執拗に動いた。彼らは、今の時点では平成8年度の税制改正大綱に盛り込んでおかなければ、来年法律が制定されてからではすぐに措置できないからだと主張した。」

辻 この後、12月の与党税調で、租税措置案はさきがけの五十嵐文彦議員からだけでなく、自民党税調メンバー議員からも疑問や異論が噴出して先送りとなった、と書かれていますね。

高見 年が明けて、村山さんから橋本さんに首相が代わり、新しい政権合意の中にきちっと議員立法でいくことを書いてもらおうということで、わざわざ、年明けの1月8日3党で「議員立法として通常国会に与党案を提出することを目指す」と確認したわけですね。この後、井出(亜夫)さんという方が、経企庁の国民生活局長になられた。その方がさきがけの井出(正一)議員の弟でした。「それでもう(経企庁は)大丈夫」という話でした。だからそのあたりまでは、議員立法でいけるかちょっと心配はしていました。どこでどう動いているかがよくわからないのでね。与党プロジェクトの責任座長が五島さんから堂本さんに交代して、通常国会に骨子試案をもとにして法案をつくり合意を図ろうとしたが、年末年始をはさんでの2ヶ月の任期で、時間切れで合意できなかったんです。

辻 橋本政権になって菅さんが厚生大臣になって、さきがけの政調会長が代わるわけですね。

高見 渡海紀三朗さんに代わって、自民党政調会長は与謝野(馨)さんに代わる。渡海・与謝野になったんですよ。与党プロジェクトの責任座長は自民党の熊代議員に交代した。そこで引き継いだ自民党は、「市民活動促進法、これはどうするのか」みたいな感じで、党内調整が難航してNPOプロジェクトの現場のほうは動けなくなっていた。

辻 責任座長が熊代さんになって、自民党が前年12月に合意したはずの「市民活動促進法の骨子試案」を骨抜きにした案を提示して、プロジェクトが止まるんですよね。

高見 さきがけが責任座長のときは試案を出して、それは(プロジェクトの)テーブルに載りましたが、結局自民党さんが飲まないとだめなわけで、「自民党さんが座長になるんだったら、座長案出してください」となって、でもなかなか出してこない。プロジェクトが開かれずに党内でずっと調整していた感じでしたね。熊代さんは60点でいきたいわけですよ。でも、バックに「市民」というものを受け入れない方々がおられて、そこのオーソライズがとれないということで、熊代さんも非常に厳しくなっていて、それで出せなくなった。そういう背景があって、熊代さんは前向きだったけど、それが承認されないというところで。結局出てきたのを見たら、さきがけとしてはとても飲めない。プロジェクトとしては決裂して結局、政調に預けて一任したんですよ。

辻 通常国会に法案としてまとめられなかったということですね。

高見 5月に決裂して、政調会長に一任になって、6月から渡海・与謝野2人でやり始めて、9月に合意したということになる。

辻 衆議院解散が目前になって、急遽まとめようという話になったんですね。

高見 その時に、収益活動について低廉性が問題になりました。

辻 要するにボランティアに近いところで分けようという話ですね。そこでいわゆる特別法としての根拠といいましょうか、市民活動というものを定義したときに低廉性というのをひとつ挙げたということだと思います。

高見 ボランティアはだめだと。それを法制局に「何とかしてください」とずっと言ってたんですよ。それが言葉変えて、低廉性になったんでね。法制局は「棲み分けに必要」とずっと言ってたんです。

原田 衆議院の法制局の担当は、もう橘(幸信)さんでしたか。新進党の担当から人事異動で与党三党の担当になるんですね。

高見 そうでしたか、もうそこまでは覚えていませんが、確か途中からかもしれないですね。

辻 橘さんは、最初は新進党の法案作りを担当して、異動になって、今度は与党3党の担当になりました。例の新進党案の地域性があるでしょう。要するに棲み分け論で地域性に根拠をおいて、それで税制優遇を受けるというのは、どうも彼が考えたらしい。河村(たかし)さんはそれに乗っかったという話らしいんです。河村さん自身は、市民活動というのは地域コミュニティーみたいなところでやろうというのが元々の発想としてあるので、それでOKだったんです。我々の方はNGOなども含めていましたので、「地域性というものの定義をどうするんだ」と言ったら、「会員の半分は地域にいなきゃいけない」と言う。「その会員の半分が地域だという証明をするにはどうするんだ、住民票をきちっと出さなきゃいけないのか、それはおかしいじゃないか」みたいな話になったんですよ。それでは会員全員の住民票を出すことになるので、すべての会員の情報が把握されてしまうわけですよ。「それ、やるのか」と。するとアムネスティなんか「そんな、とんでもない」って話になるわけですね。そういう議論を結構したんです、河村さんとはね。

高見 そこで政治力学のところでやっぱり大きかったのは、民主党ができて議論が引っ張られるんですね。「引っ張られたら厳しくなるかな」と思ったら解散ということになってきて、それで自民党さんは「これはまとめないといけない」と上が思ったから、「さきがけの言う通りでいい」というように一気に動いた。さらに、介護保険法とNPO法がセットだということがあって、選挙でそれを出すということが働いて、OKが出た。だからその辺りはやはり、いろんな事情で引っ張られますね、左右されます。なかなか動かないなという感じだったのがかなり急に動いたという記憶があります。ここまでの1年は、3党が試案をそれぞれ持ち寄って、自民党・さきがけにかなり隔たりがあって、それを現場で埋めていきましたが、経企庁が出てきて自民党も引きずられて、それでまたうまく合意できないという中で、上が預かって、政権が代わって、そこで止まってしまった。そして、民主党ができて、総選挙になるというので、一気に合意が決まった。もちろん、その中に皆さん、市民団体の動きがあるんですよ。

辻 さきがけさんが踏ん張れたというのも、それはたぶん、我々市民団体の方でさきがけを支持し続けたということもあると思いますね。

高見 私たちも、そういう気持ちでやっていました。私自身は、1996年9月に与党3党が合意して与党案の要綱を作るところまで党にいて、そのあとさきがけを辞めています。でも、辞めてからも堂本先生の議員会館などに出入りして、この後もずっと関わっていましてね。(1997年)6月に衆議院は通ったんですが参議院で継続になって、ここが一つのターニングポイントで、ここから先は、私はもう見守っていただけで、全く動いていません。ここまでです。

辻 お辞めになった96年秋から97年6月までは、いろいろと動きがあった時期ですね。

高見 民主党が与党3党に参加する、しないで、絡んでくるというか、最初はようわからなかったんですよ、野党なのか、参加してくれるのか。まあ野党ではあるんですけどね。そういうこともあって4党ということになっていって、ここに書きましたけど「路線不明確」。だから時間がかかったんですよ。そういう時期があったんです。それと、やはり連立政権になると一つひとつの政策の最終責任がぼやけてくるんですね。そこが、特に民主党が入ったときに余計ぼやけましたね。つまり、やはり誰かが全体の責任を負っていないと、私たちは「ここまでやらないといけない」と言っても、向こうはやってくれるのかというところがある。信頼関係でお互い動いていく、これは市民団体も同じだったと思います。そういう責任の所在がはっきりしなくなってきて、そこでちょっと時間かかったり難しくなったりするのです。

このあたりも私は連立の中にいたので、皆さんと違うのかなと思いますが、いいものを作りたいですわね。100点を最初は目指していくと。でもそれが理想として、連立の中でだいぶ差があるわけですよ。こちらが100点やったら向こうは30点ぐらいのところから始まっているような感じですわ、自民党さんには悪いけれども。それを何やかんやと詰めていって、この時点でぐっと合意までいったわけですね。私たちは100点の中で60点ぐらいで合意したかなという感覚なんですよ。「60点だけれども、やむなし」という感じでね。そこにまた民主党さんが新たに入ってこられて、社民党は辻元(清美)さんに代わられて。そこで新しい方はそれをもっと良くしたいと思われる、その気持ちはよくわかるんですが、それに乗っかると、例えば、さきがけもそういう思いがあるから乗っかると、要するに合意が崩れるんです。そのあたりは中にいないとなかなかわからないところなんですが。

97年の4月、5月ぐらいになって、6月中に衆参で通すためには、早く4党で合意しないと間に合わないぞという時期ですね。このあたりもいろいろ動いた記憶はあるんです。もう5月の連休前に合意しないと間に合わないとずっと言ってたんです。でもそこがさっき申し上げたところで、要するに4党の責任の所在がはっきりしないわけです。その責任の所在にどういう意味があるかって難しいんですが、要はずるずるいってしまうことなんです。「いつまでに必ずやらないといけない、その責任は俺がとる」という人間がいないと、やっぱりずるずるいってしまう。私は二大政党制がなぜ良いかっていうのは、そういう責任のところだと思いますね。そういう部分がはっきりしやすいですね。連立もいいんですけど、やはりきちっと責任体制を作っていないと。いろんな関係者がそのスケジュールに向かって動いていくわけです。それをいついつまでにやるということをきちっと責任を持つ人間がどこかにいないと。それはやはり、みんなリスクを負っている部分がありましてね、働きかけをしていきますから。

だからこのときも、市民団体の方がどこかの時点で4党を支持するというPRを出してくれたんですよ。(※)この場合で言うと4党案と新進党案があるわけで、その中で「4党案を支持します」ということを、確か700か800の団体が、かなりの数の署名を集めてきた。これが大きいわけです、私に言わせれば。単に「議員さん、頑張ってください」じゃなくて、ここまで言ってくれているのだから、逆に言うとものすごい働きかけを市民団体の方々もやっていただいているわけです。だからそれはリスクなんですよね。だったらそれができなかったら誰が責任とるのかというところが非常に不明確だったわけです。経済界もやっていましたしね。

辻 経団連ですね。

高見 ええ。経団連は田代さんが窓口というか、一番やっていただいてましてね。やっぱり財界の中でも働きかけをやっていただいているわけです。詳しくは私らにはわかりませんでした。

※高見年表より

5月22日 与党3党と民主党が「市民活動促進法案」の共同修正を合意

5月25日 市民団体代表が緊急アピール「市民活動の促進法案の修正に関する4党合意を支持し、速やかに国会審議に入ることを要望する~今国会で成立を~」を発表

高見 そういう4党で委員会(衆議院内閣委員会)を通すというその日に、1997年6月の3日か4日か忘れましたけど、新進党が突如として妥協してきたんですね。

辻 昨日、実は当時衆議院法制局の橘さんにインタビューしたんです。まさにそのときの話が出ました。6月4日に河村さんが突如として、附則に税制の検討を入れることを条件に与党案に賛成すると申し入れてきたとか。

高見 それに乗った瞬間に(今国会成立が)崩れたということです。それは壊すためにやったんですよ。

辻 昨日の話では、自民党の当時の御法川(英文)さんという内閣委員会の座長が、「そういうふうに急にやるんだったら、1回持ち帰って、自民党の政調会長なんかのOKをもらってやりましょう」と。で、政調会長にコンタクトとろうとしたんだけど、結局つかまらなかった。で、橘さんは「大蔵省に神隠しにあったんではないでしょうか」という話をされていましたね。そういう話があって、御法川さんは、結局は泣く泣く河村さんとの約束を蹴ったというか、駄目になって、与党3党と民主党の賛成で衆議院を通したと言ってました。高見さんの年表のメモでは、「6月4日 法案の附則をめぐり新進党が審議拒否。委員会は空転」とありますね。(※)

※高見年表とメモより衆議院内閣委員会の審議状況

5月28日 与党案及び共産党案の提案理由説明(新進党は欠席)

【理事間協議で公聴会の開催を決め、新進党が審議入りに応じることで合意】

5月29日 新進党案の提案理由説明、審議開始

6月2日 大阪公聴会

6月3日 東京公聴会

6月4日 与党と民主党が「市民活動促進法案」の修正案を委員長に提出、趣旨説明(新進党は欠席)

6月5日 新進党修正案提出。与党3党と民主党共同修正案提出。新進党修正案、共産党案否決。与党  3党と民主党共同修正案可決。

6月6日 衆議院本会議、与党と民主党共同の「市民活動促進法案」可決。

高見 私は河村先生をあまり評価していませんから、はっきり言いますが、理想案を出すことで壊すという手もあるんですよ。それはやはり、今言った政治力学でいうと、こう来てここでやっとまとまっているわけです。それを動かした瞬間にばらけてまた戻ってしまう。それを一番、私は心配していました。だから、辻元さんが入ってこられたときも、民主党を入れて4党で修正が始まったときも、一番私は心配したところです。総選挙の後に新政権できて、彼女が頑張られることは、私たちは理解できるんですが、壊れかねないなというのをずいぶん心配しました。でも基本的に3党の担当者は、与党3党合意案を基本として、ちょっと修正は入ったと思いますが、改善されたと思う。それはある意味、新しい民主党が参加してきてくれたことによって、与党案についてよくわからないところがはっきりしてきた。

そうしたらNPO担当者だけじゃなくて政調会長レベルでも、民主党の要望もある程度聞き入れようという、そういう環境になったから、60点が70点ぐらいになったと思います。ちょっと、どこがどう良くなったかも忘れましたがね。でも最後の心配は、この新進党との駆け引きだったわけです。必ず市民団体の方々に対して、河村さんはずっと税制も含めた法案を出して、理想の案はこっちなんだ、与党案はそうじゃないということ言っておられました。それに賛同している方もいらっしゃったと思います。その中で彼が意図しているかどうかは別として、私は、「やってきたな」という感じで、「絶対に乗ったらだめ」ということをずっと言ってました。

最終的にはまた正常化したんですが、そこで2日ぐらい遅れたんですよ。それで河村さんも最終的には諦められた感じですけども。正常化をしないと、強硬にいくと、参議院でスムーズに流れないというのがありますので、そこは待ったわけです、与党としても。自民党さんが1回「待て」になったわけですね、オーソライズする側が。こっち側の現場はよかったんだけど。で、「あらら」ってなりましたが、「それは待つしかないね」ということになった。まあ(国会の)日程が6月18日までになったので、6日だったでしょうか、衆議院の本会議は通して、そこから参議院に送って吊るされたんですね。それは政界の、政治の対決の中での、沖縄関連法案とかとかいろいろあったと思いますけど。そういう中で吊るしにあったまま最終的に継続になりました。吊るされてほぼ廃案というのも、私たちの中ではかなり心配があったんです。それをどう動かすかという、最後の最後の、ほぼ10日間ぐらいですかね。内部でみんなも必死にやっていた記憶はあります。でもなかなか動かないから、難しいなっていうのはありました。

日程的に吊るされて「成立は非常に厳しいね」となって、「できなかったら責任は誰がとるの」ということに、公にはなっていないけれど仕組みとしてはなっていたんです。これはどう言ったらいいのか、やっぱり経団連にしてもこれだけのことをやっているんだというのがあったはずなんですよ。成立をさせるという方針で、トップの方も含めて根回しもしていただいていたと思いますしね。それができなかったらやはりどこかが責任とらなかったら、「何や」という話になるんですよ。そのリスクが全部、他の人に責任が及んでくるということです。

ですから、実はこれも私、もう日も覚えてないんです、6月10日か12日、そのあたりだったと思います。動かない中で、「国会の方はどうするのか」ということが言われたんですよね。それはとにかく覚えてるのは、田代さんがおられ、松原さんもいたと思います。私がいて、あとは誰がいたか、覚えてないですね。夜集まって、どこか飲み屋さんか忘れましたが、「おまえ、どうするんや」って言われましたんよ、ええ。本当にはっきり言われましたよ。「待ってくれ、とにかく動いてる」とこちちは言うんですが、「動いてないじゃないか」と言われる。まあ実際に止まってましたからね。でも、こちらもこちらの手続きがあるから。何というか、限界もあるんですけどね。でもやはりそこで私は「ああ、責任の所在がないな」ということをすごく感じましてね。つまり議員側にはなかったと思います。はっきりこの連立政権合意事項の中で「今国会で成立させる」って言い切っていましたのにね。

辻 高見さんの年表では、「96年10月31日第2次橋本内閣の3党合意:3党においてとりまとめた合意事項に従い、議員立法として次期通常国会に提出し成立を図る」とありますね。

高見 「議員立法として次期通常国会に提出する」と、さきがけは言い切っていましたからね。これが政治公約です。それができなくなってきたという状況で、もう詰め寄られたわけです。それは当然だと思います。もう、言いたいこと言わなあかんようになったからです、お互いに。松原さんだって相当必死でやっておられたと思いますし、ここまで取りまとめていただいたわけですよね。田代さんはどこまでやっていただいたかの情報はあまりないけれども、いろいろやっておられたと思いますよ。それは財界ですから、自民党の幹事長とかそれぐらいまで働きかけはしていたと思います。

さきがけとしてまあ頑張ってはきてるけれども、要するに、何とかぎりぎりまで頑張るって言っても、「信用できない」って言われましたから。「政治家なんか信用できない」って言われましたからね。まあ、確かにそういう歴史かも知れないけれども、やはりそれではこのあと、例えばその後に何かまたもし廃案になったとして、また一緒に頑張っていけるのかということです。もうこれは無理だなっていう感じでした。そこまで言われてきついけれども、こっちとしてはやはり合意している以上は、やるって公約してるわけですから、それは言われてもしょうがないということで、通常国会で成立する責任をとれないなというところで、私はもう党のスタッフじゃないんですが、党員でしたので、「党員として抗議」という言い方が微妙なんですけど、「でも責任は取れませんね、このままでは」ということで、「抗議をしますよ」ということで、そういうこと(国会前でハンガーストライキ)をやりました。そこに話を聞きに議員も来られました。自民党は来られませんでしたが、辻元議員も来られたし、新進党の河村さんも来られました。私は、辻元さんには「こういうふうに遅れましたね」と。やっぱり、ずっと言ってきたんですよ、「遅れないようにして欲しい」と。でも最後にいいものを作りたいというのもわかるけれども、やはり乗ったらあかんものに気持ちが乗ったら、やはり崩れるんだということをわかって欲しかったですね。河村さんにも「市民のために」と言っておられるのだったら、やはりそういうやり方は違うんではないですかということは言いました。まあ認めてもらえませんけれどね。私としては河村さんは今後もどういうことをされてくるかわからないから、くさびを打ちたかったんです。だから「私は離れるけれどもちゃんと見てますよ」ということかな。じゃないと、一般の方にはわからないことなんでね。私たちの中では彼はそういう手法でやってくるだろうというように思ってましたんでね、実際そのようにされましたし。

河村さんとは、そんなに直接はお話していないんですけれど、いろいろ言動を拝見していたら、やはりみんなのためにやっていこうという感じが見えないので。やはり「自分がNPO法案作ったんだ」みたいな、だから「それをすぐ出してそれをやったらええやんか」というような感じでしたが、私たちはそういうプロセスが大事だと思ってましたからね。だから(市民団体と)一緒に作っていくというところ、これは常に考えていましたので。それがよかったと思います。やはり最後、(市民団体から)4党案を支持していただいたのはそういう積み重ねでいったからだと思うし、でも河村さんを支持されていた方もいらっしゃったと思います。

辻 いますね。特に税制優遇を一緒にくっ付けていたので、親子劇場とか、地域で収益事業をもっているところは支持していました。

高見 まあ、気持ちはわかるんですけれど。でも私から言えば、やはり河村さんたちのやり方が悪いと思う。まあ、最後のとにかく6月4日か5日に、私はもう絶対やってくると思ってましたからね、絶対それは仕掛けてくるというか、そう思って待ちかまえていましたよ。

辻 そうなんですか。だいたい読めていたわけですね、河村さんがやってくると。

高見 それは議論をずっとやっていたら、やっぱり、わかるんですよ。どうしたらこうなるかということは。ええ、それは何回もありましたから、実際。だから、やはり政治力学がわかっていたら、それは危機管理をしないといけないわけです。だから私は、辻元さんは立派な議員さんだ思うけれども、少なくともこの時はわかっておられなかったですよ、そのことが。だからずっと危ないと思ってました。彼女が頑張れば頑張るほど合意がぶち切れるという危険を、私は、堂本さんももちろん思っていた。絶対乗らないということは決めてましたね。でも最後のやっぱり審議のところで、今度は新進党が、税を1つの分裂作戦の切り札としてどこかでやってくるだろうと。でもそれが最小限の混乱で済んだことは、よかったかなと思いますが。(河村さんは)まあそういうことを、たぶん分かってされていると私は思うから…。だから信頼できないですよ。

本当に市民のためを思っているなら、皆さんがどのように成長していくかというと変ですけど、レベルアップしていくかということがすごく大事なわけですよね。できないことを夢見させるのは、最初はいいです、最初は100を目指しても。でもやはり、途中段階でできないことを、夢見させるというのはやっぱり、やり方としては問題がある。それに、乗っかった人もかなりいると思いますよ。でもできないんですから。彼が与党だったらいいですよ。でも野党だったら絶対できない、誰かと協力しない限り。ということは、できないことを見せているわけですよ。そういう政治なわけですよ。

だから衆愚政治というのはどういうことか、いろいろありますけど、このときのことは、そういうものの一つだったんです、私から見たら。やはり一般の人は、いい方に行きたくなりますから。でもその瞬間にゼロになりますけどね。だからそういうことを、今の国会議員の方々もちゃんとわかってやっていただいてるのかなと、最近いろいろ疑問に思ったりもしますけどね。がちゃがちゃまとまらない。そういう何かまとめていくには、関係者も含めて、やはりクールにどこかに持っていかないと。最初は100を目指したらいいけど、そこから交渉が始まったら、やはりどこかで説得というか、「ここでいこう」というように意見集約をしないといけないと思っていましたんでね。まあ、与党の中ではそれがそれなりにできていたと思います。

辻 松原さんはじめ、僕らもシーズの中でずいぶん議論もしましたけど、そういう対応は結構知ってたんですよ。シーズは立法にあたって、準則(主義)と、所轄庁の監督は情報公開で対応するのと、あと税制優遇と、3つの原則を立てたんですけども、税制優遇のところはやっぱり違いますんでね。国税相手になってしまうから税制はともかく難しいので、これは切り離してまずは法人格をとった方が先だろうという話を当初からしていました。

高見 相手も強力ですしね。

辻 はい、だからそこで結構、さきがけとは波長が合ったと思いますね。

高見 彼(松原さん)を中心にうまく世論形成というか、やっていただいたとは、常に感じていましたね。

辻 さきがけさんはそういうスタンスを当初から持っていたというのが、逆に言えば、社会党はなかなかそういうのはできないところがあるじゃないですか。だから、さきがけは今までの社会党、自民党、あと共産党と公明党がいますけども、それとは違う政党だっていう印象がありましたね。

高見 そうですね。責任感はみんなあったと思います。そこがもうすべてのポイントで、そこからやっぱり判断をしてね。まあ社民党さんには申し訳ないけれど、100目指していくのはいいんですよ、でも交渉したらいきませんよ。そのとき最後にいつも「相手がろくでもない」と言って、みんなでワーって言って蹴っ飛ばしてきたりしても、現実を見たらゼロじゃないですか。こういうやりかたはよくない、と。それは時代のものかも知れないけれども、さきがけは政策実現に責任を持つという、そこの根っこがあったと思いますよ。それは、自民党さんから来てる人もおられるし、その方々はそういう意識が強いですね。やはり自民党は経験を持っているから、今までの経験の中でそういう責任を踏まえた発言・調整というのはどういうものかということを、やはりある程度経験として持っておられる。初めて与党に入られた方は、いっぱいいらっしゃっるけれど、それはそこまで(経験が)ないから、できるだけいい政策を実現したいと思う。それはまあ当たり前なんですが、そのプロセスまではわからないわけですね。だから、さきがけはそういうミックスで、でもやっぱり政策実現するということが文化として根っこにあったと思いますね。みんなそういう視点で動いていて、逆に言うと、中で喧嘩じゃないですが、侃々諤々やりながらやってましたね。運もよかったと思います、いろんな意味で。

辻 政治の力学はあの時期、日本新党が出てきて細川政権が出てきて連立になって、だいぶ変わってきましたよね。

高見 昔の自社の時代とは、もう全然違うから。

辻 自社の人たちも、今までのやり方ではなかなか通用しなくなってきていることを、この辺からかなり自覚をし始めていましたよね。だから結構柔軟に対応するところがあって、それが自民党の中でも加藤紘一さん始め、そういうことが通るようになってきたということで、4、5年前だったら、NPO法案はたぶん通らなかったと思うんです。

高見 それもやはり、市民団体の方が加藤さんにはだいぶ働きかけをされたと思いますし。とにかくそういう関係者の動きの中で、ガーッと動きながらいったなあっていう感じですね。

辻 たぶん加藤さんには、山本正さんの影響が非常に強いと思います。

高見 やはり経団連もあったと思いますよ。それは、どなただったか忘れましたけど。

辻 去年2回、当時の経団連の関係者に座談会的なインタビューをしたんですよ。

高見 田代さんもいらっしゃいました?

辻 田代さんは、98年に法律できてから間もなく、急死されたんです。あのとき動いた方で、若原さんという経団連の当時のNPO関係ではトップの人も亡くなっていました。

高見 そうですか。それはちょっと知りませんでした。彼が「(政治家は)信用できない」と言っていたのが記憶にあります。ずっと怒っておられましたね。

辻 田代さんは、結構過激なんです。シーズで「我々よりなんで経団連のほうが過激なんだ?」って話になったことがあるんですけど。結構、曲げなかった人で、「60点でもだめだ」と言い続けた人ですから。

高見 いろんな政党なり市民団体なり財界なりが動いていく中で、私としては繋ぎ役みたいなところにおりましたので、そこを常にどういう関係になっているのかみたいなことを考えながらやっていました。そういう理解の中での政治力学をかなり関心を持って見ていたつもりです。例えば市民団体の方は違う感覚でいらっしゃっても、私はこちらの政治力学を考えたらそれでいいんじゃないかと思っていたりとか、だいぶそこは違うと思うんですね。その辺をやっぱり知って欲しいなというようなこともあって。時期が違ってますよとか。それは皆が完全な人間じゃないですから、批判ばかりしたらいけないのですが、やはりどうだったかなとか。さきがけの議員にもかなり批判した方もいたりしてますんでね。だいぶ力が入っていましたよ、当時は。その辺は今でも感じます。やはり、私も今はオフィシャルな人間ですから、それは大事にしていまして、それは議論の仕方とかね。正直、私たちのまちの中でも、代表者でありながら「なんということを言うのか」というような方もおられるんですけど、やはり代表者は代表者なんですよね。だから「その話はそうなんだ」と言って、やはり聞くところから始めないと、私はいけないと思っています。受け入れるわけじゃないんですが、受け止めるというんですかね。

そういうところがやはり、さきがけの中でもできていないことがたくさんあることで、そのことが全体の闘いの中で難しくしていく。闘うためにはまとまっていないといけない。会社でもなんでもないんですよね、みんなそれぞれが自分の責任で判断していくのが政党ですから、ある意味いろんなものを背負って動いているわけで。やはりそれが「何言ってるんや」とかそういう話じゃなくて、まず「そうなんですね」っていうところからやらないと合意っていうのはうまくできない。そういう意味でさきがけの中でそういう保守系の人もいらっしゃったし、もともと自民党から離党して出てきた方もいましたので、そういう部分の自民党の方と近いような方もいらっしゃったし、日本新党から来られたような方もいらっしゃったりとか、社民党系の方もいらっしゃったりとかで、その辺がよかったのかなあと思うんですよね。やっぱり偏っていたら、たぶん連立の中で合意形成は難しかったんじゃないかなと思うわけです。その辺、特に、最後預けられた渡海さんのときに、私の記憶では渡海さんはだいぶ自民党寄りみたいな感じで市民団体の方からは見られていたなと思うんですが、それはそれで議論をする中でうまく関係作りをしながら、さきがけの堂本先生の意向をいかに反映していくかというところは頑張っておられたなあと思いますね。

今でもそういうことを常に行われながら政治は進んでいると思います。だけど、責任というところは常に大事で、たくさんの方が関係してひとつの目標に向かって、ある程度の日程というか、必要だからやってるわけだから、いつでもいいというわけじゃないわけで、「いつまでぐらいにやろう」という中で政治が約束していくわけですね。その約束を果たす責任は誰が負うのかということですよね。もちろん、それは3党合意だからトップなんだけれど、実際はトップの人がそんな末端の動きを全部把握しているわけじゃないですから、やはりいろいろなポイントで責任というのが問われたなっていうことがありますよね。

辻 NPO法は初めての試みで、我々もそうなんだけど、先がどうなるのかがよく見えなくて。どの辺で折り合いを付けるという判断基準が全然ないわけですよ。だからそこが一番難しかったですね。

高見 実際、政治の方も連立政権で、8党立てもあったけれども、その反省も踏まえて、自社さ連立ではかなりきちっとした政策決定システムを作ったわけです。それはある意味、議会の審議の中じゃなくてその事前審査ですね。だからそれがどうなのかということもあるんだけれど、でもやはりそれなしに、なかなかできないと思うんですよ。議会の中だけで、国会の中での議論だけでは。だから、それのある意味で試みでもあったんですね。人数が少ないから、メンバーがいろんなプロジェクトがあって、掛け持ちなんですよ。

辻 高見さんだって、7つ8つ掛け持ちしていたのではないですか。

高見 議員が掛け持ちで、結局出れないときとかあるわけですよ。出れないときに決められたらアウトなんですよ。

辻 議員が出られないときは秘書とか、政調のスタッフは出ないといけないんですよね。

高見 そういうのでなかなか厳しかったですね。やはりある程度人数もいないと、いろんな政策を連立政権でやっていくはのできないなあと思いましたね。要するに、重要な政策とそこそこの政策とあって、私ははっきり言ってNPO法をメインにしていましたけれど、そういうNPOプロジェクトの上に政調があって、またその上に院内総務の会合があったりして、いろいろな(意思決定の)手続きがいろいろありましたわ。

辻 連立はそういう意味ではやはり大変ですね。スピーディーにはいかないですね。

高見 でもそれをやらないと、結局、実行する段階でバラけますから。やはりそこに責任者が誰かをきちっと決めといて、その中で議論をしながら決定していく。事前審査・事前決定なんですけれど。ある程度はそれはしないと、いざ法案を採決する段階になってああだこうだ言うというみっともないことはできませんね。ですから、自社さは結構いい制度を作っていたなとは思います。

辻 細川政権の8党連立の反省なんでしょうね。

高見 反省が入ってました。それでかっちりと、要するに文句を言えないような、こういうシステムですね。さきがけは部会長と副部会長とメンバーを決めて、連立で3党の調整会議があって、これも全部決まっていた。だから、それぞれの調整会議があって、そこに自民党が何人、さきがけは1人か2人ですかな。だから例えば、座長はいつ回ってくるかとか全部決まっているわけです。座長はいつさきがけがやるか、その時期に何をしないといけないかがわかる。

辻 座長は結構、いろいろと進行できる、リードできるわけですね。

高見 放っとこう思ったら放っとけてしまいますから。まあ、そういうことで、やはり連立政権としてだいぶ、さきがけも組み込まれた以上は、いろいろ手分けして埋めて。それでもやはり掛け持ちになって行けないとか、そういうのがNPO法でも途中で1回あったんですよ。経企庁が動き出して、とにかく自民党がそれに乗りかかってきて、「これはヤバイ」というところで何かの会合があって。「そこに行ける行けない」とか言ってだいぶやっていた記憶がありますね。

辻 本日はありがとうございました。